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「額縁幻想」 ⑤ 危険な鏡の行く末

「額縁幻想」 ⑤ 危険な鏡の行く末は……



「うちの祖父が50年間、歳を取ってなかったと?」
 絵里香は両手で口元を覆い、消え入りそうな声で続けた。
「つまり、祖父がヴァンパイアか何かだと? わたしが吸血鬼一族の末裔と?」

 クラウス・ホフマンは額を抱えてうなだれた。話がそちらの方向に発展するとは……。

「フロイライン、少々話が飛躍しすぎでは?」
 人が涙ながらに真剣な話をしているというのに。彼女は本気で言っているのか? 笑いたいのに、笑えない。

「ぼくはヴァンパイア一族の話ではなく、時空移動の話をしているんです。ホラーではなく、科学の話」
 辛抱強く、彼は説明を続けていく。
「サラエボに行くなと言ったハイデンベルク青年の警告を聞き入れ、皇太子を無理矢理にでも止めていれば、第一次世界大戦は起こらなかったかも知れないんですよ。
 あの戦争で、いったいどれくらいの人命が失われたか、ご存じですか?」

 皆目わからないと、絵里香は首を横にふった。

「判明しているだけでも、戦闘員の死者がおおよそ九百万。民間人が一千万。負傷者にいたっては、二千万〜三千万ともいわれている。
 社会的影響としては、ソ連の成立、ヨーロッパの資本は米国に移行。そして敗戦によるナチスの台頭は、やがて起こり来る第二次大戦の引き金となっていった」

 祖父の長年の痛恨の念を、クラウスは代弁していた。

「あの鏡を利用することで、地球の過去と未来に、人類全体に、どれだけ影響を及ぼすか、想像できますか」

 ファンタジーの世界の住人である絵里香には、鏡が全人類に及ぼす力など知る由もない。

「HGウェルズのSF小説などで当時から時間旅行の概念はあったわけで、彼が鏡を通して未来から来た青年ではないかと、口にこそ出さなかったが、祖父はひそかに疑っていた。だからこそ、鏡は後にハイデンベルク家に届けられたんです。祖父の判断で。未来のハイデンベルク家の青年が鏡を抜けて過去に現れ、皇太子の自殺を救ったということは、鏡は最終的にはハイデンベルク家に存在する必要があった」

「少し頭を冷やさないと」
 頬に手を添え、混乱した様子で絵里香は立ち上がった。「紅茶でも入れて来ます」

 ふうっと、クラウスは深いため息をつき、ソファにもたれた。こちらの話は大方終わった。あとは彼女が何を知っているか、他に誰が鏡の秘密を知っているか、だ。場合によっては、ぼく自身の手で鏡を処分せねばならない可能性も。その代償が、ファベルジェの卵……。
 心を落ち着かせるため、クラウス・ホフマンはピアノに向かった。



── どうして彼のピアノは、こんなにも心に響くんでしょう ──。

 涙が自然にこぼれ落ちる。優しくて、ひたすら温かかった祖父のピアノが大好きだったけど、彼の音楽は……、何だか切ない感じ? そう。幼い頃から何年もの間、たった一人で重大な、信じがたい秘密を受け継いでしまい、誰にも語らずに守り続けてきた者の哀愁感が、彼には漂っているのでしょうね。
 今、彼はその重みから少しだけ解放された。
 そして、わたしも。

 絵里香がテーブルに、音を立てないようそっと紅茶のセッティングをしているうちに、クラウスは一曲弾き終え、ソファに戻った。

「今のは〈オルゴール〉の作者と同じ、リャードフの〈プレリュード〉」

 絵里香の関心を察して、彼は紹介した。

「音の細密画家とも言われたリャードフは、繊細で詩的かつ、民族的色彩にあふれた美しい小品を、たくさん残してるんですよ」

「また、聞かせて下さいね」
 絵里香は優しく言った。その言葉には、単なる社交辞令ではない深い意味が込められていた。

「さて、今度はあなたの話を」
 クラウスの語調には、容赦のない響きが宿っていた。

 既に覚悟はできていた。絵里香は数日前の鏡の顛末を、すべて物語った。祖父に恋をしたことも、過去が変化したことも。

「現実の世界に戻って来たら、あの絵がね、微笑んでいたの」

 ピアノ脇の壁にかけてある祖母の肖像画を、絵里香は指し示した。

「記憶までが変わっていた。冷たい雰囲気だった祖母が、いつもにこやかな笑みをたたえた優しいイメージに」

「すごい話だ」
 クラウスは涙ぐんだ絵里香の瞳をしっかり見据えて言った。
「ありがとう。よく話してくれた」
「それはおたがいさま」

「ハイデンベルクさん。鏡のことですが」
 あらたまって、クラウスは切り出した。

「ああ、わたしはハイデンベルクじゃないんです。ここは母方の実家なので」
 絵里香は遠慮がちに言った。「絵里香……と」
「では、ぼくはクラウス、と」

 二人は少しばかりはにかんだ笑顔を交差させた。

「母も叔母も、結婚して家を出てしまったから、今はもう、この家名を受け継ぐ者はいないけど……」

 そこで絵里香はきっと顔を上げた。

「でも、わたしには野望があるんです! いつかここを、このお屋敷を、祖父の記念館にすることが。『画家、シュテファン・ハイデンベルク記念館』」

「それは素晴らしい目標だね」

 絵里香が「夢」という表現ではなく、「野望」と言ったところが、クラウスは感心しながらもおかしくてたまらなかった。いかにも彼女らしいではないか。そんなところが、彼女の魅力なのだろうか。

「そうすれば、ハイデンベルクの名は永遠に残るわけ。わたしの使命は、ここをいつまでも守ってゆくことなんです」

「ひとつだけ」
 クラウスが絵里香の演説に釘を刺した。
「きみにできることは、それだけじゃないよね?」

「はあ?」

「シュテファン・ハイデンベルク記念館は、もちろん素晴らしい。だけどきみは、彼を超える画家になれるよ」

「はあっ!?」

「きみの記念館も作ろうじゃないか。もちろん、きみが生きているうちに」

 絵里香の頬が、ぽっぽと熱くなった。
「わたしが祖父を超える画家に?」
 そんなことを指摘されたのは初めてだった。思いもかけなかったこと。

「なれるよ。絵を見ればわかる」

「いつ、わたしの絵を……」
 言いかけて、やめた。そうだった。彼には何でもありなのだ。

 彼女が興奮し過ぎて、もはや話にならないことを、クラウスは悟った。
「そろそろ退散するよ。お友達が来るんでしょう」

「友達は……」
 絵里香は自分の嘘を悔やんだ。人の心をかき回すだけかき回して、あっさりと行ってしまうのか。

「お茶をごちそうさま。鏡のことについては、後日また話し合おう」

 彼の口調に、絵里香は言い知れぬ不安を感じた。

「鏡のことって、まだ、何か?」

 こうなったら隠し事はフェアじゃない。正直に、クラウスは話すことにした。

 本心は、鏡を自分の手元に置き、どんな現象が起こるか、この目で確かめてみたかった。タイムトラベルができるかも知れないという、少年の頃から抱き続けたひそかな冒険心も忘れちゃいなかった。しかし絵里香の物語を聞き、使いようによっては、過去も未来も変えてしまう危険性のあることが証明された。

「肖像画が微笑むくらいなら、問題なかろう。しかしバタフライ効果で、人一人が消えてしまう可能性だって、アリなんだ」

 あるいは、地球そのものが滅亡してしまう危険性も、ないとは言い切れない。

「場合によっては処分、ということも──」

「それは、できない!」
 絵里香は激しく拒絶した。
「鏡は今はハイデンベルク家のもの。言ったでしょう。わたしはこの家を守るんだって」

「でも、あの鏡が生きている限り、危険は免れない」

「眠ってるだけ。それに、鏡は割れちゃったから、外してあるし。今は、ただの額縁なんだし、なんの心配もないんだし……!」
 声をつまらせ、絵里香は唇を震わせた。

 これ以上何を話しても、今の彼女には通じまい。クラウスは観念した。やはり言うべきではなかったか。もう少し、時間が必要か。

「何かあったら連絡を」
 彼は携帯番号のメモを絵里香に渡した。
「大学は夏休み中だし、比較的自由に時間は取れるから」

 門の外でクラウスを見送るまでもなく、絵里香は家に飛び込み、即座に知り合いの画材屋に電話をかけた。
「すぐに来て欲しいんです!」

 応急でいいから、例の額縁に合うサイズのキャンバス地を貼ってもらいたい。大至急! という、絵里香の尋常ならぬ注文に驚いた画材屋の老人は、ひととおりの画材を持って、その日のうちにトラックで乗り付けて来た。



「額縁幻想」⑥ へ続く……。




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