仁政の人〜長州藩士奥平謙輔〜①
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“謙輔〜少しは言う事聞きなさい”
“もうちいと(ちょっと)謙譲なれ!”両親を散々手こずらせている、一人の暴れん坊少年がいた。いつも庭先を駆けずり回っては、庭先の木によじ登ったり、両親や家庭教師が話したり教えたりしていても、話をちゃんと聞いておらず、その場から走り去ったりしていた。
彼の名は奥平謙輔(おくだいらけんすけ)。後の敵対する会津藩士と長州藩士の仲を取り持ったり、旧知の仲であった、会津藩士秋月悌次郎の依頼で、後に東京帝国大学(今の東京大学)総長、アメリカ留学した山川健次郎や小川亮の2人を書生として快く預かった、あまり世に知られていない長州藩士のひとりである。同じ長州藩士、萩土原出身のもう一人では楢崎頼三(ならさきらいぞう)という、戊辰戦争後の、降伏した会津藩から元白虎隊士の飯沼貞吉を楢崎の故郷、長州に連れ帰って彼(飯沼)を未来の電信技師にさせたり、という人物も知られている。(楢崎頼三自身はフランスに留学したが、なんと30歳という若さで異国の地フランスはパリで肺結核で亡くなっている。埋葬地は異国の地フランスのモンパルナス墓地。)
奥平謙輔の業績過程についてはもう少し先の話になるが、戊辰戦争で東北各地に倒幕軍参謀として転戦後、新潟県佐渡等に赴任、廃仏毀釈など厳しい民政を行った一方、地元民から減税する(年貢を半減する)などして、感謝された。気性が激しいところもあったが、書や漢詩、文等に類稀な才能を持ち、豪放磊落(ごうほうらいらく)で、情理の厚い、正義感が人一倍強い所もあった。新潟赴任時に知り合い、意気投合した、同じ長州藩士の前原一誠と帰郷した萩で挙兵し、乱を起こしたのである。いわゆる萩事変(萩の乱1876)の事。明治新政府の方針と彼らの意見が合わなかったのだ。新政府の腐敗ぶりや、現代風に例えると、旧士族(武士)に対するリストラや弱者に対しての仕打ち含めて様々な事が許せなかったのだ。前原一誠等と運命を共にすることになるのだが…。
奥平謙輔は、天保11年(1840)1月21日、萩土原(ひじわら)地区で、長州(山口県)萩藩士大組の、奥平清兵衛の第五男としてうぶ声をあげた。蓬髪、色黒で目がギラギラ鋭く、強面で、おしゃれではなかったが、その上、少々の暴れん坊で、聞かん坊に近い少年だった。が、キリリとした太い眉等と一見強面(こわもて)でも、えくぼができ、どことなく誰にでも好かれそうな愛嬌のある面もあった。両親の薦めもあり、長州藩の名門藩校明倫館に入学、ここは萩生徂徠が祖の、儒教の影響を色濃く受けている藩校だが、謙輔は成績優秀で、書道や漢詩、素読、国史等等含めて何をやらせても今で言うならトップクラスだった。学友の一人には、これまた後に明治が始まってから袂を分かつことになる、落合済三(おちあいせいぞう)という、後に明治政府内での第二書記官となる級友がいる。(因みに謙輔は読書が大好きで、なかでも漢楚三國、三国志や水滸伝等の歴史小説などを好んで読んでいた)
一緒だった漢詩の講義では、隣で詩作していた落合濟三が、謙輔の方を覗きこみ、小声で“何かええ作できたか?”と。その時の謙輔作詞するフリをしながら、机の下で三国志演義を読みふけっていたが、謙輔はニヤリ。“ああ、僕は大丈夫じゃけぇ(だ)、いつもぶちええ(とてもいい)作作っちょる(作っている)からな~”と相変わらず読書にふける。また、時には先生を怒らせたり、逆に先生達に質問をさせる等というような、周囲がわっと驚くようなこともあった。そんなこんなで14〜15歳の青春は終わったのだった。
謙輔が19歳になってまもない頃、西国遊学の一環で、各藩校を周って教鞭を取っていた、会津藩士の秋月悌次郎が、謙輔の学んでいる萩明倫館藩校に講師としてやってきた。当初は、他の生徒達は【会津藩士の秋月悌次郎】と名前を聞いて、ざわついていたが、いざ彼が教室に入り、簡単な挨拶を述べ、講義が始まるにつれ、水を打ったかのように静かになった。しかし謙輔は、会津の藩だの云々考えず、秋月の真摯な教え方や、人柄に人目で感銘を覚えた。漢文の講義(今の時代では授業)は非常に難しかったが、成績優秀の謙輔には、十分頭に入る講義内容であった。その日の晩、机に座り、今日の講義で作った自分の漢文の詩を眺めてふと疑問に感じた。“こねえな(こんな)出来栄えでは駄目じゃ、秋月先生に添削指導して頂けないじゃろうか。行ってお願いしてみよう”。風呂に入って着替え直した居寮生の(藩校の成績優秀者は今で例えると寄宿したり、食事を提供されたりできた)謙輔は、意を決して自作の漢文を持って部屋を出た。続く
半ば心臓が早鐘のようになりながら、謙輔は、廊下を落ち着いて歩き、秋月の滞在している部屋の前にかがんで声をかけた。“秋月先生、夜分遅く、お疲れの所に誠に恐縮でありますが、秋月先生に漢文の添削をお願い致したく存じます”。そうすると、部屋の向こうから“どなたかな?遠慮無く入りたまえ”と、穏やかな声音が聞こえた。謙輔は静かに襖を開いて、入った。“秋月先生、僕の名前は奥平謙輔といいまして、御歳19歳であります。恐れ入りますが、先生に漢詩の添削をお願いしたく、夜半ですがお伺いした次第でございます。何時間か頭を捻って考えたのですが、どうも上手く作れないのです”‥と言って添削してもらったのだった。
謙輔が萩明倫館で、会津藩士の秋月悌次郎に漢詩の添削等を乞うていた1859年は、まさしく激動期であった。1853年にアメリカ(亜米利加、メリケン)からペリーが浦賀に来航、外国人を追い払え、等の攘夷運動が加熱、また、幕府大老井伊直弼らによる、勝手な日米通商修好条約が締結、強硬に開港。長州の吉田松陰、福井藩の橋本左内(さない)、梅田雲浜(うめだうんぴん)等、幕府に異論を唱える数多くの逸材人物を捕縛、投獄や斬首刑等で、徹底的に弾圧したのである。そしてそれら(幕府による勝手な、条約を結んだ事も各藩の反感を呼んだ)も原因により、薩摩藩や水戸藩士等による、井伊直弼の暗殺事件、世にいう桜田門外の変が勃発したのである。雪のしんしんと降る、1860年3月3日にそれは決行されたのだった。この一事件で、日本は大きな転換期を迎えたのだ。(歴史の歯車が変わった出来事でもある、とりわけ幕末はこれで全てが変わったとも言える、1853年のペリー来航も)。長州(長門国)萩の明倫館で学ぶ謙輔にはどのような衝撃を与えたのだろうか。
時を経て 文 久3年(1863) 、謙輔は先鋒隊 (選鋒隊)に入り下関へ 行き、 外国船砲撃に参加した。謙輔は他の仲間達より、どちらかというと、同じ部隊に所属する仲間の、同じ萩土原(ひじわら)地区出身の大組の出(中級武士)の藩士、佐世八十郎(させやそろう、後の前原一誠)の評判を耳にしていたので、その方が気になって仕方なかった。
謙輔は、その夜、小料理屋で、隊の仲間と酒を飲みながら、今日の戦況について語り合ったりしたが、唐突に聞いてみた。“佐世八十郎ってどねえな(どんな)人物なんじゃ?”
と訊ねてみた。そうすると、仲間の一人が“ああ、あん人はな、吉田松陰先生の門下生の一人でな、誰よりも人一倍努力家で誠実、かなり磊落みたいにいわれとるよ”
なるほど、と盃傾けて聞き入っていた。“それに、”と相手の仲間が言いかけていたら、“失礼致します”と涼やかで低めの声の女性が襖を開けてきた。
謙輔は部屋に入ってきたその女性を見た途端、言葉が出なくなった。というのも、たすき掛けの、萌黄色の着物に、きびきびとした彼女は色白で瓜実顔、艶々した黒い髪の美人であったからだ。“お侍様方、お酒か何かお替りは如何致しましょうか?”と尋ねてきた。
この時点でかなり飲んでいるのだが、やや酔った仲間らは“いや、もう結構だ、勘定を”と立ち上がりかけた。
そうすると謙輔は唐突に女性の給仕に向かい、半ばやけになりながら尋ねた。
“其のほうは名をなんと申す”。すると落ち着き払ったその女性は、“ヨネでござりまする。
”
“謙輔、何しちょる、さては?”他の仲間がからかおうとしたら、いなかった。一足先にその場から素早く出ていったのであった。
下関の長州藩屋敷に帰った謙輔は、その夜
さっきの店で出逢ったヨネという、美しい女給仕の姿が頭から離れ難くなったが、それどころではない。国が外国に乗っ取らかねない、一大事なのだ。頭から布団を被ってその夜は眠りについた。続く
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