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「微笑みの額縁」 短編ファンタジー(全3章) ①
「微笑みの額縁」 ①
6月7日 1960年
日本から来た彼女、ユイだかユリだとかいう、その女性の印象は、はっきり言ってまったくよろしくなかった。
コンクールを受けにウィーンくんだりまでやって来て他人の家に下宿するというのに、ろくに口もきかずニコリともしない。愛想の笑みひとつ返せない者に、人の心に、審査員の心に響くピアノが弾けるか? というものだ。
だけど今日になって、ようやくわかった。それがぼくの偏見による、完全な誤解だったと。
そしてぼくは完壁に打ちのめされてしまったんだ。
鏡越しに投げかけられた彼女の優しく愛らしい、その微笑みに……!
~ シュテファン・ハイデンベルクの日記より
2010年 初夏 ウィーン郊外 旧貴族の館
その額縁は屋根裏の隅にひっそりと隠れていた。何年もの間、誰かに見つけられるのを待ち続けていたかのように。
祖父母が亡くなり、もはや誰も住んでいないハイデンベルク家の広いお屋敷の中で、一番落ち着けるのが、この屋根裏部屋。
屋根裏といえども、ここはよくある天井裏の、階段を登って入るタイプではなく、二階の書斎の続き部屋。宮殿のようなこの館の屋根が台形状なので、両端の部屋の外側の壁が、屋根の傾斜により三角形になっているのだ。
日本からいきなり訪れることになったわたしの為に、クララ伯母は邸内を徹底的に掃除してくれたようだ。
ただ一カ所、この屋根裏部屋だけを除いて。
伯母はまさかわたしがこんな物置き部屋にまで入り込むなんて、思いもよらなかったのだろう。だけどここは、わたしにとってお宝の宝庫。わくわくする冒険心に満ちあふれている。
アンティークの置物やアクセサリー、古びたアルバムや額に入った絵や写真、CDやレコード類の山、リボンで丁寧に束ねられた手紙類に日記。
誰も気づかなかった秘密が隠されているかも知れない。
重厚な衣装だんすには華やかな、色とりどりのドレスたち。少しばかり風を通せば、まだ充分着られそう。ママや伯母さんも、これらを着て舞踏会に出たりしてたのだろうな。
宝捜しはさておき、まずは埃との格闘だ。タオルで頬被りをして完全武装。埃が舞い上がらないよう細心の注意を払いつつ、床や家具類をピカピカに磨いてゆく。
この邸宅の天井の高い贅沢な空間そのもの。大広間のシャンデリア、薪をくべる暖炉。グランドピアノは由緒ある百年前のベーゼンドルファー。手すりの彫刻が優雅な、らせんを描く階段。天蓋付きのベッド。祖父の素晴らしい絵が残されたアトリエ。白亜の彫像が佇む、緑あふれる中庭も、小鳥が集う噴水も、どれも本当に見事で素敵だけれど、わたしのお城はこの屋根裏部屋。
秘密の大掃除作戦が一段落しかけたところで、大きな縦長の厚い板のような物が、白い布に覆われて衣装だんすの裏に立てかけられているのを発見。
少しだけ手前に引きずり出して、布の端をめくってみる。額だ。絵は入ってない。
だけど優美なロココ調の唐草模様の曲線が美しい、金箔塗りの古びた額そのものが、ひとつの芸術作品のよう。
音楽と、ざわめきと……。
幻聴? ふと、何かが聞こえてきたような。
せっかく見つけたのだし全体を見渡したくて、たんすの陰から重たい額を引っ張り出し、覆いをそっと外してみると……。
華麗なる舞踏会。
ドレスをまとった貴婦人に燕尾服の紳士たち。
ウィンナワルツを奏でるヴァイオリン、軽快に調子を合わせるピアノ伴奏。
ワイングラスのきらめき。香水の甘い香り。
ささやきと、笑い声。衣擦れの音。
幻? キャンバスも何もはられてない、ただの額の中に、様々な光景が夢のように現れては、消えてゆく。
魔法のような月の光。
静かにゆらめくろうそくの炎。
真夜中の時を打つ大時計。
子守唄のように優しい歌声。
ロッキングチェアで読書をする老婦人。
窓辺に揺れる木々。
ドナウ河のせせらぎ。春を呼ぶ小鳥の鳴き声。
懐かしい、ピアノの調べ。
それは確かに良く知ってるはずの曲。
教会の荘厳なる鐘の音。
来訪者を告げる玄関のチャイム──
しばらくの間その額縁に、額縁の中の、ないはずの絵に見とれていた。ドアのチャイムの音に呼び起こされ、自分の時間を取り戻すまで。
いったいどんな絵が描かれていたんだろう。どうして絵は外されてしまったんでしょう? 好奇心でいっぱいになりながら、エントランスへの階段を駆け降りた。
この館を管理し、別荘代わりに、また仲間の集うサロンとして、たまに使用している伯母だって当然鍵を持っていながら、短期間の住人となった姪っ子のわたしに遠慮してか、今は勝手に入って来たりしない。わたしがドアを開けるまで、外で待っててくれるのだ。
「クララ伯母さん、この額の中にどんな絵が飾られてたか、知ってる?」
豪邸での一人暮らしの様子を見に、わざわざ来てくれた伯母への挨拶もそこそこに、屋根裏に引っ張って行き早速聞いてみる。
「まあ、絵里香ったら! こんなとこまでお掃除なんかしなくていいのに!」
あきれながらも伯母はその額をしばし観察し、答えた。
「見たことないか、覚えてないのか。でもどうしてオーパのアトリエじゃなく、ここにあるのかしらね」
オーパとは、ドイツ語で「おじいちゃん」の意味。わたしの母の姉であるクララ伯母とは、日本語が通じ合えるからありがたい。
その昔、祖母は日本から音楽の勉強と称してウィーンにやって来た際、この館で祖父と出会い、恋に落ちて結婚。二人の娘はやがて大人になり、姉のクララはウィーンに留まり、妹であるわたしの母はここを飛び出し、母方の親戚を頼って日本へと渡った。
祖母は次女だったそうな。そして母もわたしも次女。次女というのは往々にして冒険家の血が流れているらしい。わたしも20代半ばのこの年齢にして、逆に日本を飛び出したい誘惑に勝てなかったんだもの。
とはいえ、わたしの場合は一時的なもの。そりゃあ安定した仕事を辞めて、覚悟を決めてここまでやって来たわけだけど。
目的は絵を描く為。そして自分を試す為。
音楽の都で長年ピアノ教師を勤めていた祖母のような音楽的才能には、自分は恵まれなかったけど、画家であった祖父の血だって受け継いでいるはずなのだ。
決めた。
── この額にふさわしい絵を描こう ──。
生前の祖父のなじみだった画材屋さんに、伯母は早速連絡を取ってくれた。わたしはまだ、電話での会話が成立するほどドイツ語が堪能ではないので。
この額縁にちょうどいい大きさのキャンバス地を張ってもらう為、まずは引き取りに来て頂く。伯母と二人で額縁を、えっちらおっちら大広間に運んで降ろしておく。
「話はついたから、後は大丈夫ね」と、お茶でひといきついたクララ伯母が帰ってほどなくして、画材屋さんがやってきた。わたしのオーパを思い起こさせる、温かな微笑みをたたえたおじいさん。
あなたのおじいさまとは父親の代からずっと親しくさせてもらっていただの、彼の絵だけでなく、人柄に対しても世界一のファンだった、といったたぐいのことを──おそらく──述べた後、彼は急に職人の顔つきになって、その額を調べにかかった。
だけど何かがおかしいらしく、残念そうに首を傾げ、違うとか何とか言い始めた。
「何が? どうして?」と聞いてもらちがあかない。
困った。この期に及んで、またしても伯母に頼るのは情けないし。
「シュピーゲル!」と彼は言った。辛抱強く、わたしに言い聞かせるように。
シュピーゲル、シュピーゲル。ドイツ語の辞書を思い浮かべる。シュピーゲル……?
「鏡!」
シュピーゲル=鏡。これは絵の為でなく、鏡用の額縁だったのか!
ようやく理解し合えたわたしたちは顔を見合わせて笑った。
ひとしきり笑い終えたところで、画材屋さんはグランドピアノ脇の壁にかけてあった祖母の肖像画を外し、額の構造の違いを説明してくれた。
鏡用の額の方が、縁の厚みが薄くなっているのだった。絵を描くの為のキャンバス地を入れられるよう、裏側から枠を作り直すこともできなくはないが、と言ってくれてるようだが、わたしの心は既に鏡の世界で満たされていた。
屋根裏で見たあの幻は、鏡に映し出された光景?
「ほら、ここだ」
広間の中庭に近い出入り口付近の壁を叩き、彼は大切な秘密を見つけたように、喜んで叫んだ。
「ここに跡がある。大きな額が掛けられていたらしき形跡が」
何年前のことなのか、わたしの記憶にはない。幼い頃から何度も訪れてはいたのだけど、大きな鏡のことは覚えていない。よく見ると、壁は上塗りされているものの部分的に色の具合が違うように見える。長い間、何かが掛けられていた跡は完全には消えていなかった。大きさも、この額にぴったり。そして杭を打った跡も、埋められてはいるがかすかに残っている。
この大広間に、再び鏡の輝きを取り戻すことにしようではないか。
親切な画材屋のおじいさんは「知り合いのガラス屋に預けてあげよう」と、額をトラックに積んで運んでいってくれた。
外された祖母の肖像画を、ピアノ脇の窓際の壁に戻しながら、つい思ってしまう。
── オーパが描いた絵の中でも、オーマの絵だけはあまり好きじゃないな ──。
おそらく5、60代の頃の絵の中の祖母は、気品のある美しさを保ってはいるものの、鋭い瞳に口元の引き締まった、いつもの祖母らしいきつい表情までが、リアルに描かれているものだから。
言葉も習慣も違う異国の地に一人でやってきて、教師として、主婦として、母親として、ずっと気を張り続けて生きてきたからなのだろうか。
わたしたち三人姉妹の中で、お里帰りの母について年に一、二回ウィーンに来ていたのは、わたしだけ。姉も妹も、外国に、祖父母に、さほど興味がなかったらしいのだ。
もしかすると、自分も祖母と同じ運命をたどることになるかも知れない。ウィーンに残るか、もしかしたらドイツやフランス辺りで暮らす可能性だって。だとしたらわたしも、祖母のように気を張って生きてゆくことになるのだろうか。
オーマ──おばあちゃん──は厳しい人だった。怖くはなかったし嫌いでもなかった。よく面倒見てくれたし。
ただ、笑顔の記憶が、ないのだ。
日本人どうしなのに、わたしにはドイツ語でしか話してくれなかった。ピアノ教師の目線で孫を見ていたから?
ひきかえオーパは澄んだ茶色の瞳の、絵本に出てくるような優しいおじいちゃんだった。
ドイツ語が殆どわからない幼いわたしに、少しはわかりやすいよう、英語で話しかけてくれた。中学生レベルの語学力では、正確に何と言っているのかはわからなくとも、何を話してるのかくらいは、おかげで大体理解できた。
アトリエで描く祖父の姿を、いつまでも見ていたかった。
そしてそのうちにわたしも一緒に描くようになった。
専門家の祖母のピアノは、鳥肌が立つほど激しく、情熱的な印象だったけれど、祖父のピアノはとてもおおらか。わたしはロッキングチェアを静かに揺らしながら聞き入った。
優しく、懐かしいピアノの調べと、古い古い、ふしぎなおとぎ話。
基本、お寝坊さんのわたしだけど、ここヨーロッパでは時差が身体に合っているのか、すっきり起きれてしまう。
朝、小鳥の鳴き声で目が覚めるなんて、とっても幸せ。ベッドの中で、一日の計画や、その日に着て過ごす服などに思いを巡らしていると、まだ眠っていた身体中の細胞がじわじわと温まり、身も心も良質のエネルギーで満たされてゆく。
日本の生活では、学校があろうとも出勤の日であろうとも、そのまま気持ち良くなって再び眠りこけ、猛ダッシュを強いられる羽目になったりもしていたけれど、ここではやりたいことが多すぎて、じっとしてなんかいられない。えいやっと、元気に飛び起きれる。
今日はお客さまが来る日。
「彼らが勝手にやってくれるから、絵里香は何もしなくていいのよ」と、クララ伯母は言うけれど、気の利いた言葉で充分なおもてなしができない分、せめてケーキくらいは焼いておきたい。
祖母が生前の頃は、ここの大広間で毎月のようにサロンコンサートを開いていた。お弟子さんたちや、その友人、家族らを集めて。祖母のピアノソロと、音楽学校の学生たちのお披露目も兼ねたその会に、幼いわたしも飛び入りで参加したものだった。
ここでは遠慮したり謙遜したりする者は、誰もいない。
プロやアマチュア、上手な者、たどたどしく微笑ましい者の間に垣根などなく、ただひたすら音楽や仲間を愛する種族なのだ。
出る杭は打たれる傾向の日本では、「いえいえわたしなんて……」と、せっかくの楽しいチャンスでも身を引くのが流儀。枠にとらわれないわたしのような超自然体タイプには、引き際の判断ができない。故に、杭は打たれ続けて生きてきた。
家庭でも、街中の教会でも、学校やちょっとしたサロンなどでも、ヨーロッパでは音楽が日常にすっかり溶け込んでいる。そんな生活にずっと憧れていた。特にウィーンは、誰もが気楽に劇場に足を運べる「音楽の都」なのだから。
数年前に祖母が亡くなった後も、サロンコンサートは弟子たちの間で受け継がれてきた。今日はどんなメンバーだろう。懐かしい知った顔もあるだろうし、楽しみ。
伯母の家から頂戴してきたドライフルーツのラム酒漬けを使って、超簡単パウンドケーキをいそいそと焼いていると、画材屋のおじいさんがやってきた。
鏡を届けに来てくれたのだ。わざわざガラス屋さんから引き取って。
仕上がり具合と、大広間に再び鏡が掛けられるのを見届けたかったらしい。壁に吊るす道具まで持参し、しっかり取り付けてくれた。
新品の鏡は、丁寧に磨き直された金色の額縁に映え、透明なガラスのような輝きを放っている。やはりこれは鏡用の額だったと実感。
おじいさんには鏡の代金プラスアルファと、焼き立てのケーキを包んでお土産に。夕方からのサロンコンサートにもご招待した。
トラックが見えなくなるまで見送って、再び鏡の様子に見入る。
等身大の鏡は広間を更に大きく優雅に見せてくれる。わたしはしゃがんだり背伸びをしたり、前後左右に移動して、あらゆる角度からの、鏡に映る部屋の様子を観察した。
クリスタルの輝くシャンデリアに、蓋が大きく開かれたベーゼンドルファー、高い天井から吊るされた、豪華なバランスやタッセルの付いたカーテン。窓の外では噴水の水が跳ねてきらめく。
え? 今は噴水、止めてあるはずなのに。
窓から覗くと、水は確かに止まっている。きっとおひさまの光が反射したのだろう。再び鏡の前に戻ると、どこからか、優しいそよ風。
鏡の中でわたしの髪とフレアースカートがふわりと流れる。まるで鏡が呼吸しているような? だって窓もドアも閉まってるし。まさか。でも……。
そう。これはおとぎ話なのだ。異国の地の。永遠の眠りについていた鏡が、息を吹き返して喜んでいる。そう思えたら、素敵じゃない。
鏡の前でわたしはくるりとターンした。ロングヘアーの巻き髪と、スカートが再びふんわり舞い踊る。大きなリボンの髪留めの角度を直そうとして、気づいた。
── リボンなんて、つけてない! ──
お菓子を焼くから、無造作にアップにして、ピンで留めてただけ。それに、スカートはミニのタイト。風に舞い上がるわけがないのに!
錯覚? 幻影?
気を取り直そうと、わたしは鏡から目をそらし、反対側の窓の外を見やった。いつもどおりの穏やかな午後の光景。
でも心に残る残像は白いパフスリーブのブラウスに、リボンと同じワインレッドのフレアースカート姿のわたしを映し出していた。
そうだ。内輪の会とはいえ一応コンサートなのだから、少しはきちんとしとかなきゃ。汚れても平気な絵描きのスタイルじゃなくて。
屋根裏にあったドレス類。ドレスとまではいかなくても、可愛い服があるかも知れない。
そう思いつき、やはり見つけた。
鏡にかいま見たのと似たような、ベルベットのフレアー。そして同じ色、わたしの好きなワインレッドの、大きなリボンの髪飾り。これをつけたら少女のように可愛くなれそう。
きっと最初にここを物色した時に見たのを潜在意識が覚えていて、わたしに幻影を見せたのだろう。ささやかなおしゃれくらいはしなさいよ、と。
スカートのサイズは少々大きめだったけど、薔薇のバックルのついた太ベルトで調整。ブラウスは自前の白いシフォンで。ポニーテールに大ぶりのリボンも付けて、大鏡の前でワルツのステップを踏んでみる。スカートの裾が本当にふわりと揺れて、この辺りのちょっとした民族衣装のよう。
さっき鏡の中に見た自分の──あるいは自分に似た誰かの──姿が、そのままに再現できたみたい。
ふしぎな鏡。先ほどは少し先の時間を、つまり、今のこの瞬間を映し出したのだろうか。
時間を超越するタイムミラー。
なんて、まさかね。
だけどここでは、この古いお屋敷では、何でも、どんなことでも起こりそう。お客さまを迎えるからって、きっと興奮しすぎたかな。コーヒーでも飲んで落ち着こう。
まだ温もりの残るパウンドケーキと煎れたてのコーヒーを中庭のテラスに持ち出し、優雅に昼下がりのお茶タイム。
ヨーロッパの硬水はコーヒーでも紅茶でも、本当に美味しく入るから、嬉しい。お菓子のかけらをついばむ小鳥たちと幸せをかみしめていると……
どこからか、ピアノの調べ。
それは昔からよく知った曲。
邸内から? 大広間のベーゼンドルファーを誰かが弾いている。
コンサートのメンバーが来たんだ。庭に居たからチャイムの音が聞こえなかったのね。鍵は代表者に渡してあると、クララ伯母は言ってたし。
テラス側の窓から広間の中を覗いてみるが、午後の陽光がガラスに反射して中の様子は伺えず。お茶のセットはそのままに、中庭から広間に通じる通路のガラス戸に手を掛ける。
これって、シューマン? 祖父がよく弾いていた。
《交響的練習曲》に添えられた、遺作の変奏曲のひとつ、第五変奏。
ゆったりした下降音型の夢のような美しさが胸に突き刺さり、思わず涙がこぼれ落ちる。
中に踏み込むのをためらってしまう。きっとリハーサル中なのだ。音楽の流れを壊してはいけないものね。
ドアから少し後退りすると、ちょうどグランドピアノがさっきの鏡を通じて視界に入った。
ピアノを奏でていたのは、予想に反して若い男性だった。
祖母の昔なじみの弟子といえば、今では50をとうに過ぎているはずだから、今回集まるのも年配の方ばかりと思っていた。
音大の学生さんだろうか。彼の少し長めの茶色がかったブロンドが、黄金の額縁に映えて、絵になりそうな素敵な光景だけれど、あんまり見つめては、はしたない。
わたしはそっと涙をぬぐい、その崇高な音楽にしばし聞き入った。
そして再びちらっと顔を上げると、青年も鏡の向こうからこちらに気づいた様子。泣いてたの、わかっちゃったかしら? はにかみながら、わたしはそっと微笑んだ。頬が勝手に染まってしまう。
そして彼のほうも、弾きながら温かな微笑みを返してくれた。
そのまま上昇音階のメロディが、ロマンティックに盛り上がる場面を迎えたものだから。
彼が感情の高まりを抑えるかのように、目を閉じて切なそうな表情をしたものだから──
わたしは迷わず恋に落ちてしまったらしい。
いったいどんな顔をして、彼に初対面の挨拶をすればいいのだろう。とりあえず、鏡から映らない位置に身を隠す。天上からの夢のような音楽はいったん終わり、わたしは彼が続きの曲を弾き出すことを祈った。この時が永遠に続くといいのに!
だけど、音は鳴り出さなかった。
勇気を振り絞ってガラス戸を開けてみる。
そして、そこには……、誰の姿もなかった。
「微笑みの額縁」②へ続く……