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仁政の人〜長州藩士奥平謙輔〜②   

“謙輔様‥私は謙輔様の事を…”
何やら女の声がしたので、どこにもその姿はなく、“おい!どこにいるんじゃ〜”と草むらの茂みを念入りに探したが、見つからなかった。歯軋りしたら、そこで目が醒めた。
(絵が入る)

【夢だったか。あれは一期一会じゃろ、僕はそねえな(そんな)事より国家の行く末が大事じゃけぇ】


馬関(下関)戦争は、結局エゲレス【英吉利イギリス等】に下関前田砲台等を占拠されて、長州藩は大敗を喫してしまった。
1853年にペリーが来航した事も含め、外国勢力(欧米)の強さをとてつもなく見せつけられた、これは衝撃的な出来事で、謙輔含む長州藩士の胸の内はどうだったか。“確かにエゲレスやらの力には歯が立たないが、こねえな力を見せつけられてはどうしようもない、神州(日本のこと)やられてしまうかもしれんな”
謙輔の頭の中から、あの日料理屋で出会った美しい女給仕、オヨネの姿はすっかり抜け落ちていた。続く


時は変わり、大変な事があった。長州藩の逸材である、久坂玄瑞と寺島忠三郎、入江九一等の松下村塾門下生が、1864年(元治元年)の禁門の変で自刃、来島又兵衛が討死、池田屋事件(朝廷の天皇を移して〜という池田屋ていう旅館で肥後の宮部鼎蔵を筆頭に密談が行われているのを嗅ぎつけた新選組が襲撃をかけた事件)で幕府側の新選組により長州藩士の吉田稔麿が闘死、杉山松介が敵側に左手を斬り落とされた事により命を落とすという大惨事が起きた年でもあった。貴重な長州藩士の逸材を幕府側により沢山失ったことも大きな悲しみと幕府に対する恨みを買い、これも約260年続いた幕府を倒すというエネルギーにもつながった。これらの出来事が全て、戊辰戦争といわれる、幕府側(徳川幕側の会津藩や新選組等など)や幕府を倒す倒幕側(幕府体制を倒す側。長州藩士や薩摩藩)同士との戦いに発展。国内の大きな内乱の1つとなったのだ。(※謙輔が禁門の変に参加していたかは記録があまり残っていない。おそらくは、長州藩兵の一員で参加はしていたかと推測される。)
1866年(慶応二年)、謙輔は長州藩の干城隊(かんじょうたい、中級武士階級などで構成されといる)に参加、翌年には同じく干城隊の引き立て係になり、とんとん拍子で昇格した。今や立派な参謀となった。
謙輔、佐世八十郎(のちの前原一誠)楢崎頼三等は倒幕側として戊辰の役に参戦しており、長岡、新潟、米沢等各地で転戦していた。
1867年(慶応三年)10月14日、ついに世の中では、旧幕府の政権が倒れ、朝廷に返還、いわゆる大政奉還となった。1868年(明治元年)謙輔や佐世八十郎(改名後に前原一誠)等倒幕軍(長州藩や薩摩藩)が鶴ヶ城に向けて進軍する途中の会津坂下(今の福島県会津坂下町)で、会津藩の降伏を知った。降伏を申し入れたのは会津の秋月悌次郎だとわかった。
(※この頃、秋月悌次郎殿は会津の猪苗代湖に謹慎中だった。)





会津の秋月悌次郎、新潟に赴任中の長州藩参謀奥平謙輔に変装した姿で対面をする場面。(今だと、ある意味サプライズ。)場面は中村彰彦先生の【落花は枝に還らずとも下巻に記述の場面からイメージして描かせていただきました。🙇】


その頃の謙輔は、新政府の樹立後、1868年(明治元年)11月に今の新潟県佐渡島に越後府判事参謀兼民政方としてやってきた。というのも、同じ土原出身の佐世八十郎(前原一誠)に謙輔の功績が認められ、相応しいと推薦された為であった。佐渡という地は、幕府が倒れた後も、官軍(倒幕側)に反抗するという可能性がなきにしもあらずだったので、壬生総督が干城隊参謀リーダー格の前原一誠に相談した結果、謙輔が選ばれたのだ。
人一倍真面目で、ふざけたところがない謙輔。28歳で若い謙輔は、最初は初めての業務に四苦八苦していたが、慣れて行くにつれ、佐渡島全体に自薦他薦関係なく、才能や長所を持っている者を地元の政治に参加させるという布告を出した。また島内に今でいうと投票箱を設置して、新政府に対する意見を投函せよと奨励した。(会津人群像第13号“会津人を救った長州人前原一誠と奥平謙輔”より引用)
高い年貢の事を知り、心を痛めたりもし、地元民の為に年貢半減令を出したり、一方では、不正を働く者や、民から受け取った金などにだらしない僧侶や寺社に対して、徹底的に厳しい改革を行った。他人を痛めた役人を懲らしめるなど厳罰主義を貫いて“鬼参謀”として一躍有名になった。謙輔は曲がったことが大嫌いで、人一倍正義感が強かったのである。





民の為にも、がんばるぞ!


地元民の為に、民政に力を入れる謙輔。
【ちゃんと働いてもらわんとな】
わしとした事が、ぶち(とても)恥ずかしいが、どねえも(どうにも)ならんが、文をしたためるか。


会津藩の秋月悌次郎に手紙を認める、官軍(長州藩干城隊参謀)の奥平謙輔。

雪がとめどなく、しんしんと降りしきる佐渡の屋敷で、業務の様々な書類に目を通しながら、謙輔はふと目を庭にやり思い浮かべた。【会津といえば、わしが19歳の頃に明倫館で自身の漢詩を添削を依頼した、あの秋月先生のおられる藩じゃろう。秋月悌次郎先生等はさぞやお辛いだろうに、どうなさっているのだろうか。よし、先生に手紙を書こう】。
【秋月悌次郎殿拝啓如何お過ごしでしょうか。貴殿と七〜八年は長いこと相まみえておりません。私は命令で武人にならざるを得ず、越後や米沢等を数々攻略してきました。(すごく長い為省略)貴殿の会津藩の主君である徳川家への忠義のために貴藩が命を賭けて戦った事は家臣として正当であります。但し、徳川家康公の時に猛将の一人で鳥居元忠というのがおったが、彼は立派に討死した。貴方達も城を枕に討死すべきではなかったか。(長いので割愛)これからは朝廷の為に貴藩の力を尽くして頂けないでしょうか。しかしながら、個人的には、僕が思うに貴藩(会津藩)の戦いぶりは見事(天晴)でした。】との内容だった。ひと通りの長い文を認めて、封をした謙輔は、近くにいた家臣に尋ねた。【すまぬが、誰かこの手紙を会津の秋月悌次郎殿に渡してもらえぬだろうか。渡してもらうのにふさわしい者はおるだろうか?】そして1868年(明治元年)9月24日、会津坂下近郊に疎開していた会津城下の真龍寺住職、河井善順(※)に謙輔が認めた手紙を託した。後に、この手紙を受け取った秋月悌次郎以下会津藩士は、敵側の長州の奥平謙輔からの手紙を読み、涙を流した。秋月はこうも思った。“奥平殿か。長州明倫館での講義時はまだ素朴な学生じゃったが、今では実に立派な参謀になったものだ。今や我が藩、貴藩は立場が逆になったたものじゃが〜”等とも。秋月悌次郎は、10月6日、謙輔に、返答として、感謝を伝える手紙を送った。肝心な事は、会津藩主松平容保の助命と、残りの会津藩士の子弟の教育依頼についても、認(したた)めてあった。続く

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