オムニバス短編・ゆきこさん編
穴
その人の名も「ゆきこ」だった。
人が一番関心があるのは、自分自身だという。
数あるYouTube動画の中からたまたまそれが目に留まったのは、自分と同じ名前だったから、という単純な理由によるものだろう。
人生はそんな「たまたま」の連続だ。
南国の島で生きているユキコが、遠く離れた都会で生きるゆきこと、インターネットを介して一期一会する。
詳しい話は覚えていないが、「ゆきこさん」は言った。
「もっと、自分自身の人生、生きていいんだよ」
時を重ねた女性の、ハッとさせる力強さがのぞく、美しい笑顔だった。
朝5時。夢で目が覚める。
サラサラの髪をかき上げる仕草。
久しぶりに、彼と、夢で出会った。
彼と結婚していたら、どうなっていたのだろう。
いつかラジオで、誰かが言っていた。
自分の人生には、穴がある。
一度できた穴は、無くならない。
その奥深さは驚くばかりだけれど、穴をのぞき込むたび、僕は成長する。
穴は、僕自身の一部となったんだ。
わたしにとって、彼との経験は穴だ。
それをのぞく頻度は減ったけれど、穴は無くならない。
のぞく度に起こる胸騒ぎも、穏やかさと安らぎと甘酸っぱさに少しずつ置換されながら、永遠に無くならないのだろう。
穴は、わたしの一部となっている。
脳波
人の脳波は、リラックスしている時にアルファ波となり、緊張したり考え事をしているとベータ波になるという。
人に限らず、全てのものが波動を持つ。そして、人は波動の影響を受ける。
落ち着いてリラックスしている人の脳は、アルファ波を出している。そんな人と一緒にいるだけで、自分も落ち着くことができる。イライラしている人からはベータ波が出ている。近くに行くだけで、自分も緊張する。考えてみれば、日常的に起こっている出来事。
自然は人をリラックスさせる波動を出している。
本当に自然の中へ行かなくても、写真を見たり、せせらぎの音や鳥のさえずりを聞いたり、木の香りをかぐだけで、人の脳波はアルファ波になる。
人間のパフォーマンスは、アルファ波の時に上がる。
リラックスが大切なのだ。
なので日常的に自然に触れたり、落ち着いた人や環境に触れ、脳波を整えるとよい。
そんな話を聞いて、今さらながら、自分の生命力に感嘆する。
彼から自分を引き剥がすようにして、わたしは遠い国へ行った。
土と出会い、木々や草と遊ぶようになり、石を押し転がし、わたしは強くなった。
どこでもよかったはずだった。
選んだのは、追い付かれないくらい遠く、清々しいほど孤独な場所。
そこで、わたしは癒された。
それから、恋に落ちた。
故郷に帰ることを決めた漁師の息子にくっついて、わたしはこの島へたどり着いた。
アルファ波に満ち溢れたこの島に。
気づいたらわたしは、毎日土と水に触れ、食を自然からいただき、潮風で肌を潤し、鳥の声を聴いている。
朝日を眺め、深い深い夜空を眺め、霧に抱かれている。
記憶
ためらいは、過去のネガティブな記憶による「足かせ」である。
「もっと、自分自身の人生、生きていいんだよ」
ゆきこさんは、言った。
自分自身の人生を生きるために、人は「足かせ」を外さなければいけない。
それ以前に、「足かせ」があることに気づかなければいけない。
自分自身の人生というのは、自分らしい人生。
自分らしい人生というのは、自分に正直である人生。
だけど、自分自身に正直になるということが、記憶に邪魔されて、なかなか難しい。
癒されたと思っていた。
そして、それは多分、間違いではない。
ただ、癒しは少しずつ「学び」へとすり替えられ、学びは永遠に終わらない。
ならば、癒しも永遠に終わらない。
人は、永遠に癒される。
彼と結婚していたら、わたしはたぶん、いや99.99%、この島には行き着いていなかっただろう。
どこか都会で、相変わらず夢を追いかける彼を支えながら、彼との子供を育てながら、それはそれで幸せだったかもしれない。
でも、土に出会わず、自然から遠く離れた都会暮らしを続けていたとしたら、虚弱なわたしはあっけなく、淘汰されていたかもしれない。
そもそも。
起こり得なかった結婚だから、考えること自体がバカげているのだけれど、考える度に、自分の「具合」が分かるのだ。それが永遠の癒しであり、学びなのだと思う。
あの頃、自分に正直だっただろうか。
若くて、痛々しくて、怒りに満ち溢れていたけれど、あの時々の自分にとって精一杯、正直だったと思う。
上手く言えなくて、傷つけ合って、決してスマートではなかったけれど、わたしたちは精一杯生きていた。
彼が大好きだった。幸せでいて欲しかった。
今なら、分かる。分かるだけじゃなくて、たぶん、もうちょっと上手くやれるかもしれない。
彼が幸せじゃなかった時、それはわたしが原因だったのではなく、彼自身が何とかしなければいけなかったのだ。
今なら、分かる。
わたしがすべきだったのは、自分のせいだと請け負い過ぎることではなく、ただ彼を、彼自身の生命力を、信じることだった。
若かったわたしには、それができなかった。
彼が幸せかどうか、気になって気になって仕方がなかった。
それは、裏を返せば「彼は幸せだ」と、決して信じられなかったから。
彼を信じられていなかった。
そして、それはそのまま、わたしが自分自身を信じていなかった、ってことでもある。
なんてことだ。
彼を幸せにしてあげられる自分、なんて、これっぽっちも信じていなかったのだ。
今、やっと分かった。
自分らしく生きること。自分に正直であること。
それはそのまま、自分自身に敬意を払い、丁寧に向き合い、大切にする、ということ。
自分を信じる、ということ。
気づき続け、楽しみ続け、生き続けること。
大切なものは、何気なくそこにあり、優しく、強い。
朝の光は毎日、わたしが眠っていようと、待ち望んでいようと、変わらず差し込んで来る。
潮は満ち引きを繰り返し、ガラスのかけらを優しく研磨していく。
朝露は足元を濡らし、静かに大地を潤す。
恐れることなかれ。
静寂のなか、声は、天からか、内からか、聞こえてくる。
彼はきっと、しあわせだ。
わたしがいなくても。
今なら、信じることが、もう少しできると思う。