「お菓子な絵本」 7.黒すぐり あらわる
7. 黒すぐり あらわる
マドレーヌは木の幹や生い茂る枝葉に抱かれて、深い眠りに陥りつつあった。
矢が飛んでこないようにと、かなり高い位置まで登ったので、どこかで意識を保つ必要はあるものの、襲いくる睡魔には到底勝てそうにない。
すぐ近くの、樹齢百年はありそうなブナの大木で、鷹のヒナがけたたましく鳴いていた。母鳥が心配そうに巣の回りで羽をばたつかせている。
ピイピイいう鳴き声を、いつもの辺りに漂う無邪気なBGMのごとく、夢うつつに聞き流していたマドレーヌ。
しかしそのうちに、何か恐ろしいものが自分を狙っているように感じ始める。浮かんでくる様々なイメージ。鳥の黒く鋭いくちばし。尖っている足の爪。そして矢じり。
矢じり?
恐ろしい鉄の矢じりが、こちらに向けられて。誰かが弓矢を構えてる?
ニーナ・カットは弓を引き絞り、慎重に狙いを定めていた。
「何をする、つもりなんだ?」
ぺルル・アルジャンテが彼女の腕を弓矢ごと捕らえた。
いきなり目の前に現れた冷ややかな瞳に、はっとニーナはたじろいだ。
「警備隊長さま。マドレーヌさまが危険なのです」
アルジャンテの疑いを察し、ニーナは顔を赤くしながら慌てて釈明する。
「あの鷹が狙って……。マドレーヌさまを」
一羽の鷹が大きな翼を広げて、マドレーヌ嬢の眠る木の周囲を用心深く旋回していた。
密かに見守っていた警備隊長も、むろん事態は把握していた。しかし彼女の眠りを妨げることは、極力避けたかった。何しろ起こされたときの機嫌の悪さといったら……。
「やむを得ん。お目覚めになってもらうとするか」
覚悟を決めてアルジャンテがマドレーヌ嬢のもとに向かいかけたその時、背後からの強烈な一撃が彼を地面になぎ倒した。
何が起きたのか?
ショックのあまり息ができなかった。しかし打たれた首筋や転んでぶつけた顔面、腕の痛みより何よりも、地べたにひれ伏した己のぶざまな姿のほうが大いに気になる警備隊長であった。
信じられん、このおれが。
アルジャンテは膝をついて呼吸を整え、悔しまぎれに剣を抜きながら襲撃者を確認した。
暗褐色の怪物──、いや鷹だ。鷹がもう一羽あらわれ、飛び回っている。
奴が蹴りつけてきたのか。巣の異変に気づき、狩りから戻った父親の鷹が、警戒して襲ってきたのだ。警備隊の制服の、この固い詰襟がなかったら? アルジャンテはぞっとした。首筋をもろに殺られていただろう。
鷹の父親が今度はマドレーヌを威嚇し始めている。母親のほうは巣に舞い戻り、ヒナを守っている様子。当のマドレーヌは熟睡しているのか、この騒ぎにも一向に目覚める様子はなさそうだ。
剣をさやに収めると、アルジャンテは冷徹な表情でクロスボウを構えた。
「何をなさる! マドレーヌさまに当たるではないか」
今度は王室護衛隊のベルガー隊長が木陰から飛び出し、止めに入った。方向を失った矢はビシッと木の根元に突き刺さった。
「じゃまをしないで頂きたい」
アルジャンテは動じることなく、すまして二矢目を構えた。全神経を集中させると……、
今度はクロスボウごと地面に叩き落とされた。
彼は衝撃にじーんとしびれた両手をわなわなと握り締めた。
「ベルガー! 許さんぞ!」
アルジャンテのポーカーフェイスもここまでだった。歯をむいて振り返ると、黒のコスチュームに身を包み、悠然とたたずむ若者の姿がそこにあった。
アルジャンテも、ベルガーも、ニーナも、その姿は初めてであったが一目でわかった。
「黒すぐり……」
アルジャンテはやみくもに剣を抜き、黒すぐりに挑みかかった。この謎の騎士の評判は充分聞いていたし、その活躍ぶりに少なからず感心も示していた。が、相手が味方であれ敵であれ、やられたらやり返す。カイザー・ゼンメル城警備隊長としてのプライドが彼を駆りたてた。
アルジャンテの突撃をやむなく剣で防ぎながらも、黒すぐりに戦う気など、ありはしない。
「やめたまえ。今はそんな場合じゃないだろう」
この場合、マドレーヌ嬢の救出が最優先であることくらい、わざわざ言われなくとも警備隊長は百も承知。ただ、黒すぐりの剣をちょいと跳ね飛ばしてやりたかったのだ。
ところがそう簡単にはいかなかった。
アルジャンテの攻撃をさっそうとかわす黒すぐり。まさに柳に風。黒すぐりの「受け」の体勢があまりに柔軟で、攻撃側は手応えすら感じることができない。
「少しは本気で向かってきたらどうなんだ!」
アルジャンテのイライラはつのるばかり。
ジャンドゥヤは思った。この隊長、表面的にはポーカーフェイスを装っているものの、中身はまるでコントロールできてない。怒りのエネルギーで乱れに乱れて。なかなか鋭い技を持っているのに、惜しいな。
そろそろケリをつけるべきか。黒すぐりの目がキラリと光る。
一部始終をマドレーヌも眠りの中で見ていた。
ついに黒すぐりまでが登場するなんて。わたしのせいでやっかいな騒動になっている。起きなくては。起きなくては……。
バランスを崩した拍子にマドレーヌは目覚めた。
そして落下した。
黒すぐりの反応が最も速く、次いでアルジャンテ、ベルガー、三人がほぼ同時に猛烈な素早さでマドレーヌのもとに駆け寄った。
羽根のように軽い少女をしっかりと抱き止めたのは黒すぐりだった。
「お怪我はありませんか? マドレーヌさま」
夢じゃない。本物の黒すぐりが目の前にいる。しかもわたしの名前を、確かに呼んだ。静かに響く、その優しい声で。マドレーヌはうっとりと夢見心地で謎の黒騎士を見つめた。この瞳。このエメラルド色の瞳を、わたし知ってる。夢で見たの? ううん、夢じゃない。いつだったか、どこでだったか。
マドレーヌは彼の顔を覆っている黒いマスクに、ゆっくり手を伸ばした。
正体を見破られてもいい──。という想いが、一瞬だけジャンドゥヤの身を貫いた。こうしていつでも参上し、マドレーヌを救うことができたら。王子としての責任も黒すぐりとしての使命もすべて投げうって、いつでも側にいて自分自身の手で彼女を守り抜くことができたら!
マドレーヌを支える腕に思わず力が入り、ジャンドゥヤは我に返った。
── まだその時期ではない ──。
黒すぐりはふっと微笑んで、マスクを取ろうとしたマドレーヌの腕を押さえると、彼女を草の上にひょいと降ろしてしまった。
── 自分のやっていることは、必然的に彼女をも救うことにつながるのだから ──。
面白くないのはアルジャンテ。大事な武器を叩き落とされたうえに自分の役目を横取りされたとあっては、警備隊長の面目丸つぶれではないか。
しかもこの二人の何やら怪しいムードときたら。
「マドレーヌさまをお助け頂いたことは、感謝する」
アルジャンテが黒すぐりに迫る。
「だが、なぜ討つのをじゃました? 私が彼女を狙うとでも?」
「無益な殺生は好まないのでね。鷹は我が子を守ろうとしただけだ。それにきみの矢が、彼女に当たらないとも限らない」
黒すぐりは投げ出してあった自分の剣を拾いながら、正体を悟られぬようジャンドゥヤの声より半オクターブは低いトーンで答えた。
アルジャンテは足もとの小石を拾い、空中高く放り投げた。そしてすばやくクロスボウを構え、矢を放つ。次の瞬間、小石は粉々に砕け散った。
「殺そうと思えば殺せた!」
確かにクロスボウの腕にかけてはアルジャンテの右に出る者はいなかろう。
「わたしを狙うとか殺すとか、ずいぶん物騒なお話ですこと」
すっかり目も覚めたマドレーヌが呆れて言った。
「第一、皆さんどうしてこんな所に集合してらっしゃるの? まさか、わたしを尾行してたわけじゃないでしょうね」
互いが疑惑の視線を交わし合う。一人きりになったマドレーヌを狙おうとした人物が、この中にいるのだろうか。
「マドレーヌさまがどこにおいでになろうと、警護するのがわたしの役目ですので」
アルジャンテが開き直って堂々と答える。
「わたくしもお嬢さまをお守りしようと……」
ベルガーはそこで口ごもった。
「相手を間違えておられるのでは? おたくの大切な王子殿はどうなさったのです」
余計なお世話といわんばかりのアルジャンテ。
ベルガーは迷っていた。ジャンドゥヤが(何も言うな!)と、目配せを送るが、ベルガーが気づくはずはない。
「ジャンドゥヤ王子のご命令でしたので……」
「王子が?」
マドレーヌとアルジャンテが同時に聞き返した。
とっさに黒すぐりが会話をさえぎった。
「わたしは騒ぎを聞きつけて駆けつけたまでですが、あなたは?」
一同がニーナ・カットに向き直る。
「きみは狩りのメンバーには入ってなかったはずだが」
と、アルジャンテ。
「ニーナ。お城でお客さまを迎える準備が忙しいと言ってたのに。どうしてわざわざこんなところに?」
マドレーヌ嬢も首を傾げる。
「わたしは……」
ニーナ・カットは後退りして弓矢を置くと、木の根元にあった布袋を探った。中から出てきたのは大きな白いまくら。
「マドレーヌさまがまくらをお忘れでしたので、お届けに参りましたの」
狩猟の場にまくらとは……。うっと込み上げてくる笑いを、三人の男性陣は震えながらこらえた。
「まあ、ニーナったら」
マドレーヌは感激して、忠実なる世話役を抱きしめた。
そのとき、 ピィー! という辺りをつんざく鳴き声で和やかムードは打ち破られた。興奮した鷹のヒナが巣から落ちたのだ。
今度はマドレーヌが速かった。まくらと我が身を木の根元に投げ出してヒナをふわりと受けとめた。同時に鷹の父親が音もなく急襲してきた。
「あぶないっ」
弓矢をつがえる間などなかった。ベルガーもアルジャンテも、叫ぶのがやっとだった。
マドレーヌはヒナを抱えたまま目を閉じた。
しかし黒すぐりだけは動くことができた。かがみ込んいるマドレーヌの前に飛び出し、襲い来る鷹に向かって両腕を広げ、立ちはだかった。
「ジャンドゥヤ! 何てことするんだ」
真秀は自分の声で目を覚ました。というより、意識を取り戻した。
8. 「決闘」に 続く……
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