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「額縁幻想」 ③ 不法侵入


「額縁幻想」③ 不法侵入



1963年 5月

 街角の、とある絵画展のポスターに興味を魅かれた。

 荒涼とした大地にそそり立つ、要塞のような古城。
 青や紫を基調とした、斬新な色使い、筆使い。
 夜明けなのか、夕暮れなのか。
 現実なのか、幻想世界なのか。
 力強くありながら、溶けてしまいそうなロマン性。
『─幻想と現実の狭間─シュテファン・ハイデンベルク個展』とあった。

 かなり魅力的な絵であったが、それよりも何よりも、「ハイデンベルク」というその名は、忘れもしない。

 わたしは個展の会場である、旧市街のサロンに足を向けた。
 力強く色彩豊かな見事な絵の数々に囲まれて、東洋の美しい女性が静かにピアノを奏でていた。
 絵と音楽の世界の融合……。

 そこで、わたしは過去の亡霊をかいま見た。

 社交界のお偉方らしき面々と挨拶を交わしているその青年は、紛れもない……、50年と少し前、シェーンブルン宮殿で、鏡の中に消えた男。

 オーストリア皇太子と、側近であったわたしの目の前で、
 ハイデンベルクと名乗り、皇太子の暗殺を予言し、鏡に消えた男が! 

 当時とまったく変わらぬ姿、年格好で、この時代に生きていたのだ!


      テオドール・ホフマンの日記より




 チャイムを三度鳴らしたが、応答ナシ。
 居留守をつかってるのだろうか。
 いや、彼女なら、そんなせこい手は使うまい。威勢よく出てきて、日本語の混じったドイツ語と英語で昨日の非難を散々浴びせた上、追い返しにかかってくるだろう。

 しばしの間、クラウス・ホフマンはハイデンベルク家の門前に佇んでいた。

 人の気配は……? やはりなさそうだ。夕方の散歩か買物か、懲りずにプラネタリウムでも観に行ったか。
 果たして行動を起こすべきか?

 クラウスは大いに迷っていた。

 昨日の様子からすれば、「二度と来るな」が、おちだな。だとしたら、決行するしかないか。内部の様子はわかってるんだ。簡単なことさ。今こそが、その時なのだ。
 決意を固め、彼は作戦を開始した。──不法侵入の。

 人目のない頃合を見計らって、門の鉄柵を、一、二の三で、乗り越える。非常ベルは? ……鳴らない。ここまではしごく簡単。
 目星はつけてあった。ポイントは中庭だ。表のアプローチから中庭に抜ける小路が……、よし。あったぞ。あとは中庭から大広間に通じるガラス扉の鍵さえ開いていれば……、開いてる! 非常ベルは? ……よし、鳴らない! 

 昨日の大広間に一歩踏み込んだところで、クラウスは、はたと固まった。もし、彼女が昼寝でもしていたら? 目覚めて大騒ぎされて、強盗扱い。留置場行きのみならず、大学も追われ、家からも勘当され、お先真っ暗の人生を歩むことになるのか? 

── クラウス。鏡の行く末を! ──

 そうだ。ぼくはじいさんに約束したんだ。遺言は実行されねばならない。たとえそのために、己の人生を棒に振ることになろうとも。

 留守とはわかっていても一応忍び足で、クラウスは広間を突き抜けらせん階段を上がり、二階の書斎の脇に、屋根裏とおぼしき小さな部屋を見つけ出した。
 どこにでもあるような一般の屋根裏とはひと味違い、塵も埃もなさそうで、何もかもがきちんと片づき、整理されているようだ。
 問題の品は……、ない? この部屋じゃないのか。では、建物の反対側、もう一方の屋根裏部屋になるのかな。とにかく時間はないのだ。彼女が戻らないうちに──

 急いで部屋を出かけたところで、誰かにささやかれたような気がして、クラウスはぎくっと足を止めた。

 あるいは唄声か。

 どこからか? この部屋か、外からだったのか? 身の回りの空間が、屋敷全体が、ゆらいだような感覚にクラウスは陥った。

── 同じだ。あの時と ──。

 数日前にも同様の現象が起こった。黄昏時のカフェーで仲間とひと息ついていた時のこと。その場の空気がゆらいだ事態に、一緒にいた友人らは気づかなかった。恐ろしいめまいかとも思ったが、直感はそうではないと語っていた。

 何らかの封印が解き放たれたか。

 疑いは、やがて確信となった。どこかで時空に歪みが生じたのだ。いや、場所はわかっていた。それは例の鏡があるはずの場所、ハイデンベルク邸に他ならないのだと。
 だからこそ、自分はここにやって来たのだ。

 声にならない声の呼びかけに応じて、クラウスは振り返った。衣装だんすの裏手。そこに何かがある。
 そう、隠されていた。大きな白い布にしっかりと覆われて。間違いない。

 ようやく会えた。ようやく、見つけた。

 きぃー、というかすかな音が、伸ばしかけた彼の腕を遮った。門の開く音。絵里香が帰って来たんだ。この期に及んで! 
 ここで鉢合わせたら、ただではすまなかろう。クラウスは鏡の確認を断念し、すぐさま脱出ルートを捜しにかかった。玄関ホールに通じるらせん階段は使えまい。反対側の壁面に外階段があったはず。そちらに回れさえすれば……、いやダメだ。彼女が階段を上がってくる。鏡の無事を確かめにここに直行するのだろうか。もはや逃げ場はない。絶体絶命か!? 


 絵里香は買物の食料品などを、キッチンに運び入れる前にいったん玄関ホールに置き、財布や化粧ポーチ、デジカメなどの入ったショルダーバッグを二階の寝室のクローゼットにかける習慣であった。鼻歌まじりに階段を上り切ったところで、何やら怪しげな気配を察し、きっと屋根裏部屋のほうを振り返った。つかつかと歩み寄り、書斎側から勢いよくドアを開ける。
 ふうっ、大丈夫。誰もいるわけがないのだ。鏡も……、大丈夫、いつものとおり。

「まいったまいった」
 絵里香はぶつくさ言いながら寝室に。
 彼が来てからというもの、どうも神経が休まらない。
 まったく、もう。
 それにしたって、さすがに昨日の今日だものね。のこのこ顔を出せるわけないか。

 絵里香は再びふんふん歌いだした。弾きたい曲があった。散歩の途中で思いつき、それを楽しみに帰ってきたのだから。



〈ワルツ・フォー・デビー〉じゃないか。

 ハイデンベルク邸の屋根の端っこに、妙な姿勢でへばりつきながら、クラウスはふっと微笑んだ。自分の置かれている、かなり危険な状況も忘れて。
 一歩間違えばあの世行き、とまではいかなくても、足か腕の一本くらいは折れそうな高さなのだ。しかもまだ冷んやり感の伴う、初夏の夕暮れの風に震えながら、ときたものだ。
 
 屋根裏の壁にあった小さな四角い出入り口から、彼はとっさに外へ抜け出したのだった。隣の書斎の大きな窓を外側から磨くための出入り口。まさに天の助け、とはこのことか。

 ん? これは〈悲愴〉? 
〈ワルツ・フォー・デビー〉は最初の数小節だけで、ゆったりとしたワルツのリズムはそのままに、〈悲愴〉の第二楽章を三拍子でとらえたメロディーに自然とつながる、何とも粋なジャズアレンジではないか。

 幸せな人だな。クラウスは再び微笑まずにはいられなかった。あんなに必死に怒ったりもするけど、こんなに明るく、楽しい演奏ができるなんて、彼女もきっと、幸せな人なんだ。

 夕暮れの輝きに映えるドナウの流れを眺めながら、彼は思った。
 あるいは、彼女と普通に話ができるかも知れない。
 駆け引きは、なしだ。互いに素直にさえなれれば。よし、次回は正攻法でいくか。

 思いがけない粋な音楽の贈り物。幸せなひとときに今しばらく浸っていたかったが、彼女がピアノに向かっている時こそが逃亡のタイミングなのだ。一切の音をたてぬよう注意深く屋内に戻り、屋根裏の片隅を名残り惜しそうに一瞥した後、絵里香のワルツをBGMに正面玄関からそっと立ち去った。
 玄関先に一片のメモを残して。


  秘密の鏡のことで大切な話があるので、
  明日の午後にでも伺います。
  もし、ご都合が良ろしかったら。    
              K. ホフマン

     P.S. 素敵なワルツをありがとう




「額縁幻想」④ へ続く……。



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