「お菓子な絵本」35.迷宮
35. 迷宮
「逃がしてやれとは言ったが、逃がせとは言ってないぞ!」
ぺルル・アルジャンテは例によって怒り狂っていた。
「まんまと逃げられて、尾行もつけられなかったとはな。こともあろうかこの警備隊本部でだ!」
おかげで邪魔者がもう一人増えてしまったではないか。奴は必ずマドレーヌの塔に向かうだろう。王子もだ。アルジャンテは覚悟を決めた。
「いいか。おれは最期の砦に入る。誰一人、塔に近づけるな」
「隊長……。隊長はどうなさるのですか? もし……」
「もし、何だ?」
「もし扉が開けられなかったら? 塔は三時には崩れるとのことでは……」
「そのときは、そのときだ」
警備隊長はその場に居合わせた部下の一人一人に、いつになく思いやりのあるまなざしを向けた。
「おまえたち、しっかりやれよ」
隊員たちは不安におののいた。
「隊長……。どういうことです?」
「カイザー・ゼンメル城警備隊長として、最期まで責任をとる! ということだ」
泣きつかれるのはごめんだ。アルジャンテはぴしっと敬礼だけすると、さっと部屋を後にした。
その塔は西側の内堀脇に、淋しげに、しかし堂々と、挑戦するかのごとく佇んでいた。
最上部の小部屋の窓はひとつだけ。人が通れるほどの大きさはない。ガラスも何もはまっていない少し大きめの窓が途中にいくつかあるが、足がかりは何もなかったし、ロープをかけてよじ登るには高さがありすぎる。入り口は秘密の隠し扉になっているようだし、外部から入り込むのは無理なのだろうか?
黒すぐり=真秀は城の陰の人気のない場所から塔周辺の状況を確認し、途方に暮れた。
「真秀?」
背後からいきなり声をかけられ、真秀は飛び上がった。振り向くべきか、知らん顔するべきか……。しかしこちらの名が割れてるとなると、味方には違いなかろう。
その女性は看護師だった。いや、看護師の扮装をしたローズ・リラだった。黒すぐりの剣と盾、帽子を真秀に手渡しながら彼女は言った。
「あなたを救出しに警備隊本部に侵入したら、既に逃亡した後で、もう大変な騒ぎ。だからその隙にこちらは返してもらったのよ。だけどずいぶん探したわ」
「それはどうも」
彼女がまるで昔からの知り合いのように話しかけてくるので、真秀はこの人が自分のことをどれだけ知っているのかなと思った。王子から何を吹き込まれてるんだか。
「初めまして、じゃないわよね。でも、初めまして、かしら?」
「じゃないけど、一応初めまして。真秀シュヴァルツです」
「ローズ・リラ」
二人は握手を交わした。
「さ、行きましょ」
ローズ・リラはそのまま真秀の腕を引っ張った。
「どこへ?」
「風穴洞。ジャンドゥヤさまから頼まれてるの。あなたを送り届けるようにって」
真秀はローズ・リラの手を振り払った。
「ダメ。まだ帰れない」
「真秀。これは命令なの。王子の命令は絶対なの。逆らえないのよ」
「いやだ。たとえ相手が王子だろうと王さまだろうと、誰の命令も聞きませんからね。あの塔に行かなきゃならないんだ。何としても」
「真秀……」
二人はしばらくの間押し問答を続けていたが、やがてローズ・リラのほうが観念した。
「信じられない! こんな頑固な子は初めてだわ」
もはや議論の時間はない。彼女は仕方なしに、必要な情報を黒すぐり=真秀に伝えた。
もしルドルフから暗証番号を聞き出せなかったら、隣の建物の屋上をつたって塔の途中の窓に入り込む方法を王子はとるだろう、と。それは気の遠くなるほど高い位置にある小さめの窓だったが、王子か真秀のような少年か、女性なら入れそうだった。
「それから、ぺルル・アルジャンテに関する番号。警備隊本部で入手してきたの。生まれた年は1495年。誕生日は5月16日。警備隊の認識番号が 1101。……覚えた?」
「もちろん」
自分も何とか王子に伝える手段を考えるが、先に会ったら必ず伝えるようローズ・リラは念を押した。
「わかった」
ひとつ、気になっていたことがあった。彼女とはもう会えないかも知れないので、真秀は思い切って聞いてみた。
「ローズ・リラ、あなたは……」
「なあに?」
「処刑のとき、王子の名を叫んだでしょ。心の中で。あの時、もうダメかと思ったの?」
「聞こえてたの? いやだわ。じゃあ、王子にも聞かれてしまったかしら?」
ローズ・リラは赤く染めた頬に手を当てた。
「処刑が罠だと知ってたから、死ぬとは思わなかった。でもまさかネジが抜かれてたとはね。ただ、正直言って恐かったことは確か」
「そりゃそうでしょう。たとえ刃が止まっても、気の弱い人間ならショックで死んじまうかも知れないんだし」
「そうよね。どんな状況でも、たとえ死と隣り合わせの場合でも、冷静でいられるよう、わたしたちは訓練を受けているのだけど……」
ふと、遠い世界を思い起こすような表情で、ローズ・リラは続けた。
「だけどあの時……。誰かが、どこからか、『大丈夫、大丈夫』って」
「声が聞こえたの?」
「夢の中からの声みたいに、どこか高いところから、心に直接語りかけてくるように……」
ローズ・リラは静かに、感謝するように塔を見上げた。
「優しく、慰めてくれるみたいに……」
マドレーヌか。真秀は気づいた。夢から直接心に語りかける彼女の声を想像してみた。
── 大丈夫。死ぬのは恐くない ──。
そして、ぞっとした。いやだな……。彼女は「助かる」という意味で「大丈夫」と呼びかけたはずじゃないか。
真秀は一瞬よぎったマドレーヌ嬢への疑惑を、当然のごとく振り払った。
そんな真秀の疑念をよそに、ローズ・リラは誇らしげに続けた。
「そして刃が落ちてくる瞬間は、一心不乱にジャンドゥヤさまのことだけを思っていたわけ」
プライベートなことだ。その先を聞いて良いものか迷ったが聞かずにはいられなかった。
「ジャンドゥヤ王子を……、その……、愛してるの?」
「ええ。愛してる」
真秀が恥ずかしくなるほど、きっぱりと答える。
「ああ、でも違うのよ。それは絶対的な愛情であって、恋とは違うの」
ローズ・リラは夢見るような瞳で宙を見つめた。風穴族の首領アンジェリカが創造者や王子のことを語っていた時の、深い愛情と憧れに満ちた様子と似ていた。
「わたしたちにとってジャンドゥヤさまは、愛さずにはいられない、絶対的で、確かな存在なの。自分の分身のように、呼吸するかのように当然のごとく愛を感じるの。彼を思うことで、自分はすごく強くなれる気がするの。彼のためになら、命だって捧げられる」
「わかる! ぼくもそう感じたんだ! 今朝のことだけど」
真秀は朝日に包まれた王子の輝ける姿を思い起こしていた。
「彼が死ぬくらいなら、自分が死んだほうがましだって」
王子もあなたに対して同じように感じてるはずよ。とローズ・リラは思ったが、それは王子が自分で言うべきセリフだった。
「ジャンドゥヤさまが存在しているだけで、わたしたちは幸せなの。だから共に行動したり、彼のために仕事ができるときはもう、心から誇りに思うわけ」
幸せそうに、ローズ・リラは微笑んだ。
「でもね。それとは別に、もっと身近に。気になる人は……、いるのよ」
そして恥ずかしそうに続ける。
「その人には振り向いて欲しいし、わたしのことも、ちゃんと知って欲しい。できれば一緒に過ごして、彼のために何でもしてあげられたらなって思うの」
だから看護師の扮装をしてるんだな。相手はマシュマロ・ホワイトか? ラッキーな奴だなと、真秀は思ったが、それ以上は聞かないことにして、彼女とは行動を別にする。
ローズ・リラが言っていた塔の隣のその建物は、上に行くに従って徐々に幅が狭くなっており、屋上は人がやっと通れる幅しかなさそうだった。弓矢を射るために身を隠す壁が所々に設けられている。おそらく敵が攻めてきた際、塔にたてこもった城主を守る、最後の防衛の要として造られたのだろう。
黒すぐり=真秀はその建物に侵入し、ひたすら屋上を目指した。しかしこちとら脱走者の身分。警備隊にでも見つかったらおしまいだ。真秀は慎重に階段を上がっていった。
と、階上から足音と話し声。
警備隊か? 数人はいるようだ。
慌てて階段脇の廊下に飛び込んだものの、廊下はただ一直線に伸びているばかり。身を隠せる場所などどこにもなかった。壁にぴったり身を寄せる。誰かがこちらを見れば間違いなく見つかってしまう。だが、もはや手遅れだ。真秀は壁の一部になったつもりで自らの気配を押し殺した。
壁、壁、壁……。石でできた無機質な、冷たい壁。
「王子のほうは放っておけ。迷宮に入り込んだんだ。当分は出られまい」
「よほどのアホか、天才でなけりゃ、無理だ。永久に捕われの身さ」
声が降りてくる。真秀は自分が壁に溶け込む様子を強烈にイメージした。城の壁。この壁は城の一部なんだ。そんな当然のことを、真秀は壁になって初めて知った気がした。カイザー・ゼンメル城の全体が見えてくる。ここは城内の西のはずれ。
「しかし塔が崩れたら? いくら何でも王子を死なすわけには」
「崩れるのは塔だけだ。この建物は大丈夫」
「迷宮に入っていれば、かえって安全ってわけですね」
「あとは黒すぐりだな。来ると思うか?」
「ああ、奴は必ず……」
警備隊の連中はわいわい階段を下りていった。すぐ脇にいた黒すぐり=壁になった真秀には誰も気づかなかった。
灰色の空間。
風が吹く音。
透きとおった笛の音のような風の声。
声が唄へと変化し、空間がゆらぎ、次第に色づいてゆく。
ビッグ・バン直後の宇宙のように。
波打つオーロラ、凍てつく大地。
やがて光が差し、薔薇色の朝焼け、広大な草原、彼方には切り立った山々が生まれ、花、湖、動物たち、優しい歌声、夢のような響き、高らかな合唱、ありとあらゆる楽器の大合奏、すべてが喜びに満ちあふれて輝き出す。
そして突然の泥の雨。
いや、泥はなかったことに……。
しかし泥の染みは消えない。そこに城が立つ。星型の、塔のたくさんある城が。
何年も……、何百年も何世紀も、その城は静かに主を待っていた。
やがて城は生命を得る。パイプオルガンの荘厳な響き。ライン河に身を投げたはずの、あるいは足を滑らして溺れたはずの青年が、奏でている。
── お休みなさい、黒すぐりさま。これが最期の夢となりますように ──。
オルガンの暗い和音をBGMに、無気味なセリフが幻聴のように響いてきて、黒すぐり=真秀はぞっとして目を覚ました。
── 身体が動かない ──。
自分が何年もの間、こうして城に溶け込んでいたのではないかと真秀には感じられた。
なんでここにいるんだ?
壁に密着し、捕われ、硬直している身体を、驚異的な精神力で引きはがす。やがて自由になり、ほうっと、真秀は深いため息をついた。生きた心地がしなかった。
「泥の染みの上に築かれた城か」
呪われた城……。
一瞬浮かんだイメージを、真秀は打ち消した。この城にはまだ謎がありそうだが、呪われているとは思えない。
迷宮? 確か目次にもそうあったじゃないか。永遠のように感じたが、実際はほんの数分か、数秒のことっただろう。
固まってしまった思考と身体をほぐしながら、真秀注意深く一歩を踏み出した。
さっきの警備隊員たちが言ってたっけ。よほどのアホか天才でなければ出られない迷宮に、ジャンドゥヤ王子ははまってしまったのか? 助けに行かないと……。
まずは屋上へのルートを見つけだすべし。でないとこちらまで迷ってしまうことになる。
真秀は階段を上へ上へと登っていった。10階分くらいは登ったであろう。しかし最上階から通じる廊下など、どこにもないではないか。階段の窓から身を乗り出して確かめる。
「あれえ?」
真秀はすっとんきょうな声をあげた。
塔に通じる屋上は、なぜかずっと下方にあった。妙だな? 下からはそんな風に見えなかったのに。まさか自分も既に迷宮にはまり込んでしまったか? 真秀は焦った。
冷静になるんだ。失敗は許されないんだから。
階段を途中まで下りて、屋上のすぐ下の廊下に出なければ。上からある程度の目星をつけておいたから、今度は大丈夫。
しかし探せども探せども、屋上に通じる廊下は見つからなかった。
「そんなバカな! 確かに上から見たんだ」
焦れば焦るほど、わけがわからなくなってきた。怪しいのはこの階段かも知れない。何もかも疑ってかかったほうがよさそうだ。まずは階段からおさらばしよう。適当なところから廊下に抜ける。しかしそこは先が見えないほど長い廊下だった。こんなに長い廊下があったろうか? と、思いきや、すぐに行き止まり。羽根を広げたごく小さな孔雀の彫像がそこにあった。
── これはだまし絵なんだ ──。
建物自体がだまし絵になってるんだ。奥に進むほど廊下を狭く、天井も低くして、わざと長い廊下のように見せかけている。しかも終点には極端に小さい彫像の演出付である。小さいほどに、遠くに見えるわけだから。
この妙ちくりんな建物にとらわれていたのでは、自分がどこに居るのかさえ見失ってしまう。
手がかりは、窓から見える外の景色! 真秀は自分に言い聞かせた。
とにかく、この廊下はもうパスだ。関係ない場所は二度と通らずにすむよう、一カ所ずつチェックしていけばいい。真秀は廊下の窓から見える外の景色を頭にたたき込んだ。それから……、さっきの階段は使い物にならないから、別な階段を見つけよう。
── あと一歩だというのに! ──
こんなところを抜け出せないなんて。ジャンドゥヤは唇をかみしめた。とにかく今となってはこの建物を出ることだけを考えねば。
どこか、曲がり角の向こうの方から、バタバタいう足音が近づいてきた。
── 敵か? 味方か? ──
このさいだ。警備隊であろうと誰であろうと、利用させてもらおうじゃないか。王子は勢いよく角を曲がってきた人物に、脇から襲いかかって羽交い締めにしようと──
「真秀!」
「ジャンドゥヤ王子!」
二人は相手が道案内人でなかったことに内心がっかりしながら再会を喜んだ。
「真秀。無事だったか……。良かった」
ジャンドゥヤは張りつめていた緊張が一気に解けたかのごとく、安堵の表情を浮かべた。
「それにしてもまったく無防備に足音を立てて走り回っていたじゃないか」
「だってもう同じところをぐるぐる回ってばかりで。時間がないと思うと、走らずにはいられなくて」
二人はこの迷宮の情報を交換し合った。
「あそこは行き止まりだった。下の階は全部ダメ」と、王子。
「でも最初は入れたんだ。だからもと来た道を戻れば抜け出せるはずじゃないか」
「そのルートを覚えているか?」
「いいや。全然」
「では意味がない」
「でも必ず抜け出せるんだよ。警備隊の連中が言ってたんだ。よほどのアホか、天才でなければ無理だって。てことは、よほどのアホか天才なら抜け出せるわけじゃない?」
「アホか、天才」
その言葉に王子は何かヒントをつかんだようだった。
「ということは、固定観念にとらわれない者だけが出られるんだな。わかった。ぼくは思いきりアホになるから、きみは天才になってくれ」
「了解!」
アホと天才のコンビは、さて、どっから帰ろうか? などと言いながらのんびり歩き出した。
「この階段は使い物にならないよね」
「ふうん、そうなの」
「若かりし頃のルドルフ公の肖像画か。この絵の先は行き止まりだった」
「そうだったっけ?」
「この窓からの景色さっき見たぞ」
「ぜーんぜん覚えてない」
二人は走り出したくなる衝動を必死で抑えながらアホと天才になりきって、辛抱強く城内をさまよい続けた。
再びルドルフ公の肖像画の前。どうしても同じ場所から抜け出せないようだ。
「この絵の先は行き止まり──」
言いかけて、天才少年ははっとした。
同時にアホ王子が言った。
「ぼくはアホだからそんなこと、覚えてない。だから自分一人だったらきっと何も考えないで、その先に行ってみるだろうなあ」
「もし同じ絵が二枚あったとしたら?」
二人は顔を見合わせた。そして行き止まりのはずの絵の向こう側に、それっとばかりに駆け出した。
36.「彼は味方だ!」に 続く……
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