「お菓子な絵本」8.決闘
8.決闘
「あ……、あれ?」
消えた? 鷹は? 王子はどうなったんだ?
真秀は混乱していた。自分がどこにいるかさえ、わからなかった。
帰らなくちゃ。もう一度、戻ろう。あの森の中へ 。
目を閉じる。しかし、もはや何も見えてこない。ぼんやりと辺りを眺めるうち、真秀はようやく自分の部屋を認識できるようになってきた。
「夢を……見てたのか」
もう一度、目を閉じる。夢の世界に戻ろうと意識を集中させる。
「ああ、だめだ。夢の中になんて戻れっこないよ」
頭を抱え手元を見下ろすと、そこには一冊の絵本。そしてお菓子たち。
夢じゃない。本だ。本を読んでたんだ。
それにしても……。おかしい。だってぼくは確かにそこにいた。森の空気を肌で感じた。樹々のざわめき、鷹の羽ばたき、彼らの声を確かに聞いた。
仮想現実(ヴァーチャルリアリティー)……。
そんな言葉が真秀の脳裏に浮かんだ。究極の仮想現実。もしかして、お菓子の中に麻薬でも入ってたんじゃなかろうな。
──ピアニスト、アルヴィン・シュヴァルツは、ある夜の演奏会場で、ファンと称する怪しげな男からプレゼントを渡される。それは国際的麻薬密輸組織の陰謀であった。
手違いで、麻薬入りのお菓子がアルヴィンの日本の自宅に置かれることとなり、何も知らない息子が手当たり次第に食い尽くし──
そんなストーリーをでっちあげつつ、真秀は正気を取り戻そうと、ベッドのサイドテーブルに置かれたピッチャーの水をグラスに注いで飲み干した。
「麻薬なんかじゃない。ぼくは正気だ」
震える手で残っているお菓子のいくつかを取り出してみる。
ローズ・リラ。バラの花の砂糖漬け。アンジェリカは、きれいな緑の茎の砂糖煮だ。どちらも、カラフルではかなげなトッピング材料。
ブラウニーは、包みに鷹の勇姿が描かれたチョコレートクッキー。
「試して見ようじゃないか」
それらのお菓子を、真秀はじっくり味わいながらかみしめた。大丈夫。何ともない。
だけど、これはどういうことだろう?
『お菓子な絵本』がはめ込まれていた場所に、妙なことが書かれていた。
【警告】
あなたが食べたお菓子は味方
食べなかったお菓子は敵
「要するに、全部食べろってことなんだろな」
それより続きだ。続きを読まなくちゃ。王子の無事を確かめないと。真秀は再び絵本を手に取った。
※ ※ ※
自殺行為。誰もがそう思った。両足で蹴りつけるべく急降下してきた鷹でさえもが、そう感じた。
愛する友人を迎えるかのごとく両腕を広げた彼は、まったくの無防備だった。澄んだ瞳には敵意も、怯えの色もなかった。あるのは愛情のみ。創造者の息子としての、すべての生命に対する限りなく深い愛が、そこにあった。
鷹はとまどい、時速百キロものスピードをゆるめるべく、大きく羽ばたいた。
その瞬間、黒すぐりは身をひるがえし鷹を抱き止めた。
彼の腕の中で、鷹は暴れに暴れた。鋭い爪やくちばしが服を裂き、皮膚を傷つける。それでもジャンドゥヤが忍耐強く、ありったけの愛情を注ぎ込んだので、鷹は次第におとなしくなった。
「あれは、あんなことができるのは……」
ある種の疑いが、ベルガー隊長の胸に宿っていく。
他の者も黒すぐりの底知れぬパワーを感じていた。
黒すぐりは鷹の頭の冠のように広がった羽毛をそっとなでながら、心の内でささやいた。
── 大丈夫。ヒナは無事だ。責任を持ってきみの巣に返してやろう。我々はここから立ち去り、今後はきみの家族を脅かしたりしない。約束する。
しかしヒナを救ったのはマドレーヌ嬢だ。それを忘れないで欲しい ──。
マドレーヌは、もはや憧れというより、崇拝の目で黒すぐりを見つめていた。手もとのヒナがぱたぱたと動く。
「シュテルン……」マドレーヌはつぶやいた。「この子の淡いブルーの瞳、お星さまみたいにきれいじゃない。シュテルン・キューヒライン、〈星型の小さなお菓子〉なんて、ぴったりの名前でしょ?」
まずい。名前をつけたりして、飼うつもりなのか。ジャンドゥヤの胸がチクリと痛んだ。
「マドレーヌさま。我々が育てるのは無理ですよ。巣に返してやりましょう」
「だって、人間が触れたヒナは親が警戒して近寄ろうとしないって」
「大丈夫。彼には言い聞かせましたから」
マドレーヌはひどくがっかりした様子だった。
「いつの日かこのヒナが巣立つ頃には、きっとあなたのもとに飛んでくるでしょう」
ヒナは王室護衛隊が責任をもって巣に返すということで、話はついた。
一行が立ち去ってから黒すぐりは、その体の色にちなみブラウニーと名づけられた鷹の父親に別れを告げ、口笛を吹いてフロレスタンを呼び寄せた。その時、
「王子殿」
ベルガー隊長の声だった。
ジャンドゥヤは一瞬迷ったが、できるだけ自然にさりげなく、しかし覚悟を決めて振り返った。
「やはり……、そうでしたか」
これですべてのつじつまが合う。あの剣術、優雅な物腰。いくら変装し、声色を変えてみたって、持って生まれた資質はごまかせやしない。しかし本当にこんなことが? ベルガーの胸中は、王子が黒すぐりだったという事実に対する無限の誇らしさと、これまで気づかなかった我が身の愚かしさとが、ないまぜになっていた。
「正体を知られたからには」
ジャンドゥヤは剣を抜いた。
カイザー・ゼンメル城の城門を、馬に乗った大勢の招待客が通り抜けていく。
ジャンドゥヤ王子の白馬、オイゼビウスに乗った彼女もまた、実は面識のない周りの貴婦人たちと、にこやかにあいさつを交わしながら正々堂々と入城した。
彼女はオイゼビウスに王子のもとに帰るよう命ずると、自分は社交の場から離れ、人目を忍んで庭園を抜けて城の裏手のさびれた墓地へと向かった。墓地の片隅に佇むあずまやから地下の霊安室へ。有事に備えて城内から城主がいつでも外へ抜け出せるよう、この界隈に錠はかかっていなかった。
そもそも好き好んで墓地や霊安室を訪れる者などいないはず、という楽観的な理屈に従ってのこと。霊安室からは城内のあちこちに張り巡らされた秘密の通路がある。彼女は暗がりを手探りで進み、地下牢へ通じる扉を用心深く開けた。
スリや嘘つき、度を越したいたずら者などが投獄される軽犯罪囚のエリアは、比較的明るく自由な雰囲気である。看守らはチェスに興じ、囚人たちは読書に親しむなどして、思い思いにひまをつぶしていた。一応気配は消しつつ彼女が通り過ぎても、気に止める者など誰もいない。
彼女は看守に見つからぬよう注意を払いつつ、ヘアピンに見立てた特製の万能キーを、アップにまとめた髪の間から取り出し鍵を開け、自分の牢へと戻った。
入り口にはこう書かれていた。
〈囚人23号 リラローズ〉
ベルガーは預かっていたヒナを脇に避けると、ひざまずき、王子の次なる動きに身を任せた。
「きみにも黒すぐり団の一員になって頂こう」
「これは命令ですか」
「命令だ。きみはわたしに強要されてメンバーになる。だから入団に関しての責任は一切ない、ということだ」
王子は剣を振りかざすと、ベルガーの両肩を交互に軽く叩いて入団の儀式を執り行った。
「黒すぐりの名において、
ジャンドゥヤ・ブランの名において、
なんじケーニヒス・ベルガーを
黒すぐり団の一員とする」
「どうなってるんだ! このざまは」
森はずれの集合場所で、ぺルル・アルジャンテ警備隊長は部下たちを前に怒り狂っていた。
「ルドルフ公に何と報告したらよいのだ? 本日の収穫はゼロだったと? いったいお前たち、何をやってたんだ」
「そういう隊長こそ、手ぶらではありませんか」
などと言い返せる度胸のある者は警備隊のメンバーには一人としていなかった。部下に恐怖心をうえつけ、絶対に逆らわせないのがアルジャンテの流儀だったから。
黒すぐりがあらわれ、さっそうと獲物を横取りしていった、との噂はアルジャンテの耳にも届いていた。
「保護区ではないのに。何故だ……?」
「どうやらわたしたち、ジャンドゥヤ王子にしてやられたようね」
アルジャンテにとって、今や一番聞かされたくない名前だった。そう語るマドレーヌの目線の先には、数十匹のウサギたちと無邪気にたわむれる王子の姿。
── より多くのウサちゃんを捕まえたほうが、勝ち! ──
ジャンドゥヤのセリフがよみがる。
ウサギの毛か綿菓子か、甘い香りの大小の白い綿毛が、彼らの周囲をふわふわと漂っている。しかも幼稚な童謡BGMのおまけつき。
悪夢だ。警備隊長アルジャンテは極力冷静に努めようと、深呼吸をしてから王子の前に歩み出た。
「ウサギの横取りとはあなたも悪趣味ですな。これは我々に対する挑戦と、お見受けしましたが」
寝転がってウサギと遊んでいたジャンドゥヤが、アルジャンテをちらっと見上げた。
「おあいにくさま、突撃隊長殿」
「警備隊長だ」
「この子たちはねえ、自分の意思でここにいるんだよ」
抱いていたウサギに、幸せそうに頬擦りして見せるジャンドゥヤ。
「ねー?」
王子に同調して、ぱあ~っと飛び交うふわふわの綿菓子。
見れば、怪我の手当までされているウサギもいるではないか。アルジャンテははっとした。この王子、もしや黒すぐりと通じている? 証拠をつかめば王子に不利に働くだろう。ここはひとつ、挑発してやるか。アルジャンテは決して言ってはならぬセリフを口にした。
「プリンス・ザ・スウィート……」
王子の周囲にのんびりと散らばって、もぐもぐと綿菓子のおこぼれに預かっていた王室護衛隊のメンバーが、一斉に反応する。
王子は慎重に片手を挙げて、彼らを制した。
〈甘みの君〉。ジャンドゥヤ王子のおちゃらけた態度に批判的な連中が、もしくは本物のアホ王子と思い込んでいる連中、あるいはブラン王家そのものに敵対する勢力が、ひそかにささやく悪口だった。
ジャンドゥヤはこのニックネームが結構気に入っていたし、アルジャンテが護衛隊の過剰反応を見込んで、しかもマドレーヌの前で、わざと言ったこともわかっていた。
「プリンス・ザ・スウィート」
アルジャンテはもう一度、言った。
「まさにぴったりの呼び名ではないか! ウサギがかわいそうで、射ることすらできない小心者のあなたにね。まあどうせ、黒すぐり辺りから譲り受けたウサギなのでしょうけれど」
ジャンドゥヤは知らんぷりを決め込んだ。が、王室護衛隊としてはこんな侮辱を無視するわけにはいかなかった。カイザー・ゼンメル城の警備隊長を高圧的な態度で取り囲む。不穏な事態を察し、警備隊の連中も集まってきた。
「こうしてあなたの名誉までも守ろうとする忠実なる護衛隊のおかげで、ご自身は剣を抜く必要もないわけだ」
アルジャンテは自分のセリフに苦笑しながらうなずき、調子にのってさらに続けた。
「お守りのように持ち歩いている伝説の〈星の剣〉とやらも、ただのお飾り。まるで持ち主そのものではないか。王のいない王室の、飾りものの王子殿」
王室護衛隊の全員が、鋭い金属音を響かせ剣を抜いた。
警備隊の全員が即座に受けて立つ。
「まったく……。真の平和は何とやら? 互いを理解し合うことでしょうが」
ぶつくさ言いながら面倒そうに立ち上がった王子に、しょうがないなぁという視線を投げられ、護衛隊員たちはしぶしぶ剣をさやに収めた。
「攻撃隊長殿」
王子はウサギを放してアルジャンテに向き合った。
「警備隊だ!(このアホ王子! わざと言ってやがるのか?)」
「彼らは王室への忠誠心から剣を抜いただけ。あなた方と争わせるつもりはありません」
「いいや。騎士がひとたび剣を抜いたからには決着をつけるのが世の常というもの。決闘だ!」
王子はむろん、このようなばかげた申し出は断るはずだった。アルジャンテのほうも先刻承知のうえで、決闘を断った王子をののしる言葉まで用意していた。しかしマドレーヌと目が合ったとたん、ジャンドゥヤの気が変わった。
「よろしい。受けて立とう」
「王子!」
ベルガーが止めに入る。鷹につけられた王子の傷口が、何より気がかりだった。
「その役目はわたくしが」
しかし二人の耳にベルガーの声など、もはや届かなかった。
「先に剣を抜いたのは王室護衛隊。王子、あなたの側だ。時刻と場所はこちらの都合で決めさせてもらおう」
「どーぞ。ただし侮辱を受けたのは、わ、た、し。で、あるからにして、ルールを決める権利くらいは頂きたいですねぇ」
「ご自由に。どんな武器でも構いませんよ。明日の午前11時、カイザー・ゼンメル城、モザイク広場にて。いかがですかな?」
「ふふ、うってつけだ」
「して、武器は?」
「武器? そんなもんいりませんよーだ」
「では何で戦うというのだ!」
ジャンドゥヤはバカ丁寧に、そして勝ち誇ったように答えた。
「チェスでございます」
9. 「人間チェス」に 続く……