「お菓子な絵本」28.鷹は飛び立った
28. 鷹は飛び立った
なだらかな丘のふもとに朝もやがたち込め、辺りは爽やかな冷気に満ちていた。まだ日の出前であったが、地平線付近の雲の淡い薔薇色や、小鳥たちの透明な歌声が素晴らしい朝を予感させた。
刻一刻と微妙な色合いで変化を遂げゆく空の、西の方角に、いつまでも輝き続ける星がひとつ。白々とした明るさに溶け込んで見えなくなったかと思うと、再び現れ、消えては、また現れを繰り返しつつ、シリウスは王子にゆっくりと朝の別れのあいさつを告げていた。下方の森の彼方には、カイザー・ゼンメル城の大小さまざまな尖塔がそびえ立っている。
「たとえ見えなくなっても、星は確かにそこに存在している」
消えゆくシリウスの輝きを眺めながら王子はつぶやいた。人との別れについてもまた、同じことが言えるかも知れない。
両親を亡くしたわけではなかった。
弟がその証拠だ。父も母も確かに存在している。たとえ住む世界が異なっても、再び会えることがなくても、生きていることには変わりない。共に過ごした大切な時を忘れない限り、離れていても相手を想う気持ちがある限り、互いが互いの心の中に存在し続ける……。
ブラウニーを連れて脇に控えていたアンジェリカに、王子は厳しい口調で念を押した。
「戻れなかった場合は……、真秀を」
「ジャンドゥヤ、何てことを」
「まず、ブレッター・タイクのところへやって欲しい。騎士としての防衛技術を徹底的に身に付けさせるのだ。後のことはグラス・ロワイヤルのベルガー隊長に。ベルガーも今や黒すぐり団の一員だからな」
「あの子は恐れることなくクリスタルのドラゴンに立ち向かっていったの。本人の意思を超えた何か……、何か大いなる力に守られているみたいだった。そう。彼なら、大丈夫」
その先を言っていいものかアンジェリカは迷ったが、王子にかまをかけてみた。
「ジャンドゥヤ、彼はやはり……」
「ああ。違いない」
王子はあっさりと事実を認めた。しかしそれ以上のことを口に出すことは、二人とも何故かできなかった。
「彼は人々の、新たなる希望となるだろう」
それだけ言って、王子が出発しようとオイゼビウスにまたがったところ、当の真秀が何やらわめきながら丘を駆け登ってきた。
「ジャンドゥヤ王子!」
例によって真秀はぷりぷり怒っていた。
「ひどいじゃないか。ぼくを出し抜こうなんて」
アンジェリカがたしなめる。
「真秀。王子はあなたの為を思って……」
「足手まといだから? ぼくはこの物語の目次を見たんだ。この先の未来を知ってるんだ。誰が敵で、誰が味方かも全部わかってるんだ。ぼくを連れてかないことには──」
王子がさえぎる。
「知りたくないね。どうすべきかは自分で判断する。きみはお留守番」
アンジェリカには王子がわざとそんな言い方をしているのがわかったが、真秀は猛然と食い下がった。
「もう会えないかも知れないってのに?」
その言葉はジャンドゥヤの胸を突き刺した。
「真秀……」
「お役ご免で、このままふっと現実の世界に連れ戻されちゃうかも知れないんだからね」
ジャンドゥヤは動揺を隠せなかった。行ってしまう? 真秀が? 突然目の前に舞い降りてきて、そしてまた行ってしまうというのか? 別れも告げずに?
それは彼がもっとも恐れていたことだった。大切な者を突然、何の前触れもなく失ってしまうこと。
── たった今、両親のことで自分を納得させたばかりだというのに! ──
まだ早い。語り合いたいことがたくさんある。ぼくたちは、これから先、何年も一緒に過ごすはずじゃないのか? ジャンドゥヤはやりきれない思いで真秀を見つめた。
自分を見つめる王子のエメラルドの瞳に底知れぬ深さを感じ、真秀は身をすくませた。これが例の王子の瞳か。何もかも超越していて、何もかも包み込んでしまいそうな……。
その時、遙かな森の向こうから太陽がいきなり顔をのぞかせ、馬上のジャンドゥヤ王子を射るように照らし出した。
王子は少しまぶしそうな表情をしたが、それが当然であるかのように黄金の光を全身でまともに受け止めた。太陽の朝のあいさつを受けるのが、大自然からの祝福を受けるのが、当然のごとく誇らしげに堂々と。
そこに佇むのは輝く英雄の彫像であり、紛れもない「この世の王」の姿であった。
真秀は畏敬の念に身を貫かれ、震えながらひざまずいた。
「真秀?」
彼の身に何が起きたのか? 王子は馬から降りて真秀の手をとった。
「真秀。きみはそんなことしなくてもいいんだ。きみは……」
真秀は胸に手を当て頭を下げ、目を閉じたまま振り絞るように言った。
「ジャンドゥヤ王子。ぼくをあなたの従者に!」
今度は顔を上げ、王子の目をしっかり見据えてきっぱりと告げた。
「ぼくをあなたの従者にして下さい」
従者など持ったこともなかったし、持つ必要もなかったが、望みを叶えてやらない限りこの少年はてこでも動きそうにないな、と王子は判断した。
「騎士道ごっこというわけにはいかないぞ。騎士道の掟は、なま易しいものではないのだから」
「あなたの為ならどんなことだってやり遂げて見せます。命だって捧げられます!」
王子はやむなく剣を抜き、任命の儀式を執り行った。
「創造者である王と、女王と、ジャンドゥヤ・ブランの名において、そなたを騎士に任命する」
真秀の両肩を、剣の腹で交互に軽く叩く。
「同時にジャンドゥヤ・ブラン、第一の従者とする」
朝日を受け、スター・サファイアに三条の光が浮かび上がる。略式ではあったが、その場は厳粛な空気に包まれた。
── 第一の従者か! すごいぞ! ──
王子の行くところ、どこにでも付き従う忠実なる騎士の姿が真秀の心に浮かび上がる。
「あなたに忠誠を誓います」
そんな言葉が自然と口をついて出た。二人は肩を抱き合って友情を誓い合った。
ジャンドゥヤが王と女王の名前をわざと省略したことに、アンジェリカは気づいていた。
が、これでいいのだろう。いずれその時が来るものだ。本人が真実を知るその瞬間が。
うるんだ目頭を押さえつつ、彼女はこの感動的なシーンに自分が居合わせた幸運を心から誇りに思うのだった。
鷹は飛び立った。
王子が書いたルドルフ公への手紙を託されて。
同時に王子も出発した。
振りすがる第一の従者を置き去りにして。
「さっそくおいてけぼりか!」
真秀はかんかんになって怒った。これじゃあ何の為に従者になったんだか。
「あなたと一緒だと速く走れないでしょう? わかってあげて」
アンジェリカが真秀をなだめる。
「それにしてもジャンドゥヤは何で王子の姿のまま行ったんだ? 黒すぐりに変装したほうが行動しやすいだろうに」
「王子は覚悟を決めて行かれたの。いざという時には、ジャンドゥヤ・ブランとして、マドレーヌさまと最期を共にしたいと」
アンジェリカは涙ぐんだ。が、そんなことはありえないと、思いを振り切った。
「さ、我々は『鷹は飛び立った作戦』の検討に入りましょ。皆が待ちくたびれている頃よ」
「鷹は飛び立った?」
「塔に閉じ込められたマドレーヌ・ベッカー嬢の救出作戦。ローズ・リラのほうは、とにかく王子に任せるとして、わたしたちは机上で作戦を練るの。あなたの知識を活かして」
「マドレーヌ・ベッカー」
真秀はその場に立ちすくんだ。ベッカー……。
「ベッカー? マドレーヌはベッカーなのか!?」
「そうよ。ベッカー(パン屋)なんて、この世界じゃ、ありふれた名字だけど、それがどうかした?」
マドレーヌの父親はルドルフ。つまりルドルフ・べッカー。皆がファーストネームに「公」をつけて呼んでいたから、わからなかったんだ。同姓同名なんてものじゃないぞ。現実の世界で、ピアニストのルドルフ・ベッカーは行方不明になっている。
それに、ブレッター・タイクも王子も、第三の人物のことを「彼」と言っていた。彼女、ニーナ・カットは第三ではなくて第四の人物だったんだ。
「あるいは、処刑は罠かも知れない」
「真秀、どういうこと?」
「ルドルフ・ベッカーが、第三の人物だ!」
29.「洞窟の迷い子」に 続く……