「セピア色の舞踏会」 ③ (終)
「セピア色の舞踏会」これまでは……
ピアニストのアントン・ヴァイスは、百年前の写真の貴婦人に惚れ込むうちに、うっかり彼女を現実世界に呼び出してしまう。
しかし彼女は既に亡き人のはず。
本気で恋してはいけないと意識しすぎたアントンの行動が誤解を招いたか、気づけば彼女の姿はなく……、
「セピア色の舞踏会」③
「支払い、給料から引いといて!」
それだけ言い捨てて、アントンは楽譜も持たずに店を飛び出した。
一瞬でも、大柄美人ヴァイオリニストにうつつを抜かした我が身をアントンは呪った。写真絵巻を手にした時から運命は決まっていたのだ。ひとたびアウレリアを選んでしまったからには、自分はもう、まともな現実には生きられないのかも知れない。
夕闇に白いストールが目立った彼女の姿はすぐに見つかった。
良かった。まだ実体は現実世界に存在している。
「黙って行っちゃうなんて」
彼女の腕を捕らえ、アントンは息を切らして言った。
「あれぐらいで嫉妬ですか? 二度と会えないかも知れないってのに」
言いながら、彼は自身の言葉で己の胸を刺し貫くようだった。二度と会えない?
「誰が嫉妬なんか」
アウレリアは冷たく言い放った。
「ただ、あなたが、わたしを好きで呼んでくれたんじゃなかったんだって、思い知らされただけ」
涙が頬をつたう。
「しかもわたしが意地悪く弦を切ったと思ったくせに。どうしてわたしが邪悪だと決めつけるの? 呼び出したのは、あなたじゃなかったの?」
アントンには返す言葉も見つからなかった。
さすがに幽霊という立場だけあって、こちらの浅はかな魂胆など、語らずとも見抜かれてしまうんだな。
彼女は写真で見たとおり、こんなにも素直で清純なのに、自分はなぜ嫉妬とか、邪悪な妖魔と決めてかかってしまうのか? むしろ邪悪は自分のほうじゃないか。
「死んでしまった人の魂はね」
アウレリアは静かに語った。
「その人の人生で、一番幸せだった思い出の時に戻ってゆくの」
思い出の、写真の中に……。
「記憶が戻ったんですか?」
アウレリアは静かに否定し、ただ、写真の中の自分は、そうした思いに満たされていたような気がすると、カフェでのアントンのビアノを聴いているうちに、そんな風に感じたのだと語った。
華やかな舞踏会。恋人の奏でる音楽を聞きながら、うっとりと待っている時間。
やがて彼が務めを交代して迎えに来てくれる。
一緒に踊る、幸せな永遠の時。
そんな幸せな気分を台無しにしてしまったとは、自分は何て奴なんだと、青年は心の底から反省した。
旧市街をそぞろ歩き、雄大なるシュテファン大聖堂をしばし仰ぎ見て、いつしか2人は、そろそろ灯りがともり始めた「美しいランタンの小路」に入り込んでいた。ウィーンで最も情緒ある路地だ。
「この路地も、あの素晴らしい大聖堂も、わたしが生きていた頃と変わってないのね」
アウレリアのハイヒールの音が、夜の石畳や周囲の町並みに反響している。
アントンは自問自答した。
彼女は現実に生きて存在し、今、こうして自分の隣を靴音を響かせながら確かに歩いている。なぜ、それ認められない? なぜ、目をそらす?
── 失うのが恐いから ──。
彼女は1人の女性の人生を生きて、そして今は亡き人だから。
だけど目の前の彼女はこんなにも生き生きと魅力的で、この空気を感じ、微笑み、そして哀しみの涙も流す。
── 今の時を生きている。大切なのは、今、この瞬間じゃないか ──。
路地を抜けたところで観光馬車を呼び止め、2人は街の中心から少し外れたプラター公園に向かった。リンク周辺を走る路面電車にでさえ驚き、少し怯えた彼女にとって地下鉄は酷だろうし、叙情的な夕暮れの雰囲気を壊したくなかった。
ウィーンっ子の憩いの場、プラターには、皇帝の時代からの大観覧車や、本物の馬によるメリーゴーランドといった昔ながらの遊園地があった。
観覧車のきらびやかなイルミネーションをうっとりと見上げたアウレリアは、はっと気がついた。
「ゴンドラが?」
しまった、とアントンは思った。
ここプラターの、そしてウィーンの街の象徴ともいえる大観覧車は、第二次大戦末期の連合軍による空爆で、いったんは破壊されてしまう。
しかしウィーンっ子の不屈の精神で見事に再建される。当初、30台あったゴンドラは、しかし再建後は安全性を優先し、15台に減らされていた。
またしても、2人の時代のずれを否応なしに思い知らされる。そもそもアウレリアは二度の世界大戦さえ知らないのだ。
ぼくたちの時は永遠なのか、あるいは既に夢の終わりに近づいているのか。
赤で統一された20人乗りのゴンドラは、貸し切り専用の、ディナーも可能な豪華な内装のタイプもある。予約が必要だったが、待ち客も少なかったし、係員に心付けを多めに渡し、一台を2人だけで借り切る。2人のラストダンスを踊る為に。
まただ。どうしてラストだと思う?
どうして決めつける?
自分たちの運命を自ら決められないのか?
せめて今だけは、今のこの瞬間だけは2人の時間を大切にしよう。アントンは丁寧にお辞儀をして、アウレリアに腕を差し伸べた。
〈セピア色の舞踏会〉
これがぼくからの精一杯の贈り物。さきほどのカフェで即興で弾いた、アウレリアのテーマを軽く口ずさむ。
「そうよ、この曲! わたし、大好きなの!」
アウレリアはまるで昔から知っている曲であるかのように、喜んで一緒に歌い出した。
2人は高く高く昇りながら、歌いながらゴンドラの舞踏会場を優雅に旋回した。アントンのメロディーに、アウレリアが高いソプラノで見事なオブリガートをつける。地声は落ち着いたアルトながら、なんとも艶やかな美しい歌声だ。
ゴンドラが最頂に達した辺りで、2人はいよいよ終わりの時が近づいてくるのを感じていた。
15台のはずのゴンドラの数が、倍はあるように見えてくる。本来ならないはずの、隣前後に見えるゴンドラ。乗っている面々の服装は、明らかに現代のそれではなかった。
── 時空が重なり合っている ──。
彼女が、元の時代に帰る時。
アントンは覚悟を決めた。
ぼくの時代では、アウレリアは既に亡くなった人でしかないが、今、彼女が元の時代に帰れたら、それは彼女が生きている時代なのだから、つまり、そうしたら、アウレリアは、タイムトリップした元の時代で再び生きられるつてことじゃないか。
── 自分に彼女を引き止める権利はない ──。
もうこの世のどんな女性も愛することはできないだろうな、とアントンは思った。
こうしたどうしようもない切なさこそが、自分が、無意識のうちに長年探し求めていた真実の想いなのだと悟る。そして音楽は永遠に失われない。
2人は無言の語らいの時を大切にした。
やがてゴンドラが地上に着き、係員が遠慮がちにドアを開こうとする直前に、2人はひしと抱き合い、同時に心からの愛を込めて、ありがとうとささやき合った。
彼がエスコートするまでもなく、彼女は恋人の腕をするりと抜けだし、夜霧の闇に風のように溶け込み去った。白いショールと、かすかな温もりを孤独な青年の腕に残して。
数歩踏み出し、アントンは深いため息と共に、背後を振り仰いでゴンドラの数を確認しようとした。彼女は彼女の時代に、そしてぼくは……。
しかし即座に目を閉じた。なぜ、気づかなかったのか。
── 今、自分で決める ──。
アントン・ヴァイスは決断を下し、微笑みながら観覧車を仰ぎ見た。
「事実上のクビと受けとったんでしょうかねえ。真面目な青年でしたから」
「星の冠」の店長は、大家の老婦人に屋根裏部屋の鍵を開けてもらいながら、気まずそうに言い訳をした。「学生時代から、これまで一度だって無断で休んだことなどなかったのに」
屋根裏のグランドピアノに店長が感心すると、大家いわく、
「ピアノはあたしが生まれるずっと前からここにあったらしいですよ。水回りも完備の、秘密の屋根裏でしてね」
「大戦中だったら、さしずめレジスタンスのアジトとか?」
「アントンには家賃代わりに孫娘のレッスンを見てもらってるんですよ」
彼は大変な教え上手ですからね、孫もヤル気満々で、どんどん上達しましてね……といったことを婦人が嬉しそうに語る中、
「ああ、これだこれだ」
アンティークの楽譜棚の、中々開かず、がたつく引き出しから、店長は「星の冠用」と記されたA4大の古びた封筒を見つけ出した。
中には沢山の、手書きの楽譜。
古い用紙、色の薄いインクを使ったか? 長い間、封印されていたかのごとく見える。
「しかしピアノ譜が、ないかな?」
音楽に多少心得のある老婦人は楽譜にざっと目を通して笑いだした。
「これこそ彼のレジスタンスですね! この編曲はピアノなし版、弦楽器のトリオだけで完成されてますよ」
「あの三人娘と組むのが、よほど嫌だったんですかねえ」
店長は心から残念に思い、きちんと相談しなかったことを後悔した。
── すみませんが、窓際の机にある舞踏会の写真集を、図書館に返却して頂けますか ──。
楽譜と一緒に封筒に入っていたメモに気づいた店長が、「彼は長旅にでも出たのかね」とぼやきながら、机の上の重厚な写真集を手に取ると、音楽が……。
歌声とピアノの音?
ページのどこかに、幸せそうな男女の情景を見た気がした。
と、屋根裏のピアノが静かに鳴り出した。
大家婦人が遠慮がちに鍵盤をなぞっている。タッチもテンポもたどたどしいのに、原曲の簡素ながら絶妙ロマンティックなハーモニーが、夢のような響きを作り出す。
「今ちょうど、その曲が浮かんできたんですよ」
店長もテノールで口ずさむ。
「アントンの最新オリジナル、中々いいメロディーだ。ひとたび聞いたら忘れられない」
「いやですね、これは往年の名曲〈セピア色の舞踏会〉じゃないですか」
老婦人は笑いながらピアノの蓋を閉めた。
「ウィーン人なのに、知らないとは言わせませんよ」
店長は首をかしげ、しばし遠くを見つめた。
「ああそう、そうですよね」
少々混乱した記憶をたどりながら、うんうんと頷く。
「世紀末に一世を風靡したというあの……、たった一曲だけで、ウィーン中をとりこにし、その名を永遠に残したピアニスト。その名は……」
「ヴァイス!」
2人は同時に叫び、往年のワルツを少々調子っぱずれに、愉快そうに歌いながら階段を降りていった。
Ende