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「額縁幻想」 短編ファンタジー(全8章) ① 謎の訪問者

「微笑みの額縁」「ハプスブルクの鏡」続編です。

 完全続編ですので、どうぞ前2作の「微笑みの額縁」→「ハプスブルクの鏡」→そして「額縁幻想」と、お読み進めて頂けますと幸いです。



「額縁幻想」 ① 謎の訪問者



「そこを動くな!」わたしは銃を抜いた。
「皇太子殿下の御前だぞ」

 こちらの警告を無視し、その青年はゆっくりと鏡に近づいて行った。
 どこからか、美しい音楽が聞こえていた。

「皇太子殿下、これだけは」
 彼は鏡の前で振り返り、苦しげな表情で言った。
「サラエボには、決して行かないように」

 そしてさっと敬礼し、我々の目の前から消え去った。
── 鏡の中に ──。

 それから数年後、サラエボで起こる恐ろしい悲劇。そして続く世界大戦。
 二千万近くもの尊い人命が……! 失われずに済んだかも知れないのだ。

 あの男の忠告を、受け入れてさえいれば。

                      

       テオドール・ホフマンの告白より




  時空のゆらぎを感じ、彼はやって来た。
  亡き祖父との約束を果たすために。


「ウィーン大学で歴史の研究をしている者です。伺いたいことがありまして」

 インターホンごしのその声は、とりわけ怪しいものではなかった。絵里香は集中していた大広間のシャンデリア磨きを中断し、とりあえず表の門まで出向き彼の話を聞くことにした。

 門の外に佇んでいたのが、意外やスーツ姿のすらりとした好青年だったので、絵里香はルージュくらいつけて出てくれば良かったと、チラリと思った。門までの道すがら、埃よけのスカーフをさりげなく外し、ささっと髪を整える。

「クラウス・ホフマンといいます」
 彼は身分証をかざして見せ、すぐに胸のポケットにしまい込んだ。少々癖のある黒髪に、同じ色の、深い鋭さをたたえた瞳。眼鏡こそかけてないが、いかにも学者らしい生真面目な雰囲気だ。おそらく三十代前後、助教授くらいの年齢といったところか。

「ハプスブルク家由来の、貴重な品がお宅にあるそうで、ぜひとも拝見したく」

 絵里香の心臓が、ドキリと止まりそうになった。

── あの鏡のことだ! ──

「わたし、留守番なんで、家のことは何もわからないんです」
 それだけ言うのがやっとだった。声が震えてしまう。

「お家の方は、いつ戻られますか」
「わたしが、家の者です」
「今、『留守番』だと」
「留守番ですが、ここに住んでいる、家の者なんです」

 既に祖父母は亡く、空家だったこのハイデンベルク家の屋敷に、ごく最近、日本から訪れた孫の自分が一人で暮らし始めた事情など、見ず知らずの歴史学者に話す必要はなかったし、話したくもなかった。

「この家で生まれ育った伯母が近所に住んでいますが、今はバカンスでザルツブルクなので」

 相手に食い下がる隙を与えてはいけない。絵里香は開けかけていた門を慌てて閉め、
「すみません。お役に立てなくて」
 軽く会釈して、足早に邸内に逃げ込んだ。
 ドアにしっかり鍵をかけ、階段を駆け上がり屋根裏に直行する。

── 今の会話、鏡に聞かれただろうか? ──

 それがどんなに馬鹿げた考えかなど、判断できる余地はなかった。屋根裏部屋の入口に寄りかかり、恐る恐る、絵里香は意識を向けた。衣装だんすの背後の空間に。

 何かが語りかけてくる。
 それは、過去からの呼び声?
 ささやき声?
 地の底の、深いところから何かが動き始めるような。


 音にならない音、声にならない声が聞こえてくる錯覚に、絵里香は陥った。
 ハプスブルクですって? この鏡は──、いえ、今は鏡、入っていないんだった。
 この額縁が、ハプスブルク家のものだったと? だとしたら、確かに納得がいく。これは魔法の額縁なのだから。でもなぜ、そんな貴重なものがうちにあったわけ? 

 あの青年にもっと詳しいことを聞いておきたかったな。

 彼に文字通りの門前払いをくわせてしまったことを、絵里香は悔やんだ。彼もまた、思いつめたような表情をしていた。まさか鏡の秘密を知っているとか?

 白い布に覆われ、衣装だんすの裏に封印された等身大の額縁を、絵里香は直視することができなかった。

── 忘れるの。鏡の世界のことは、何もかも、忘れなきゃ ──−。

 自分にしっかり言い聞かせる。




「ウィーン大学の者です」

 翌日の昼下がり、クラウス・ホフマンは再びハイデンベルク家を訪れた。

 彼が二度と現れませんように、と願いつつ、彼の訪問を実は心待ちにしていた自分に、絵里香は腹が立った。彼が簡単には引き下がらないだろう、という予感はあったのだが。

 案の定、ホフマンは「調査協力依頼書」なる書類をちらつかせて見せた。
 有無を言わさず、「協力せよ」と。
 何やら偽造の香りがしたが、どうせ絵里香がドイツ語の文書などろくにわからない日本人だと、高を括っているのだろう。絵里香はやむなく門の開閉スイッチを押し、彼を家のドアの前まで導いた。

「国家の貴重な財産なんです」
 半ば威圧的な態度で、彼は協力を要請してきた。
「義務づけられておりましてね。ハプスブルク家で使用されていた品々の行く末、及び保管状況を調査することが」

「どんなものですか? 旅行中の伯母が戻ったら聞いておきます」

 こちらの秘密を隠しつつ、彼の意図を探る。相手に語らせるだけ語らせておきながら、絵里香は知らぬ存ぜぬを押し通す算段であった。

「それは、長い間シェーンブルン宮殿に飾られていたものでして」
 そこで彼はエヘン、ともったいぶった咳払いをし、おごそかに続けた。
「それは、等身大の──」

 それ以上先を彼に言わせることはできなかった。絵里香が容赦なく遮ったから。

「そんな大きな鏡、うちにはありません!」

 ホフマンは唖然とし、それからぱっと瞳を輝かせた。
「あるんですね!」

「ですから、ないと言ったんです!」

 心の底から嬉しそうな、少年のような笑みを浮かべ、彼は言った。  
「今、『鏡』と。探しているものが鏡だなんて、ぼく、まだひと言も話してなかったんですよ?」

 絵里香はうろたえ、一歩後退りした。
 ああ、ドイツ語がよくわからない……、とつぶやき、下手なごまかし作戦を決め込んだ。

 そのわずかな間、ホフマンはドアの隙間からハイデンベルク邸内の様子を伺った。
 贅沢な吹き抜けの玄関ホール。奥には天井の高い大広間。グランドピアノがある。蓋が開いているところを見ると、彼女もピアノを弾くのだろうか。優美な彫刻の施されたらせん階段。いかにも旧貴族の邸宅らしい豪華な空間ではないか。
 しかし……、例のハプスブルク家の鏡は、残念ながら目下のところは見当たらず。

 ホフマンのぶしつけな目線に気づき、絵里香は両腕を広げて遮り、彼に下がるよう促してから、
「今日のところはお引き取りを」と、半ば乱暴にドアを閉めた。


 屋根裏に、ひっそりと隠れていた額縁に、わたしは鏡を入れた。
 その鏡の中から聞こえてきたのは、優しいピアノの調べ。
 その鏡の中でピアノを弾いていたのは、若い頃の祖父だった。
 そうとは知らず、鏡に映った青年に恋をした。
 そこが過去の世界とも知らず、鏡の中に入り込んでしまった。
 祖父と出会い、幸せと哀しみに満たされて、元の世界に戻って来た。

 そして鏡は割れた。
 鏡が哀しみを感じたから? 

 そして鏡のない、ただの額縁は、屋根裏の元の場所。
 過去は微妙に変化し、わたし自身も生まれ変わった。
 誰も知らない、わたしだけの秘密。



 それは数日前の出来事だった。
 幸せな思い出以外、鏡の秘密は、永遠に忘れ去るつもりだったのに! 

 クラウス・ホフマンの狙いが例の鏡であるらしいことは、これで判明した。問題は、彼が鏡の秘密を知っているか、否か。彼が善か、悪か、だ。

 お引き取りを。今日のところは、ですって? 

 なんて甘いんでしょう! 
「二度と来るな」と言えなかった自分が、はがゆい。悔しい。でも、仮に彼と秘密を分かち合うことができたら? 
 人類の未来にも過去にも関る秘密を、誰かと共有することができたら、どんなにか心が安らぐだろう。

 だけどクラウス・ホフマン、彼が秘密組織の、しかも悪の秘密結社の手先だとしたら? 

 いけない。いけない。秘密は永遠に自分だけの秘密にしておかないと。万が一悪用されたら、果たしてどんなことになるか。タイムトリップができる鏡なのだ。あるいは、学会ででも発表された暁には、世界中のあらゆる組織からのターゲットにされてしまう。

 身の危険を感じ、己の責任の重さに押し潰されそうになって、絵里香はぞくっと震えながら床にへたり込んだ。

 それとも……。

 ホフマンは、実はタイムトラベラーで、過去、あるいは未来に戻る為の手段として、鏡を必要としているのかも。
 先日は失礼しましたと、思い切り愛想良くして開き直り、差し障りのない僅かな情報だけをちらつかせ、こちらのペースに引き込みつつ、彼の狙いと正体を探るべきか。
 ミステリアスな東洋女性の色香作戦で。
 ダメダメ、いくつになっても子どもっぽさが抜けきれない自分なんかに、そんな手が使えるわけないし、第一通用するわけないじゃない。どころか逆に、色男作戦で手玉に取られて利用され、額縁も奪われた挙げ句、小娘は捨てられるのがオチかも。捨てられるだけならまだしも、秘密隠蔽で殺人すらいとわない組織が背後に存在してたりして。
 彼、クラウス・ホフマンは、そんなに悪い人には見えなかった。いざとなったら組織を裏切って、命がけで助けてくれるんじゃないかな。

 バカね。何考えてるのよ。
 絵里香はサスペンスと、少々図々しいロマンスの流れを頭から追いやった。しっかりしなければ。

 ここに祖父が、オーパが、あの時の彼が居てくれたら! ほんのひととき出会えた、若かりし頃のオーパ。あの、とてつもなく優しかったシュテファン・ハイデンベルク。彼が、ここに居てくれさえすれば! 

 誰かに頼りたいのに、誰にも頼れない。

 懐かしさと哀しさ、そして押し寄せる不安に、絵里香は胸をつまらせた。
 しっかりしなきゃ、毅然としてなきゃ。額縁を守る為にも。




「額縁幻想」② に続く……。




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