「お菓子な絵本」16.第三の人物
16. 第三の人物
ローズ・リラは霊安室からの秘密の通路を抜けると、靴を片手に持ったまま地下牢へ忍んでいった。話し声が聞こえてくる。
「マドレーヌさまが消えてしまったので、城内をくまなく探せとの命令なんです。たとえ牢獄であろうと例外は無しです」
警備隊員が看守に何やら掛け合っていた。その隙に自分の独房へさっと潜り込む。
「許可は取ってありますから」
マシュマロ・ホワイトは胸ポケットから命令書を出して看守に示した。同時に背後でささっと何かが通り過ぎた気配。続いてカシャンというかすかな物音。
怪しい気配を探りに、音のした辺りを確かめに行くと、
「ちょっと、そこの警備隊員さん」
牢獄の女性に妖しげな声で呼び止められた。無視して通り過ぎようとすると、
「霊安所の方で何かあったようだけど、死者でも甦ったのかしら?」
「霊安所? どうしてわかるんです?」
マシュマロは警戒しつつ独房の鉄格子に近づいた。入り口には〈リラローズ〉とある。囚人は通路に背を向け、ソファ・ベッドの上で足を投げ出し読書するふりをしていたが、それが誰であるか一目でわかった。
「ローザ!?」
── しまった ──。ローズ・リラはしらばっくれようとも思ったが、観念してマシュマロ・ホワイトに向き直った。
「あらぁホワイトさんじゃない。チェスの試合では大活躍で役目を果たして下さったそうね。本当に助かったわ」
「何言ってるんです。どういうことです? これは」
「あの後ちょっとしたトラブルがあってね。フフッ。菓子工房の親方をぶん殴っちゃったの。そしたらこんなところに放り込まれてしまった、というわけ。おホホ」
── うそだ ──。マシュマロは思った。ジャンドゥヤ王子の手先ともあろう人が、そんなへまをするわけがない。
「あなたのような方がいる場所じゃない。ぼくでよかったら力になりますから。すぐにでも出られるよう、何とかしますから」
マシュマロは鉄格子を握り締めた。看守のわざとらしい咳払いが聞こえてくる。
「わたしは大丈夫。それより霊安所を見てきた方がよさそうよ。大至急」
「どうして?」という質問など、この人にはヤボだな、とマシュマロは思った。
確かに壁の向こうから、何やら緊迫した音楽が聞こえてくるような気がしないわけでもない。彼女もきっと何か聞いたに違いない。わけはわからなかったが、彼は霊安所へと急ぐことにする。
ブレッター・タイクの森の管理小屋での食事は、格別の味わいだった。しかも真秀は朝からお菓子しか食べていなかったので、いわゆる食事というものに飢えていた。
メインはチキンブイヨン仕立てのクリームシチュー。分厚いベーコンの塊とホワイトアスパラ、ざっくりキャベツが入っていて、どってりした丸ごとのジャガイモの上に乗せられた濃厚チーズは、スープの熱でとろりと溶けかかっていた。素材はいたってシンプルなのに、やたらおいしい。
香ばしい焼きたてのくるみパンは、外側はパリッ、中は熱々のふかふか。世の中で焼きたてのパンに勝るごちそうはない、と思わせるほどの完璧なパンだった。
とろけるようなプレーンオムレツは、生クリームとバターの風味に絶妙なトマトソース。新鮮なバナナジュースはアイスクリームのように冷たく、甘く、なめらかな舌触り。
「ああ、おいしい。なんておいしいんだ」
驚くべき食欲だった。風邪をひいていたのが嘘のように、何でも食べられる。
ブレッター・タイクが王子に具だくさんのコーンチャウダーを運んできた。
「王子殿は菜食主義であられるのでね」
前掛けをはずし、食卓につきながら言い添える。
「だからこんなにきゃしゃな体つきで……。まったく、どこからあれほどのエネルギーが飛び出してくるのやら」
真秀が借りていた黒すぐりの衣装がそれを示していた。ズボンの裾と、袖口をひと回り折り返してはいるものの、真秀の身体によく合っている。真秀ですら、細身で背が高い方なのだから、ジャンドゥヤ王子は痩せすぎ、といってもよさそうだ。
「それにしても王子殿。影武者を立てるのなら、ひとことご相談頂きたかったですな」
「影武者ではない。彼は……、まあ、命の恩人ってとこかな」
「何と! 王子を助けられる者がこの世にいるとは!?」
ブレッター・タイクは二人を見比べた。似ている。しかしどこが? 髪の色も瞳の輝きも、全然違うではないか。だが、なぜ二人を間違えたのだろう。
「この世ではなく、あちらからおこしなのだそうだよ。いわゆる〈現実世界〉から」
「何と! では、第三の人物についても何か知って──」
王子に鋭い視線を投げられ、ブレッターは口を閉じた。
「第三? 第三の人物のこと?」
何気なく尋ねてから、真秀は二人の様子がおかしいことに気がついた。
「やはりご存知なのですね?」
「こちらさんは何でもお見通しのようでね。こともあろうか現実世界では、我々の物語が『お菓子な絵本』として、出回っているそうだ」
「出回ってるわけでは……」
読者はおそらく自分一人だろうと、真秀は今や確信していた。
「たまたま手にしただけで。それに第三の人物についてだって、あなた方の会話や目次に出てきたのを読んだだけだから、新たな情報なんて何もありませんよ」
王子にうなずきかけられ、ブレッター・タイクは慎重に語り始めた。
「創造者であられる王と女王の他に、もう一人。影の創造者、つまりこの世に悪の概念をもたらす人物が、現実世界から来ているらしいのです」
「それが第三の人物?」
「第三の人物にとって、平和の象徴である王と女王は邪魔な存在であったはずで、お二人もそれをご存知でした。そして、その人物の正体も。しかしお二人が消えてしまった今となっては、それが誰なのか、まったく謎なのです。おそらく彼にとっては、今度は王子殿が邪魔な存在になろうかと」
「考え過ぎなのだ。ブレッターは。もし第三の人物がわたしを狙っているのだとしたら、とうの昔に殺されてるさ」
「王子を簡単に暗殺できる人物など、いるわけないではありませんか」
「言ったな。ならばわたしは安全なわけだ」
「へ理屈を……。しかしながら殿下、本当に油断は禁物です。もしあなたの身に何かあったら、この世は終わりです。我々はどこに希望を見いだせばいいのでしょう」
ジャンドゥヤはふうっとため息をついた。そうした言葉が王子にに計り知れないプレッシャーを与えていることに、ブレッターは気づいていなかった。
「あ、もしかして。だからあなたは背後から忍び寄って、王子を襲ったりするのですか? 訓練と称して」
「先ほどは本当に失礼致した、真秀殿。しかし、いい勘をしておられるようで」
「母親がいたずら好きでしてね。ぼくもよくやられるんですよ。背後から。もっとも、くすぐられる程度で、首を締められたなんて初めてだ」
ブレッター・タイクは平謝りしながら話題を元に戻し、説明を続けた。
「王子のご両親、つまり王と女王は10年近く前に行方不明になっているのです。あちらの世界、つまり現実世界にお戻りになったとの説が有力でしてね」
そこでブレッターはひとつの重大な質問を真秀に投げかけようとした。
「真秀殿? あなたはいったい現実世界の、いつの時代から──」
質問の意図を察し真秀が口を開きかけるや、王子がぴしゃりと片手でさえぎった。
「聞きたくない」
「こちらとあちらでは、時間の進み具合が違っているらしいのです」
ブレッターは真秀に言い分けしつつ、王子をたしなめる。
「ですが王子殿、真秀殿が何年の時代から来られたのか、時間の流れの違いは知っておく必要が……」
「知りたくないし、聞きたくない!」
王子の厳しい剣幕に、とりあえず真秀は従い、口を慎んだ。
創造者である自分の両親が、現実世界でまだ存命の可能性がある時代なのか、はるかにかけ離れた時が、既に経ってしまっているか、なんて、確かに息子だったら知りたくもないだろう。
しかし待てよ?
「もしかして、お菓子な世界での一日が、現実世界では百年だったりするわけ?」
リップ・ヴァン・ウィンクルや浦島太郎みたいに? 真秀は慌てた。
「じゃあ、ぼくはどうなるんだ? このお菓子な世界から無事に帰還しても、家族や友達は既になく、この世は第三次大戦で消滅してました。なんてこともあるわけ?」
「第三次大戦!?」
王子とブレッターは、真秀の言葉に極端すぎるほどの反応を示した。
「た、例えばの話ですよ。そんなに驚かないで」
「戦争は? 革命は? 真秀、世の中は今、平和なのか?」
年代はともかく、大まかな世界情勢くらいは二人とも確認しておきたかった。
「平和は平和かも知れないけど、実際は……。そうとは言い難いですね」
「東西間の緊張は?」
「……? 冷戦は終結したんですよ。いったい、いつ頃までの歴史をご存じなんです?」
「我々が知りたいのは、1986年以降の世界情勢だ」
「86年って、どうして?」
創造者は1986年の現実世界からやってきて、その時代までの世界史を、この〈お菓子な世界〉に伝えたのだということを、ブレッター・タイクが簡単に説明した。ビッグ・バンに始まる宇宙創世からの、宇宙と地球、そして人類の壮大な歴史。
「86年か」
歴史は真秀の得意とする分野だった。明日からでも先生ができるといわれていた。なにせ母親は世界史の教科書のたった一行にも無限のロマンを見いだす人で、真秀は子守唄のように壮大な歴史ドラマを聞かされて育ったのだから。
人類の代表として世界史の説明をする羽目になったことに真秀は半ば興奮を覚えながら、いっきにまくしたてた。
「ソ連にゴルバチョフという指導者が現れてから、世界は変わったんだ。80年代末、東側の国々はこぞって民主化される。ベルリンの壁は壊され、90年、東西ドイツは統一される。やがてソ連は崩壊、冷戦は終結。スパイは失業。……どこまでわかります?」
「全部。それから?」
「世の中は平和に向けて動き始めては、いる。だけど民族紛争はあちこちで絶え間なく起きてるし、大規模なテロに、凶悪犯罪も依然としてなくならない。核が全面廃絶されたわけでもない。飢餓や、温暖化を含めて環境問題も山積みだし……」
真秀は自分の言葉にうんざりし、申しわけ程度につけ足した。
「だけど科学技術は確実に発展して生活はますます便利になってるし、人々の意識は高まっているとは思いますよ」
聞き手の二人は真剣に聞き入っていた。
「現実世界史の教科書に、新たな1ページが書き加わるわけか。『鉄のカーテン』は消滅したと」
感慨深げに、王子が言った。
「かのナポレオンも語っているように」
「ナポレオン?」
異次元世界の住人の口から、現実世界での歴史上の人物の名が当然のごとく、すらっと語られるのは、真秀にとっては少々不思議な感覚だった。
「そう。真理は歴史の中に見いだされる」
「歴史は繰り返される、というわけですね」
「だから我々は現実世界の歴史を重要視しているのだ。繰り返さない為に」
「もし人類が歴史の中からもっと多くを学び、成長し、進化を遂げることができていれば、世の中もっとよくなっているんでしょうね」
「ナポレオンが見抜いていたのは、その点だ。人間の本質というものは何世紀経とうが、いささかも変化していないと。だからこそ我々は客観的な視点で、現実世界の歴史を学ぶのだ。こちらの世界でこそは、その過ちを繰り返さない為に」
「あっそうか。アルヴィン王は平和主義者だったから、そういうところは徹底して指導してたのか」
二人の会話の成りゆきを、ブレッター・タイクは感心しながら見守っていた。
王子の目を見つめ返しながら対等に議論できるほど骨のある少年が、これ迄にいただろうか。人は誰かと議論することによって、自身の考えを軌道修正しながら、より確かなものとしていくことができる。
王子にはこうした話し相手が必要だと、ブレッターは痛感するのだった。
17.「弔いの鐘」に 続く……
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