「お菓子な絵本」14.安らかに眠りたけれど
14. 安らかに眠りたけれど
「マドレーヌさま、そんなにお急ぎにならないで」
背後に遠ざかるニーナ・カットの声を聞き流し、マドレーヌはいっそう足を速めた。
「わかりました。こうなったら意地でも追いついてみせますからね」
ニーナがダッシュする気配を感じ取り、マドレーヌも負けじと駆け出した。
「鬼ごっこよ。追いつけるものなら──」
残りのセリフは声にならなかった。暗褐色の怪物──いや、鷹がいきなり目の前に飛び込んで来たのだ。
「きゃあっ!」
マドレーヌはバランスを崩し、ひっくり返った。鷹は行く手をさえぎるように、バサッバサッと翼をひるがえしている。
「きゃーっ、きゃーっ、きゃあーっ!」
三回悲鳴をあげてから恐る恐る顔を上げ、マドレーヌはそれが昨日の鷹だとわかった。
「ブラウニー?」
彼とはもうお友達になったのだから……、大丈夫。マドレーヌは恐怖心を抑え、左の腕を静かに差し出してみた。
ブラウニーは何の遠慮もなく、彼女の腕にすーっと舞い降りてきた。ドレスの生地が薄手だったので、ブラウニーの足は結構痛かった。
「もうっ。驚かさないでよね」
言いながら立ち上がり、マドレーヌは数歩先が空間になっていることに初めて気づいた。橋の中央部分が抜け落ちている。まくらを抱えていたから足元が見えていなかった。もしあのまま走っていたら……。
「あぶないって知らせてくれたの?」
マドレーヌは鷹に頬ずりし、優しくなでた。
「ブラウニー、ありがとう。ブラウニー」
「ま、あぶないこと。橋がこんなに老朽化してたなんて」
いつの間にかニーナ・カットがすぐ背後にいた。
マドレーヌは抜け落ちた部分ににじり寄ってみた。縁は折れたわけではなく、刃物で切り取られたかのよう。しかも切り口は、そう古くなさそうだ。
「老朽化なんかじゃない。これは仕組まれたことよ」
誰かが誰かを落とそうと企んだ、落とし穴。
「警備隊長を呼んで。報告は後で伺うわ」
鷹は元気に羽ばたいて森に帰っていった。感謝を込めて見送っていたマドレーヌの微笑みは、彼の姿が遠ざかるにつれて徐々に消え、表情は暗く、思いつめたものとなる。
立ち入り禁止区域。
通れるのは多分、わたし……だけ。としたら、やっぱり狙われてる? でも、どうして。わたしが何かした? どうして狙われなきゃならないの?
どこか、どこか安全なところでゆっくり考えよう。誰にもじゃまされないところで。
まくらを抱え、マドレーヌは力のない足取りでふらふらと城の中へ入って行った。
一方、ジャンドゥヤと真秀は外堀の橋を渡り城の敷地内を出て、奥深い森の入口までやってきた。
真秀は靴すら履いていなかったので、王子の愛馬に乗せてもらうという光栄に授かった。乗馬どころか、馬を間近で見るのも初めてだった。馬というものが想像以上に大きく、乗ってみるとまるで二階にいるようで、しかもかなり揺れるものだから、ひたすらしがみついているしかないのだった。
手綱を引いていた王子は、たまりかねて真秀をオイゼビウスから降ろしてやった。
「何だか気の毒だなあ。少し休もうか」
やっと話ができるようになった真秀は、自分の置かれた状況について、一気に王子にまくしたてた。自分は現実世界の人間で、お菓子を食べながら絵本を読んでいるうちにどんどん引き込まれ、ついには物語の世界に入り込んでしまったと。
「なかなか面白いねえ」
適当にあいづちを打ちながら、王子は真秀の話を聞き流していた。
「道化の話にしては」
「道化? 道化だって!?」
真秀は憤慨しかけたが、王子の誤解が自分の着ているパジャマのせいだとすぐに気づいた。青や黄色の入ったしましまのパジャマ。これでとんがり帽子のナイトキャップでもかぶれば、まさに道化そのものじゃないか。
しかも周囲では何やら楽隊めいた陽気な音楽が、ちんどん鳴っているような? これがこの世界特有の、例の、空気に溶け込んだ音楽ってわけか。映画なんかでムードを盛り上げるBGMや、劇的な効果音みたいな。しかも何やらキャンディーのような甘い香りのおまけつき、ときたもんだ。ああ、何たるおかしな世界!
しかも創造者の息子にして、この世界の事実上の「王」であるジャンドゥヤさまの御前に、こともあろうかパジャマ姿ではせ参じてしまったとは!
「王子、作り話なんかじゃないんだ。これは現実世界における寝間着。風邪で寝込んでたからこんな格好なんです」
「寝間着、寝~間着♪」
ジャンドゥヤは周囲の陽気な楽隊もどきに合わせて、きれいなカウンターテナーで調子っぱずれの歌を口ずさんだ。
「道化はい~つだって寝っ間着を着ってる♪」
「ジャンドゥヤ王子、わかってるんですからね!」
とんだ事態に赤面しつつも、真秀はぐさりと言った。
「少なくともぼくの前では、アホ王子のフリなんかしなくても」
ジャンドゥヤの表情から笑みが消えた。
「プリンス・ザ・スウィートを演じたりしなくても、いいんです。ぼくはあなたの正体も、本質も、何もかも知ってるんです」
勢いづいた真秀は、当事者にしか知り得ないはずの事実を次々にしゃべりまくった。
「王子、黒すぐりはあなただ!」
に始まって、黒すぐり団のこと、スパイのローズ・リラ。正体を見破ったベルガー隊長が、森の中でメンバーになったこと。キーワードは〈シュヴァルツ〉で、キャンディーの中には暗殺計画の暗号文……。
すましていた王子の表情が次第に凍りついていく。
「ギフトが毒ってことだって、ぼくの声が聞こえたんじゃないか」
ジャンドゥヤは口元をきっと結んで耐えていたが、話がチェス盤でマドレーヌと見つめ合ったこと、〈白の庭〉でマドレーヌに送った投げキッスにまで及ぶと、
「やめてくれ。もう充分だ!」
ぴしゃりと話をさえぎった。
「つまりこの世のすべては物語に描かれていることであって、わたしがどうしようと、誰がどうしようと、運命はすでに決まっている。ということか!」
そう言って、草の上に大の字に寝転んだ。
「さあ、お次は何だ。隕石でも降ってくるのか?」
真秀は事の重大さにようやく気づいた。言いすぎた……。人の心に、誰にも触れられたくない部分に、土足で入り込んでしまった。
その時、オイゼビウスが静かに真秀にすり寄ってきた。
「わっ。なんだなんだ」
たじたじと後ずさる真秀の頬に鼻面をこすりつけてくる。ジャンドゥヤは不思議そうに身を起こした。
「おとなしいが気位の高い馬だ。自分からわたし以外の誰かにすり寄るなどしないのだが」
深く考えた後、王子は森の奥に向かって声をかけた。
「フロレスタン!」
黒馬フロレスタンが待ってましたとばかりに木陰から飛び出してきた。そしてそのまま真秀に飛びついていった。
「わあっ。王子、助けてえ!」
真秀は嬉しい悲鳴をあげた。
「フロレスタン。どうした?」
王子がなだめようとするが、フロレスタンとオイゼビウスは競い合うように真秀に甘えるのだった。
やがてジャンドゥヤは意を決し、フロレスタンの背中の鞄から何やら取りだし、真秀にぽん、と放り投げた。
「着るといい。濡れた道化もどきの寝間着よりは、ましだろう」
それが何であるか、真秀にはひと目でわかった。
「これは……、〈黒すぐり〉の衣装!」
「ふうん。何でもお見通しというわけか」
王子は不機嫌そうに言った。
「それにブーツ。帽子に、剣と盾もあるぞ」
どこか人のいないところ。
誰も来ないところ。
安らかに眠りたいのに、いつも必ずじゃまが入る。
マドレーヌはもはや表情を失って、城の地下へと通じる階段を下りて行った。通路には所々ろうそくが灯っているものの足元は殆ど見えず、壁づたいに手探りでないと進めないほどだった。自分の足音だけが、コツン、コツンと辺りに響き渡っていく。
ここなら、誰も来ない。誰にも起こされないし、狙われたりも、しない。
墓地の地下に位置する霊安所の重い鉄の扉が、ギギ……、と苦しそうに開く。ひんやりした空気を感じ、マドレーヌはぞっと身震いした。そこに横たわるのは、ただひたすらの静寂と、暗闇だった。
通路のろうそくを台ごと外して手に取り、そっと中に忍び入る。奥の壁際に置かれている未使用の棺桶を探り当てると、しょく台を床に置き、古風な彫刻の施された重厚な木のふたを両手でよいしょと持ち上げる。中は光沢の美しいビロード貼りで、極上の仕上げ。少々狭いが、眠り心地のよさそうなベッドのようだった。
死んでから入るなんて、もったいない話だわね。
まくらをぎゅっと柩の中に押し込んで、床のろうそくを吹き消すと、本物の闇が広がった。マドレーヌは静かに身を横たえた。
一瞬、言い知れぬ恐怖に襲われるも、すぐに様々なイメージが彼女を闇の世界へと引きずり込んだ。
人間チェス。ジャンドゥヤ王子の鮮やかな活躍ぶり。無惨なクイーンの冠。白い庭での幸せで美しいひととき。東橋の落とし穴。ブラウニー。すっぽかしてしまったパーティー。
黒すぐり。
ジャンドゥヤ。
黒すぐり__、こちらを見つめてる?
マスクをつけてないけど、彼が、黒すぐりなの?
黒すぐりの瞳。まっすぐな、鋭い瞳。茶色がかった黒い瞳。
そうだったかな?
もっと深くて、懐かしい感じの瞳の色ではなかったかしら。森の緑に、湖のエメラルド──
マドレーヌはそのまますとん、と深い眠りに陥った。
15.「忍び寄る人影」に 続く……
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