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オムニバス短編・由美子さん編

待ち人

どれだけぶりだろうか。
彼の気配を感じる。

彼は、夜中にこっそりとやってきて、眠っているわたしの横にそろりと滑り込む。
大抵の場合、わたしはそれに気づくのだけど、寝ているふりをする。
彼はぬくもりに安心したように、ゆっくりと体をゆるめ、目をつぶる。

こんな夜を、いくつ過ごしただろう。

どうしていいか分からずに、わたしはただ、そこで息をひそめて眠っている、あたたかで静寂な物体に徹した。
夜に包まれウトウトしている獣たちを、うっかり起こしてしまわないように。
奥底でじっとしている痛みを、わざわざ突っつくことがないように。
夜が明ける頃、彼はそっと去って行く。

彼がやって来る頻度はだんだんと少なくなり、もう来ないのではないかと思うようになり、やがて「彼が来るかもしれない」という発想さえ起らなくなった。
それはお互いが、お互いを必要としなくなったということかもしれない。
どちらもが、日常に忙しく埋め尽くされるようになったのかもしれない。
獣たちは年老いて、のんびりと余生を過ごすだけになったのかもしれない。


It’s been a long time.

今夜、わたしは一人ではなかった。
隣には、パートナーがぐっすりと眠っていた。
彼は遠慮がちに、自分が潜り込むすき間をそろそろと探り出す。大柄なパートナーとわたしの間には、彼が入れる空間は、なかなか見つからない。

しばらく迷った末、わたしは意を決し「たった今気が付きました」というふりをして、目を開ける。そして、ゆっくりと彼の方を向く。
彼は、はにかんだような笑みを浮かべている。

眠っているパートナーを起こさないように、わたしはそうっとベッドを抜け出す。彼を手招きし、寝室から居間へと移動する。家族を起こさないように。


「どうしたの?」

その顔は穏やかで、久しぶりの会話を嬉しく思っているようで、それはわたしを安心させてくれた。
彼は、ささやくように話し始める。

離婚したこと。
娘が3人いること。
前の奥さんが、子供のことをちゃんと面倒見れているか心配なこと。

どうしているかと思っていたが、ちゃんと結婚して子供も持ったのだと感心した。
離婚という運びになったことは、もちろん残念なことだけど、子供を深く愛しているのだろう。そして、娘さんがパパの面倒を見る年ごろになったのだろう。

それから、彼は付け足すように一枚の紙きれを取り出し、サインをしてくれないかと言う。
それは、かつてわたしと一緒に作った作品の、使用権利を認めるという内容だった。
どうやらそれがプロモーターの目に留まり、商業として使いたいが、わたしにも製作者としての権利があるため、後でややこしいことにならないよう、きちんと契約をしておきたいということらしい。

「君にも印税の40%が入るから」

彼の成功を嬉しく思うと共に、この紙切れと印税で、今後も彼に繋がることが少し煩わしくも感じた。
今になってわざわざ、こんな遠くまでやって来たのは、結局お金のためだったのか、という興醒めな感覚も、わたしの意地を刺激した。

「もういいから。全権譲ります、ってことでいいよ」

実際、わたしにはもう、遠い世界だった。今さら何の関係もないし、関わりたいとも思わなかった。彼はそれでも、40%は取って欲しいと言い張った。その気持ちが嬉しくもあった。

やっと、子供とか離婚とか仕事とか契約とか、そんな話題について、穏やかに話し合えるようになったのだ。
もう、寝たふりをしなくても、こうやって普通に話せばいいのだ。

それは、わたしをひとつ、自由にしてくれた。


祈り

夢が、物語のように、勝手に発展し続けている。

彼が今、どこにいるのかも、わたしは知らない。何をしていて、結婚しているのか、子供はいるのか、生きているかどうかさえ、知らない。

彼が本当に、あの「彼」であり、特定の人間なのかも、もはや分からない。
彼はもしかしたら、複数の誰かが合わさった象徴なのかもしれない。
彼が特定人物なのか集合体なのかは、結局どうでもいいのかもしれない。

ポイントは、彼とわたしの関係が、発展し成長し続けているってことだ。


闇は、音と匂いで出来ているらしい。
根源的な愛の世界は、光ではなく闇であり、だから闇という漢字の中には「音」があるという。

わたしたちの間には、いつも音楽があった。
喜びも、悲しみも、痛みも、逆らい難い惹かれ合いも、全部歌おうとしていた。
歌えなくなった時、わたしは旅に出た。

長い旅を経て、歳を取って、歌は祈りなのかもしれない、と思うようになった。
歌も、想いも、つまりは祈りなのかもしれない、と。


「人は、最初に歌った」

言葉を持つ前から、人は歌った、とその人は言った。
人間から直接発せられる声と声、それが重なり合った時の、圧倒的なパワー。
それは、人間の根源から発せられるパワーなのかもしれない。


たとえ、何一つ出来ないとしても。
遠く離れているとしても。

あなたが幸せでありますように。
愛されていると感じていますように。
一人じゃないと知っていますように。


彼を信じることが、わたしの祈りであり、祈りは、ふたりを成長させる。
溢れ出すものを、声に。形に。

そうやって、少しずつ、寝たふりをしなくてもよくなっていく。
きちんと闇に向き合って、闇と踊ることを、学んでいく。



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