「額縁幻想」 ⑦ 悪夢の相乗効果
「額縁幻想」⑦ 悪夢の相乗効果
ぞくっとした寒気で、絵里香は目を覚ました。
眠っちゃったのか、バッタリと。徹夜明けだものね。なんか、怖い夢だったな。確か、絵が……、色が、全然違ってて。
恐る恐る、絵里香は壁に立てかけてある自分の絵を横目で眺めた。もちろん何ともない。やだな。色が変わってるなんて、魔法じゃあるまいし。アトリエの電球と、朝日の大広間じゃ、少しくらい色合いが違って見えても、ね。
顔だけ洗って、ちゃんと寝よう。
立ち上がりながら、絵里香はテーブルのインペリアル・エッグに、にっこりと微笑みかけた。お花の妖精さんは、何年間、どのくらいの間、隠れんぼしてたのかしら。
台座をしっかり持ち、ネジを巻く。オルゴールの音色は、朝の澄んだ空気の中、ひときわ透明に響き渡った。
そうだ。この絵に、妖精も住まわせてあげよう。ひと眠りしたら描き足そう。彼女がまとっている淡いグリーンの衣。確か屋根裏の衣装だんすにも似たような色のドレスがあったはず。お揃いのシフォンのショールも。
まるで高級なランジェリーのような、薄手のノースリーブのドレスを、絵里香は夢見ごごちで胸に当てた。うっとおしい部屋着を脱ぎ捨て着てみると、幅はかなりゆったりサイズだが、丈はヒールを履けばちょうど良さそうだった。
ショールもふんわり合わせると、妖精のお姫さまになった気分。
階下から聞こえるオルゴールのワルツに乗って、絵里香はふわふわと踊るように階段を下り、軽やかにステップを踏みながら、止まりかけたオルゴールの元へ。優しくネジを巻きながら、そこで目を覚ました。
── わたし、何してるの? ──
踊ってた? こんなドレスを着て?
絵里香がインペリアル・エッグをマントルピースの上に置くと、音楽が再び鳴り始めた。一瞬気が遠くなりかけて、絵里香はふらつく頭をゆすった。辺りを見渡す。
絵が! 夢じゃなかったの!?
音楽に合わせて、額の中の絵がゆれ動いている。ゆったりと、オーロラがゆらめくように!
「クラウス……」
絵里香はマントルピースの上にあったクラウス・ホフマンのメモを片手に、ふらつく足取りでリビングの電話に何とかたどりついた。
番号が、どうしても打ち込めない、何度入れようとしても、どこかで間違ってしまう。
絵里香はキッチンに飛び込み、冷たい水を顔に浴びせた。
「クラウス……、助けて。クラウス」
深呼吸して、再び番号を打ち込む。今度はかかった。絵里香はすがりつく思いで呼び出し音を聞きながら、大広間の絵の前に戻った。
大学近くのいきつけカフェー、ラントマンへの交差点を渡ろうとして、クラウス・ホフマンは、恐ろしい気分に襲われた。
徹夜のせいでも、空きっ腹のせいでもない。
── 絵里香だ ──。
ひと晩中、心のどこかで気になっていた。鏡を処分すると言われた時の、彼女の、哀しげな瞳が忘れられなかった。
大切な宝物を奪われると思ったのだろう。動転した彼女が何かやらかすのでは、という漠然とした不安があった。しかし、彼女に何ができる? 鏡を第三者に預けるとか? どこか人知れない場所に隠すとか?
「うかつだった……」
傷ついた彼女を放ったらかしにしてしまったことを、クラウスは後悔した。朝だろうが何だろうが、関係ない。胸騒ぎがする。クラウスはきびすを返して駐車場に向かった。叩き出されてもいい。とにかく、ハイデンベルク邸へ。
「クラウス。わたし変なの。それに……絵が、変なの」
留守電に、それだけ言うのがやっとだった。
絵里香は暖炉の前で受話器を落としてしまう。拾おうとしてしゃがみ込んだが、なぜ自分がかがんだのか、わからなくなった。
立ち上がって、絵里香はオルゴールにふっと投げキッスを贈った。
── ほら、わたしは森の妖精。あなたの代わりに、ワルツを踊りましょ ──。
くるくると、軽やかなワルツを踊りながら、絵里香は花畑の中に消えていった。
運転に集中していて、カバンの中の携帯が振動したことに気づかなかった。
絵里香の尋常ならぬ声の響き。尋常ならぬ伝言内容。
クラウスは、電話に応対してやれなかったことを思いきり悔やんだ。リダイヤルしても応答はない。ツーツーというのは話中なのか?
彼女がどんなにか、心細かったことか。
彼女の身に何が起こったのか。
絵が? 絵がどうかしたのか。おばあさんの肖像画が、また変化したというのか。
チャイムを何度も鳴らし、門をガンガン叩いた。応答ナシ。
こうなったらいつもの強行手段だ。クラウスは前回の不法侵入の手を使い、門を越え、中庭を抜け、一気に広間へと押し入った。
一歩踏み込んで、昨日と様子が違うとわかった。
絵だ。
幻想世界が描かれた美しい絵が、等身大の額縁に入っている。これがハプスブルクの鏡の入っていた額縁か!
「やられた」
クラウスはがっくりと額を抱えてソファに沈み込んだ。やられた……。
これが彼女の最終手段か。額を処分させまいと、こんなことまで。絵がどうのと言っていたが、問題はこの絵のことか。いったい何が起きたのか。
暖炉の手前に固定電話の受話器が落ちていた。クラウスはそれを拾い上げ、いったん耳に当て、誰も出ていないことを確かめてから、通話終了ボタンを押した。リダイヤルしてみると、自分の番号が表示された。
受話器をマントルピースの上に置く。
手がファベルジェの卵に触れる。コトンとオルーゴールは鳴りだし、再び勢いづいてメロディーが非常なスローテンポで奏でられた。
あ、あれ? この妖精は? クラウスはびっくり仰天した。こんな仕掛けがあったとは!
知らなかった……。きっと祖父でさえも。ネジを巻く。可愛らしい妖精の少女が、花畑の中でくるくると踊り出した。
何かが?
視界の隅で何かがゆっくりと動いたような……。クラウスは、見てはいけないものを見るように、険しい表情でそれを確かめた。
絵が、変化していた。オルゴールの音楽に合わせて、天候が変わるように。
星空の中で、天の川が流れている?
森の木々が、風になびいている?
色が! 全体の色のトーンまでが変化していく。
── 絵里香? ──
彼女に何かあった。クラウスは確信した。しかし何が? 音楽に合わせて変化する絵を見て、自分の気が触れたと思ったか? 怖くなって家を飛びだし、記憶を失ってそこら辺をさ迷っているのか?
もう一度、絵に目を向ける。いや、違う。彼女は──
恐れていたことが、起こってしまった。
純白の花のベッドで、うたた寝するように彼女は横たわっていた。優雅なグリーンのドレス、髪には花冠。まるで妖精の女王さま。あるいはラインの乙女か。
「絵里香! 絵里香!」
どんなに呼びかけても彼女には聞こえない。眠っている彼女には。
危険を承知で、オルゴールの卵を閉じてみる。
絵は……? 動きを止めた。
今度はピアノで同じ曲を弾いてみる。絵に変化はなかった。
オルゴールの世界が描かれた絵なのだから、インペリアル・エッグの、このオルゴール音のみに反応するのだろう。となると、何かのCDをエンドレスでかけても効かないわけだ。オルゴールの音を録音して流し続けても、偽物の音だから通じまい。
クラウスは、ローテーブルを額縁の前に運び、インペリアル・エッグを乗せた。ここならよく響き渡るだろう。
タイムリミットは、ネジの回転の続く限り。
クラウスは覚悟を決めた。
「額縁幻想」⑧(終)へ。