「セピア色の舞踏会」 ②
「セピア色の舞踏会」これまでは……
何か1曲でも名曲を書けたらと願う青年アントンは、かつてくしゃみで楽譜の音符を宙に吹き飛ばした経験があった。
〔 → 番外編「シャープないたずらっ子」〕
舞踏会の写真集の、麗しの貴婦人に惚れ込むうちに、大きなくしゃみで再び似たような事態が! 今度は音符でなく、百年前の写真の女性が実際に現れてしまうなんて!?
「セピア色の舞踏会」②
アントンが願ったとおり、まだ彼女は写真から抜け出たままの状態──どころか、ふわふわ漂う妖精のような軽さではなく、もはや完全に実体化した状態で、部屋の中央のピアノの椅子に腰かけて、例の写真集を眺めていた。
彼女に消えて欲しいと一瞬でも願おうとしたなんて。アントンは「何てバカな奴」と我ながら呆れてしまう。たとえ殺風景な、がらんどうの部屋が舞台でさえも、彼女はあまりに魅力的すぎる。
「思い出せない……」
ページをめくりつつ麗しの君は呟いた。
「わたし、ここに居たのよね?」
「まあ、突然のことでしたからね」
ひざまずき、靴を履かせて差し上げながら青年は慰めた。
「写真の中に戻れば記憶もよみがえりますよ」
言ってるそばから辛くなる。せめて戻る前に……、
「お名前くらいは覚えてらっしゃいませんか?」
「アウレリア」
なんと響きの良い名だろう。うっとりと、青年も返す。
「わたくめしはアントン。アントン・ヴァイスと申します」
「アントン?」
彼女は遠くを見つめて言った。
「何か思い出した気が……」
「いえいえ、マダム……、アウレリアさん、ここはあなたの時代から遥かに時が経ってましてね、もちろん、ぼくたちも初対面なんですよ」
「そうなのかしら? でも、あなたは……」
アウレリアという名の、遥かな時代の麗しの貴婦人は真剣に現代の──彼女にとっては未来の──青年を見つめながら、自身の記憶を辿ろうとした。その瞳の底知れぬ透明さに引き込まれてそうになり、青年は自分が溶かされてしまいそうな危うい感覚に陥った。
アントンはどぎまぎしつつも途方に暮れる。
一刻も早く写真集にお戻り頂かねば。
いやいや、記憶を戻して差し上げてからにするべきでは?
彼女をこのまま返してなるものか。せめてこちらで1日だけでも素敵な思い出を、時空の旅の土産に……。
さて、どうしたものか。
こんな殺風景な部屋でドレスの淑女のおもてなしは失礼だし、仕事の時間までは充分に間があるから……、
そうだ、街に繰り出そうではないか。彼女がこの街ウィーンの宮廷で踊っていた時代から百年も経ってる、今の街並みを見せてあげようではないか。
「良かったら街に出てみませんか?」
彼女はパッと顔を輝かせた。あまりに素直な反応に、誘った当の青年も嬉しくなってしまう。
「それも、あなたの時代から百年後の街ですよ」
旧市街の、便利な立地ながらも比較的落ち着いた界隈にある老舗のカフェ〈星の冠=シュテルン クランツ〉では、第2のリビングのごとく、ゆったりと落ち着ける空間を求める常連のウィーンっ子らに加えて、穴場のカフェ目当ての観光客などが、思い思いの優雅な時を過ごしていた。
ウィーン分離派から花開いたユーゲントシュティールによる世紀末建築の内装は、ガラスや黄金の枠組みに、花や植物の装飾がふんだんに取り入れられている。高い天井に上品な輝きを添える手拭きクリスタルのシャンデリア、柱とテーブルは大理石仕様。
珈琲の芳香、焼き立てリンゴケーキの甘い香り。
白いグランドピアノからは、ベートーヴェンやシューベルト、そしてモーツァルトのウィーン古典派を中心とした明るく親しみやすい名曲に、シュトラウス親子やレハールらのウィンナワルツが軽やかに紡ぎ出される。さらに往年の映画音楽やポピュラーの定番百曲以上のレパートリーが華を添える。
── 調子がいいぞ。今日こそぼくのオリジナルを ──。
常連婦人の無言のリクエスト〈アルプスの鐘〉に、いつもどおりに応えた後、アントンは目論んだ。即興のワルツでも弾いてみるか。「写真の貴婦人」に敬意を払って。
当の百年前の舞踏会の美女といえば、現代の社会情勢に興味津々で店内に備えられた新聞をひとしきり読みふけった後、アプリコット煮が添えられ粉砂糖のたっぷりかかったウィーン名物パンケーキ、カイザーシュマレン(=皇帝のお気に入り)を、それはそれは美味しそうにお召し上がりになっている。
このカフェまでの道程では、近代の光景、交通事情やファッションスタイルのあまりの変化などに、ただただ驚き呆れ、はしゃいでいたアウレリア。自身の足でしっかり歩き、途中でちょっと買物もし、ついには青年の職場で、百年前と殆ど変わらぬ素敵なピアノの調べに酔いしれながら、やはり百年前と変わらぬ味の珈琲とケーキを頬張るに至っているのだ。
つなぎのメロディーをさりげなく奏でながら、アントンは思った。
季節は夏とはいえ、薄地のドレス1枚で街を歩かせるわけにはいかなかった為、なけなしの金で買ってやった白いストールを優雅に羽織る姿は、正真正銘生きている女性そのものじゃないか。ブティックでは店員としっかり会話をし、ここの従業員とは握手までしているのだから──むろん正体は隠した上で──、もはや彼女は自分にしか見えない幽霊ではないのだ。
そして彼女はこれまでの客の誰よりも、ぼくのピアノを熱心に聞いてくれているではないか。調子もはずむ、というものだ。
果たして彼女は、あの世から遣わされた、ぼくのミューズなのだろうか。
ウィンナワルツのメドレーに、即興的に浮かんだ、〈アウレリアのテーマ?〉でラストを締め括り、華やかに今宵のワンステージを終える。拍手喝采だ。
「素晴らしかったよ。アントン」
パプリカ風味が絶妙な、まかないのハンガリー風煮込み、グラーシュを、恋人らしき女性とソファ仕様の客席で仲良く頂くピアニストの青年に、店長が遠慮がちに声をかけてきた。
「ところで……、例のトリオ用の編曲は、どうなったかね」
「大方仕上がってますよ」
かなり気のない返事をアントンは返した。
最近、時おり店に登場するようになった、ヴァイオリン、ビオラとチェロの、華はあるがお世辞にも実力があるとは言い難い美女トリオ。共演用の楽曲アレンジを頼まれていたのだ。
自分1人なら譜面なしでも即興で合わせられるが、彼女らは「正確な楽譜がないと弾けない」とのたまう。
カフェで弾かれる曲のレパートリーが、いったい何曲あるというのか。それにこれまで1人でやってきた演奏が、今後は4人となると、当然分け前も4分の1。ここでの仕事、馴染みのソリストからの伴奏依頼、アマチュア相手の個人レッスン、そして編曲や写譜程度が、わずかながらの収入源の、しがないピアニストにはかなりの痛手である。華トリオの人気は認めるが、本音は共演など願い下げたいところ。
つまり、いずれは自らクビを志願せよ、ということか。
「アレンジ代、前金で支払わせてもらうよ」
店長は先手を打ってきた。ご丁寧に「アントン・ヴァイス殿」と書かれた封筒が差し出される。
これは早く編曲を仕上げてトリオの連中にご登場願いたい、という暗黙のメッセージだろうか。結構な額を渡されたアントンは複雑な心境ではあったが、しかしこれは有難いぞと思った。
── アウレリアに服を買ってやれる ──。
それに身の回り品も……、と思ってから愕然とした。
自分はすっかり彼女の面倒を見る気でいる? あの屋根裏に、彼女を住まわせようとでもいうのか? 百年前の幻の彼女を?
それは恐ろしい事実だった。
きっと墓だってあるはずだ。
そして目の前の、本当に生きて呼吸をしている女性の運命に思いを巡らせる。
世紀末、つまり19世紀の末に生きていた彼女は、どんな人生を過ごし──パートナーはいたのか? ──、何歳まで生きて、そしてどのように亡くなったのだろう?
調べようと思えば、簡単にできるはず。だけど、そんなこと、したくないし、認めたくもない。
ひと目惚れした理想の女性が目の前にいる。しかも自分の音楽を心から幸せそうに楽しんでくれている。
失いたくない。
しかし彼女は、どう考えたって現実ではないのだ。
── 惚れちゃダメ。好きになってはいけない相手 ──。
アントンは自分に言い聞かせた。現実だけを見なければ。
休憩タイムも束の間、招かれざる3人娘が店に現れた時、アントンはむしろほっとした。
「聞いてませんよ」と店長に文句の一つも言いたかったが、素直に共演させて頂くことに。下手、センスなし、と決めつけず、彼女らの華やかさや明るさに惚れ込もうと努力する。
特にリーダーのヴァイオリンの女性とは見つめ合い、しっかり呼吸を合わせ、男女の共演に起こりがちなスリリングな色気をかもし出しつつ、ぐいぐい引き込んでゆく。音色はきついし、リズム感もいまいち。大柄な美人女優といった彼女は、決して好みのタイプではなかったが、自らが楽しまないと観客には伝わらない。
今宵のメイン、シュトラウスのオペラ《こうもり》の〈チャルダーシュ〉が佳境に入ったところで──、
「ビシッ」
案の定、ヴァイオリンの弦が切れた。
案の定というのは、アントンにはアウレリアがそういうことをするだろう、という漠然とした予感があったから。
しかし意外にもヴァイオリン女性は弾けたE線が頬にぶち当たるも何ら動じず、隣のAの弦の高音域を巧みに操り、難曲を見事に弾ききった。
やるではないか。アントンは彼女を見直した。現実の女性として、彼女は惚れるに値するだろうか。
さあ、アウレリアの反応は? とピアノ青年が様子を伺うと──、
麗しの貴婦人の姿は見当たらず。
アントンはピアノの椅子から飛び退いて、馴染みの給仕につっかかった。
「彼女はどこへ!?」
「今しがた、出て行かれましたよ」
③終章に続く……