「お菓子な絵本」19.あの子が行ってしまった!
19. あの子が行ってしまった!
靴はあるのに姿が見えなかった。
キッチンに用意しておいた食事には手がつけられていなかった。
真利江はもう一度、息子の部屋をのぞいてみた。ベッドの上に何かある。本だ。窓からの風にもかかわらず、シーツにはまだぬくもりが残っていた。ついさっきまで、ここに居たのだ。
ははあ。真利江はにやりと笑って辺りを見回した。
「わかってるのよ、真秀。出てらっしゃい」
既に使い古された手であった。といっても真秀が中学に入った頃からは、この手の冗談はさすがに見られなくなっていたのだが。ある時はカーテンの陰に、ある時はクローゼットに、またある時はバスタブの中に、敵は隠れていた。そして発見されるまで、大真面目に息を殺しているはずだった。
だけど……、今回はどうも様子がおかしい。真利江の不安は大きくなりつつあった。気配というものが、まったくなかった。
緊張しつつ、ベッドに広げてある本を見下ろす。絵本だ。描かれている美しい情景を見つめるうち、真利江の顔から血の気が消え失せた。
「真秀!?」
ウィーンはまだ夜明け前だった。
闇の中、ホテルの部屋に無情に鳴り響く電話のベル。アルヴィン・シュヴァルツは目を閉じたまま腕を伸ばし、ベッド・サイドの受話器を何とか探り当て、いやいや取り上げた。
「シュヴァルツ……」
「アルヴィン!」
「真利江……。おはよう」
ベッドにうつ伏せたまま、アルヴィンはささやいた。
「きみはこちらが今何時だか、当然わかってかけているんだろうね」といういつもの皮肉は、言わないことにした。電話の向こうの、ただならぬ気配が伝わってきたから。
「どうした?」
「アルヴィン。あの子が、真秀が、行ってしまったの!」
事の重大さはアルヴィンにもすぐ理解できた。遅かれ早かれ、いつかはこんな事態が起こるのではないかという漠然とした予感があったから。
「落ち着くんだ。真利江」
アルヴィンは身を起こした。
「わかってたのよ。いつか、あの子が行ってしまうって。わたしにはわかってたのよ」
「だけど何故そう思う? 今頃は学校のはずだろ?」
「休ませたのよ、今日は。熱があったから。真秀は行きたがった。なのに、むりやり休ませたの。
だって……、あの子が熱を出すと、溶けちゃいそうな気がして恐いのよ。砂糖菓子のように溶けてしまいそうで……。なのにわたしったら、あの子を置いて出かけてしまったの」
自分を責めつつ一気にそこまで言うと、真利江は震えながら声をつまらせ、最後の言葉を振り絞って、泣き崩れた。
「帰ったらもう、いなかった!」
アルヴィンはすぐにでも飛んでいって慰めてやりたい衝動にかられたが、持ち前の冷静さで何とか感情をコントロールしようと努めた。音楽家としても、そうしたやり方は充分に心得ていた。
「真秀はお菓子じゃない。溶けたりはしない」
「でもあの子は向こうで、お菓子な世界で授かった子なのよ!」
「生まれたのはこちらに戻ってからじゃないか。真秀は正真正銘、現実世界の子だ。この世に確かに存在してる」
アルヴィンは何とかして真利江の不安を取り除こうと言葉を尽くす。
「ぼくたちが二度目に現実世界に戻った時……」
当時を回想する。14年前の衝撃が再び押し寄せてくる。
「向こうの10年がこちらではたったの3日で、年齢も元のままだった。向こうでは確実に年をとっていたというのにだ。
大切なのは、ぼくたちが10年分の若さを取り戻したその瞬間、きみのお腹に居た子が消えてなくなりはしなかった、ということ。真秀は現実世界に生まれるべくして生まれた子なんだ」
「でも、真秀は結局は行ってしまったのよ」
「きみの勘違いということもあるだろ? とにかく、まずはその辺をもう一度探してみてくれないか」
「アルヴィン、間違いないのよ。わたしが帰ったらあの子は消えてて、ベッドの上に……」
「ベッドに何があったんだ?」
「絵本が……、『お菓子な絵本』。それと、お菓子たちも」
ようやくアルヴィンも真秀の失踪を信じる気になってきた。
「それが入口になったのか。きみはその本を見たんだね?」
「ええ、見たわ。開かれてたページのさし絵だけ」
そこで真利江は声を落として、慎重に言った。
「そこにはね……、ジャンドゥヤの姿が描かれていたの」
それまで何とか平静を保っていたアルヴィンだったが、その名を聞いて思わず受話器を落としそうになった。ジャンドゥヤ!
「ジャンドゥヤは……、立派に成長してたわ!」
沈黙。
「アルヴィン? 聞こえてる?」
「あ……、ああ」
遠い過去の、最も美しく、最も哀しい光景がよみがえってくる。
ぼくたちは城にいた。ジャンドゥヤは湖のほとりでフルートを吹いていた。風が唄う忘れられたメロディーと共に、すべてが一瞬にして、幻のごとく消え失せてしまった__。
自分自身に言い聞かせるようにアルヴィンは言った。
「真秀がもし本当にあちらの世界に行ったのだとしたら、それは、真秀が向こうで必要とされているからだ。これは真秀の運命で、この冒険は本人にとっても必要なことなんだ。ぼくらの時がそうだったように。
絵本はいわゆる、あちらからの『使い』なんだよ。まだそこに、あるのかい?」
「ええ、ある。読んだらわたしも行けるかしら? あちらの世界に」
真利江の声が期待に高まる。
「いやだめだ」
アルヴィンはきっぱりはねつけた。
「その本は真秀のために現れたんだ。きみが読むべきではない。下手に動かしたりするとストーリーが変わってしまう。そんなことしたら真秀が帰れなくなる。放っておくんだ」
「ただ手をこまねいて待ってろって言うの? いつ帰ってくるとも知れないのに。わたしたちの時は10年が3日だったけど。もし、真秀にも同じことが──」
「ちょっと待った。ジャンドゥヤはいくつくらいになっていた? その絵では」
「17、8の、青年というよりは、まだ少年って姿。真秀よりはいくらか上って感じの」
「本来ならば10歳は離れているはず。ということは……。向こうの時間は、一時的にストップしていたんだろうか。やはりぼくたちは時間の流れを変えてしまったか」
後悔も反省もする気はなかったが、それが身勝手な行為であったことには違いなかった。
「あの時、意識を拡大し過ぎたのかも知れない。でも今は、同じ時の流れを感じる。きみだってそうだろ」
「ええ。感じる。向こうとこちらは同じ時間の流れを歩んでる。まさか? そんな!」
真利江はパニックに陥った。
「大変! 真秀が向こうで10年過ごせば、今度はこっちも10年経っちゃうわけ? 10年間も帰って来ないの? だめよ、そんなの!」
「ありえない。真秀はすぐにでも帰って来るさ」
「どうして? どうしてわかるの?」
「現実に必要とされているから」
「アルヴィン……。理屈にかなってないわ」
「理屈じゃないんだ。これは。始めから理屈など通じるものじゃなかった」
「じゃあ、わたしたち、今度は意識を狭めればいいのよ。向こうの時間を早めてしまいましょう」
「やめるんだ」
再びきつい調子でアルヴィンは言った。
「ぼくらは自分たちの勝手な都合で時の流れを操作した。ある意味では、お菓子な世界の進化速度を遅らせてしまったともいえるだろう。こんなことをしていたら、いつか大変なつけが回ってくるに違いない」
「何もせずに、ただ待ってるだけなんて嫌。耐えられない!」
「今夜の舞台がはねたら飛んで帰るよ。乗り継ぎ便なら何とかなるだろう。レセプションはパスだ」
「あ……。ちょっと待って、アルヴィン。それは、まずいわ」
目の前に現実を突きつけられ、真利江もようやく冷静さを取り戻した。どのみち、すぐには帰れないのだ。夜のリサイタルが終わるまでは。
ピアニスト、アルヴィン・シュヴァルツは、たとえ暗殺者に狙われていようと舞台に穴をあけたりしない人間なのだ。加えて演奏会後の交流会に出席したとしても、帰りが半日遅くなるだけではないか。真利江は何とか自分を納得させた。
「レセプションを蹴ったりしちゃ、いけない。今夜は特別で、各国の大使や業界のお偉方も大勢みえるのでしょ。あなたには国連の親善大使としての務めもあるんだから」
「仕方ないだろ。息子が行方不明なんだ」
「だめ。こっちは大丈夫だから、役目をきちんと果たしてから帰ってきて」
「大丈夫? 本当に?」
「ええ。わがままだった。ごめんなさい」
「わかった。アンコールであの曲を弾こう。場合によっては、うまくいくかも知れない」
「そうよ!」
真利江は飛び上がった。ようやく明るい兆しが見えてきた。
「良質のエネルギーを送り込むのね! じゃあわたし、お菓子を作る。あの子たちの味方になるような。クッキーがいいわ! たくさん作れるから」
「焦がさないでくれよ」
半分本気のアルヴィンの冗談に、真利江の緊張の糸は少しだけほぐれるのだった。
20.「校内改革宣言」に 続く……
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