「お菓子な絵本」10.チェック・メイト
10. チェック・メイト
「ナイト、f3」
いきなりジャンドゥヤ・ナイト、自ら飛び出した。奇襲のように見せかけて、相手の様子をうかがいながら手のうちを決めていく斬新な戦法である。
ざわめきの中、アルジャンテはオーソドックスな手法「d5」で警戒。
ジャンドゥヤが二手目を打ったとき、
「b8の黒ナイト、マス目からはみ出しましたよ」と、審判の指摘。
「ドジ! まぬけ!」
「警備隊の恥さらし!」
一斉に起こった非難の集中砲火が、どうやら自分に注がれていると気づき、マシュマロ・b8・ナイトは真っ青になった。王子との接触方法を考え込んでいるうちに、自分のマスから僅かに足が踏み出てしまったらしい。
警備隊全員が次に起こる事態を予測して縮み上がった。しかし最も恐れたのは、マシュマロにナイト役を譲った先輩、ダックワーズだった。
「ああ、おれは終わりだ」
頭を抱えてうずくまる。
出足をくじかれたアルジャンテ・黒キングは、氷の視線をb8のナイトに投げつけた。
「なぜウスノロがいるのだ? 今回のメンバーは精鋭部隊のはずなのに」
〈ウスノロ=敗北〉の図式がアルジャンテの頭をよぎる。
マシュマロ・ナイトは勇気を振り絞り、隊長の恐ろしい視線を受けとめた。失敗を素直に認め、上官の次なる指示を仰ぐ。これはドジなマシュマロが警備隊で生き残る為に身につけた、最善かつ単純な知恵だった。
── 1歩でもはみ出せば、その駒は必ずどこかに移動せばならない。たとえそれがどんなに悪手であろうとも ──
「いや、悪手ではない。ナイト、c6へ行け」
マシュマロはほっとため息をつき、味方のポーンの間をおずおずとすり抜けながら指令のマスへ進んだ。
そんなウスノロっぽいしぐさは、アルジャンテのイライラを増幅させた。歯ぎしりして冷静さを保とうとするが、忍耐力は長くは続かない。
5手目、我慢し切れなくなった彼は「ビショップg4」でジャンドゥヤ・ナイトを脅しにかかる。ジャンドゥヤが1歩でも動けば、ニーナ・白クイーンは黒ビショップの餌食となる。
しかしそれはあまりに単純すぎる手であり、アルジャンテは墓穴を掘ったも同然だった。
ジャンドゥヤ、すぐさまビショップを追い払う作戦に出る。ビショップ、やむなく後退。
「さあて、こちらもそろそろ攻撃に出るとしましょうか」
ジャンドゥヤは敵の配置を確認した。次第に高く登りつつある太陽の光がまぶしかった。黒側の表情は影となり、ほとんど読み取れなかったが、その中に必死に何かを訴えかけてくる視線があった。
先ほどドジを踏んだナイトだ。王子が見つめ返しても彼は視線をそらさなかった。
「何か言いたいのかな」
とりあえず、様子を見ることにしよう。
「クイーン、a4へ」
いきなりの、王子の思い切った手に見物人は「わぁ!」と、ざわめきだった。ところがニーナ・クイーンは何かに気を取られているのか動こうとしない。
「クイーン?」
右隣のベルガー・白キング・隊長につつかれて、ようやく自分の役割を思い出す始末。
白クイーンが一気に敵陣へ突入するという急展開に、皆拍手喝采。観客はプレイヤーが危険を犯すのを何より好むもの。会場は興奮状態に包まれる。
「バック・アップもなしにクイーンを飛び出させるなんて。早々にして捕まりたいのか?」
言いながら、アルジャンテはそれがウスノロ・ナイトを釘付けにする策、つまりジャンドゥヤの仕返しであることに気づいた。ウスノロを動かせば、キングの自分が危険にさらされてしまう。
マシュマロ・ウスノロ・ナイトは自分が当分の間、動けそうにないと悟った。となると王子の側から、こちらに近づいてもらうしかなさそうだ。王子はそれを見越して、わざと自分を釘付けにしたのだろうか?
マシュマロは目でジャンドゥヤに問いかける。
王子はにっこり微笑み返すだけ。何も考えていないのか? それともすべて、お見とおし?
そのとき、自分を凝視するもうひとつの視線にマシュマロは気づいた。斜め前にやってきた白クイーン。正面の黒側を向かず、日の光を避けているのか身体をすっかりこちらに向けて怪しげな視線を投げてくるではないか。
もしかして悟られた? 王子との目配せを。それともぼくに気があるとか? 少々きつそうな感じの女性は、タイプじゃないんだけどな。
頬が熱くなる。またドジりそうだ。いや、うぬぼれてはいけない。きっと斜め後ろの隊長にでも見とれてるんだろう。隊長はかっこいいからな。
黒側の抵抗にもかかわらず、ゲームはクイーンの前線支配で主導権を握った白側に有利に運ばれていった。
「ああ、やっと動けるのね」
黒クイーンに一歩前進の指示が出て、マドレーヌはぴょんと飛び跳ねた。そのときになって、アルジャンテは初めて気づいた。
「おれがキングで、彼女がクイーン」
自分の妻役として隣に寄り添っていたマドレーヌを、試合に夢中で意識すらしなかったことを、アルジャンテは悔やんだ。
キングとクイーン。いつかは、この組み合わせが実現する日がくるのだろうか。〈黒キング+黒クイーン=結婚〉という夢の図式を思い描く。
しかし王子が次の手を打つ陽気な声に、夢は崩れ去った。
「ナイト、c6!」
ウスノロ・ナイトにあと一手のところまで近づきつつあったジャンドゥヤ・ナイトは、捨て身の作戦で彼と接触を図ることに成功した。
「お疲れさま!」
ついにジャンドゥヤ・ナイトがウスノロ・ナイトを捕えた。二人がさわやかに握手を交わしたその瞬間、キャンディの包みが王子の手に渡る。
重要任務を果たし終えたマシュマロは満足げな笑みを浮かべ、盤上から退散。
すぐ脇にいたニーナ・カットはそれを見逃さなかった。
怪しい。やっぱり怪しい。あの警備隊員。さっきのドジも本当はインチキで、彼はきっと王子の手先。アルジャンテさまを敗北に導く戦術でも渡したとか? 尻尾を掴んでアルジャンテさまにお知らせできれば、あたしのことも、もっと認めて下さるかも。
ニーナ・カットは〈黒キング+白クイーン=障壁を乗り越えた恋人〉という憧れの図式を思い描くのだった。
一方王子は、キャンディが実はキャンディでないことを、手の中で密かに確認していた。
── これは黒すぐり団の通信方法 ──。
しかしわざわざ第三者である警備隊員の手を借りる危険を犯すとは、よほど急ぎの内容なのだろう。
こうなったらすぐにでも盤外に退散せねば。
ジャンドゥヤ、e7のナイトを捕獲。黒キングの正面に立つ。同時に白クイーンで黒キングをチェックしつつ、マドレーヌ・クイーンまでもジャンドゥヤ・ナイトの手中に収める形となるが、実のところ、それはジャンドゥヤの自殺行為ともいえる手であった。
これはゲームなのだと、ジャンドゥヤは自分に言い聞かせた。あと1手でマドレーヌを捕まえられたのに、残念。いつだってあと1歩。あと1歩が踏み出せない。
マドレーヌは自分がジャンドゥヤ・ナイトに狙われている状態と悟って、思わず身をすくませた。
「あら、わたし、捕まっちゃうの?」
そこでアルジャンテの高笑い。
「心配はご無用、マドレーヌさま。この目障りなナイトはわたくしめが片づけましょう」
アルジャンテ・キングが一歩前前進し、ジャンドゥヤ・ナイトの肩に手をかけた。
同時に、女性の招待客らの黄色い悲鳴。
「キャア。ジャンドゥヤさまぁ!」
同時に、どこからか悲劇的な和音が鳴り渡る。
自身の手でライバルを捕らえ、ほとんど勝った気になっていたアルジャンテにとって、周囲のこうした反応は面白くなかった。
たとえ勝負の舞台がこちらの縄張りであれども、観客の多くは王子を応援していた。そして辺りの空気全体も結局は彼の味方らしい。何しろ彼はこの世の王子。事実上の王であるのだから、当然ともいえる成りゆきであった。
しかし最も悔しい思いをしたのは、王室護衛隊のメンバーだった。ベルガー・キング・隊長にいたっては、一歩も動かずして王子をみすみす敵の手に渡してしまったのだから尚更だ。とはいえ、王子が護衛の者をかえりみず、自ら敵のまっただ中に飛び出して行くのは毎度のことなのだが。
白ナイトの帽子を脱ぎ、金色の髪をかきあげながらいさぎよく退散していくジャンドゥヤを、マドレーヌはちらりと見送った。彼に捕まえてもらっても良かったんだけどな……。
それはほんの数秒間のできごとだった。
マドレーヌとジャンドゥヤがふと視線を交わしたその瞬間、互いの瞳が瞳をとらえ、魔法にかかったように目が離せなくなってしまったのだ。
互いの身分や立場を超越した、確かな想い。
これから先、二人の前にどのような運命が待ち受けようとも、逆らうことのできない確かな想いが、そこにあった。
そよ風に鳴るエオルスの竪琴が奏でるような、ロマンティックなアダージォにのって、虹色にきらめく空気の結晶が空中からキラキラと躍り出て盤上を満たし、人々をうっとりと喜ばせたので、二人がほんのり頬を染めつつ交わした無言の会話に、気づく者はいなかった。
不思議な感覚に包まれながら、ジャンドゥヤはたった今マドレーヌとの間に起きたことを理解しようと試みた。が、チェス盤から降りるやいなや、自分の使命を思い出した。
「ポーン、f3へ行ってくれ」
とりあえず、指示を出す。皆が盤上の動きに気をとられている隙に、キャンディの中身を確認する。中からは、やはり暗号文。
ZLNQ LJOGH ZRCAN
── キーワードは〈シュヴァルツ〉だったな。変更されてないといいが ──。
「キング、e6!」
声高らかに更に1歩前進したアルジャンテ・キングの背後から、第二のビショップが登場し、白クイーンは1歩も動けない状態となった。
ジャンドゥヤは次なる手を考えるふりをしていたが、頭の中は暗号解読のためのアルファベットと数字でごったがえしていた。
Zは26、Lは12、といった具合に、暗号文のアルファベットを数字に置き換え、キーワードのシュヴァルツも、Sが19、Cを3と、やはり数字化した上で、先の暗号文に一文字ずつ順に当てはめ、計算していく。
26-19=7、12-3=9……。
そして出てきた数字を再びアルファベットに変換し、意味を見いだす。それをメモもとらずに暗算でやるのだから、気の遠くなりそうな作業であった。
7がGで、9はIつまり、GI……、それから?
「fのポーン、e4へ」
たっぷりと時間をかせいでから、ゲームを続けていく。
※ ※ ※
真秀は机の引き出しから、レポート用紙とシャープペンの挟んであるクリップボードを取り出した。
「この解読方法なら、わかる」
複式換字暗号。かつて愛読し、いつもポケットに忍ばせていた『少年探偵ハンドブック』なる子ども向けの秘密手帳にも載っていた方法だ。
スパイごっこ流行りし小学生時代の、仲間内での秘密通信。キーワードが好きな女の子のニックネームだったり、内容といえば、「○○時に秘密基地に集合せよ」などという、たわいないものだったにせよ、秘密保持には命をかけていた。
手間はかかるが難しいものではない。キーワードさえわかればいいのだ。ナゾのメッセージを王子より先に解読してみせようじゃないか。真秀はレポート用紙にアルファベットを書き出し、Aから順に番号をふっていった。まあ、こちらには紙とぺンがあるのだから、フェアとはいえないけどね。
機械的な作業を繰り返すうちに三つの単語が出そろった。
「えー? どういうことだ」
意味を考える。キーワードがシュヴァルツなんだから、うーん。これもドイツ語なんだろうな。まるでひっかけ問題だ。
つまりこれは、ある種の暗殺計画ってことか?
※ ※ ※
「しまった! ビショップを殺られた」
そこでようやく、アルジャンテは王子が何故キング以外の駒を選んだのか、理解した。捕獲され、ひとたび盤外に出ればじっと立っていなくてもすむし、状況判断しやすいではないか。
そういうことだったのか……。
しかし、キングのおれが外に出られるとしたら、ゲームが終わったときだけだ。
「何だかズルいぞ。外から指示を出すなんて」
文句を言っても後の祭り。
その隙に、ジャンドゥヤは第一の単語を解読していた。出てきた言葉は、
GIFT
「ギフト。贈り物か。よし、調子がでてきたぞ」
アルジャンテも終盤戦に向けて、最善の手をじっくりと考え始めていた。試合運びはスローぺースになり、ジャンドゥヤは絶大なる集中力をもって暗号解読に専念できた。
第二の単語は、
KRONE
「贈り物。冠……」
そこで突然の大歓声。アルジャンテが「ルーク、a6」を指したのだ。
「勝ったぞ! 白クイーンはもう逃げ場がない」
クイーンの損失は致命的な痛手である。
が、ジャンドゥヤは顔色ひとつ変えず、暗号変換作業を続けた。表情には出さずとも頭の中はめまぐるしく回転し、解読は成功しつつあった。
第三の単語は、
RUBIN
「贈り物。冠。ルビー?」
ジャンドゥヤは周囲の騒ぎも試合の流れもまったく無視して考えた。冠といえばキングとクイーン。そうだ。ルビーがある。クイーンの冠の正面には赤い大きなルビー。あれはルビーに似せたゼリーか何かだろう。あとは、贈り物。贈り物……
── いや違う! 贈り物じゃない ──。
声にならない声がジャンドゥヤに聞こえてきた。
その瞬間、パズルは解けた。
ギフトが英語の「贈り物」であるという固定観念に捕われていたのだった。キーワードは〈シュヴァルツ〉。父の母国語、ドイツ語だ。そしてクローネもルービンも、ドイツ語じゃないか。となると、ギフトだってドイツ語のはずだ。そこでジャンドゥヤは息をのんだ。
ドイツ語では、ギフトは「毒」。
── マドレーヌ! ──
動転しつつもジャンドゥヤは何とか思考をまとめ上げた。つまりこうだ。
クイーンの冠の、ルビー色のゼリーは毒入。
ゼリーは熱に弱い。砂糖衣でコーティングされていても、これ以上気温が高くなったら、日光をまともに浴びたりしたら……?
ゼリーが溶けて毒が流れ出す!
幸いなことにマドレーヌは太陽に背を向けていた。しかし白クイーンのほうは? うつむき加減にはしているものの、太陽の光は斜めに当たっている。気分が悪そうだ。すでに毒気にやられているのだろうか。
ジャンドゥヤは即座に試合の中止を申し立てようとした。しかしマドレーヌの暗殺計画が表面化してしまうのはまずいと、考えを改める。
こうなったら早いとこ決着をつけてしまおう。たとえ負けてもだ。最優先は両クイーンを一刻も早く盤外に出すこと!
王子はひとまず白クイーンをわざと敵に捕獲させた。ニーナ・カットはクイーンの冠を乱暴に外し、疲れた表情でふらふらと退場した。彼女が木陰のベンチに腰を下ろし、冠を草むらへ放り投げるのを見届けてから、ジャンドゥヤはマドレーヌ・クイーン救出作戦の検討にかかった。
それはまさに奇跡ともいえる手段であった。
ジャンドゥヤは半ば無意識に試合を続けてきたにもかかわらず、本能的に自分が勝利の道を歩んでいたことに感謝した。
「勝ったつもりでいるのだろう? だが甘いな、詰めが」
王子の声は自信にあふれていた。
その時点で、誰もが白の次なる手を読むことができた。全員が固唾をのんで成りゆきを見守った。
「ビショップ、h3でチェック(王手)♪」
アルジャンテは絶句。観客は大喝采。
「チェックされたら、逆襲か、逃亡か、じゃまか……」
この状況では逆襲はできない。逃亡すれば、クイーンがビショップの餌食になる。とりあえず、じゃまだ。
「f5」
すっかり混乱したアルジャンテが指した手は、単なる悪あがきにすぎなかった。
「アンパサンで、再びチェーック♪」
ジャンドゥヤの攻撃が容赦なく続く。音楽を奏でるように、歌うように。
ついに黒クイーンが白側に捕獲された。
「こちらは頂きますよ。戦利品ですからね」
盤外に出てきたマドレーヌが外そうとした冠を、ジャンドゥヤはすかさず奪い取った。
「あら、ひどいじゃない。おいしそうな冠だったのに」
ジャンドゥヤが何も言い返さず、あまりにも優しげな瞳でマドレーヌを見つめたので、マドレーヌはチェス盤でのことを思い出し、どぎまぎしながら視線をそらした。
その間、安全地帯への逃亡を図ろうとも考えたアルジャンテ・キングだったが、いくらあがいても、あとは敗北への道をたどるばかり。人間チェスではチェス盤をひっくり返すわけにもいかず──むろん、そのような行為は騎士道精神に反することだが──、降参し、投了するのもしゃくだった。
「こうなったら一騎でも多く道連れにしてやる。あわよくば、スティル・メイト(引き分け)に持ち込めるかも知れない」
アルジャンテ・キングは正面に立ちはだかるポーンやビショップを生け捕りにしつつ、ひたすら前進した。
しかし、それは正しい読みを伴わない積極性にすぎなかった。二騎のルークとビショップによる白側の総攻撃にて、黒キングはもはや行き場を失っていた。
27手目、ジャンドゥヤ王子が「ルーク、d3」で静かにグサリ、とどめを刺した。
「チェック・メイト(王手詰み)」
14.「陰謀」へ続く……