見出し画像

「お菓子な絵本」 1.プロローグ


  わたしたちが望んで行動すれば、
  きっと そのとおりになる。

          ロベルト・シューマン


「お菓子な絵本」

1.プロローグ


「お休みなさい、マドレーヌさま」
 子守唄のようなささやき声は悪意にみちていた。
「これが最期の夢となりますように」

 ロープを解かれた小舟がゆらりと岸から離れ、下流に向かって進み始める。中では砂糖菓子のような少女が、照りつける午後の陽射しをまともに浴びて眠っていた。

 少女は知っていた。誰かが自分を死に追いやろうとしていることを。
 夢で見ていた。なすすべもなく流されてゆく自分の姿を。

── 起きなくちゃ。助けを呼ばなくちゃ ──。
                  
 夢の中の自分に必死に言い聞かせる。が、金縛りにあっているのか、まぶたすら動かせない。

── 起きて! マドレーヌ。起きるの! ──

 流れは次第に速くなる。容赦なく。


 少し先の岸辺の木陰で、少年が一人まどろんでいた。身を守るべく置かれた盾と、見事な宝剣にさりげなくかけられた手が、眠っていても警戒心を解いていないことを語っている。

 川のせせらぎが奏でる忘れられた子守唄。
 ひとすじの涙が少年の頬をつたうと、そよ風は彼の透ける髪を優しくなで、木漏れ日は涙の上にそっと舞い降りる。自然界のすべてが絶大なる愛情で少年を見守っていた。

── 起きるの! ──

 声にならない声を聞いて、少年は飛び起きた。
 夢の世界に──悲しくとも、懐かしさにあふれた夢の世界に戻りたい衝動にかられながらも、少年は意識をはっきりさせようと努めた。
 小鳥たちがただならぬ様子で騒いでいる。

「誰かの思考波みたいだったな」

 川に視線を投げ、わけがわかった。漕ぎ手もなく暴走する小舟。中には人形のごとく眠る女の子。川は自然の摂理に従っているだけで、敵意はない。だけどこの先は──。

  
 忘れられた子守唄は、今や弦楽器のトレモロを伴う緊迫した音楽へと変わっていた。

 一方、少女も夢の中で既に少年の姿をとらえていた。彼女は眠りながら、実際に起きている出来事を感じとれる特殊な能力を持っていた。だが時に期待や恐怖が先行し、判断を見誤ることもあった。勇敢な男の子が自分を救いに来るものと、彼女は確信した。

 彼は何のためらいもなく激流に身を投げ出すの。わたしのために! 舟を捕まえロープを引いて、無事岸に連れてってくれる。

「危険は去りました。お嬢さま」

 少年にうやうやしく手を取られ、眠り姫はうっとり目を覚ます。二人は静かに見つめ合う──

 はずだった。
 辺りはロマンティックな音楽に静かに包まれゆく──
 はずだった。
 が、少女の思わく外れて、実のところはこうだった。

 少年は何のためらいもなく、流れゆく小舟に弓矢を放った。
 矢は恐るべき破壊力をもって船首に命中。眠っている少女の頭上すれすれだ。強烈な一撃に急所を射ぬかれた小舟はみるみる亀裂が入り、真っ二つに裂けた。

「キャアッ」冷たい水中に投げ出されて、少女はようやく目を覚ました。
「助けて! うっぷ。早く……、助けて!」

「大丈夫! 立ってごらん。足がつくから」
 少年が元気よく叫ぶ。
「川はきみを連れていきはしないから!」
  
 だまされたつもりで少女は川底の小石を踏んでみた。流れは速いけれど、そう深くはなさそうだ。案外楽に立てることがわかると、恐怖心に代わって怒りが込み上げてくる。乙女の危険に身を投じようともせず、こともあろうか矢を放つとは! 
 少女は少年に向かって突進していった。

「そんなに慌てたら、滑るよ」

 少年が言い終えぬうちに、少女は浅瀬の泥でひっくり返った。白いドレスが紅茶色に染まる。怒りと恥とで息も絶え絶えだ。
 さ、お手をどうぞ。と言わんばかりに優雅に差し出される少年の手。少女の目がキラリと光る。

── この無礼者を水中に引きずり込んでやる ──。

 殺意のない殺気を感じつつも、少年は何かに呼ばれたかのように、流れに視線を戻した。
「おやおや」という哀れみの表情に、彼が何を見ているのか少女もすぐに気づいた。川下にぷかぷかと流されゆく白い塊。

「わたしのまくら!」少女は金切り声をあげた。

 とっさに少年は少女を岸に引っ張り上げると、自分は川に身を躍らせた。浮き沈みしつつ流されていくまくらに追いつくには少々手間取ったが、やがてまくらは無事少年の手中に収まった。

「わたしの時は水に濡れる気さえなかったくせに」
 少女は感謝のこもった悪態をついた。
「まくらのためには飛び込めるのね。何のためらいもなしに」

「まくらは自分で岸に上がれないものね」

 少年のすっとぼけた応酬に、少女はぐっと言葉を詰まらせる。

「大事なものなんだろうけど、中身は替えたほうがいいな」
「どういうことよ」

 少年はふところから短剣を抜くと、まくらの縫い目にスッと切り込みを入れた。少女の悲鳴もお構い無しに。湿った中身がドサッとこぼれ落ち、のんびりした少年の表情が真剣味をおびる。

「強烈な眠気を誘う薬草が入っている。しかも大量に。これじゃあ目を覚ませないわけだよ」

 川の行く手が岩だらけの激流となり、果ては滝つぼへと落ち込んでいることは二人とも知っていた。

「お礼をしなくちゃね」
 ぺたんこになったまくらを抱きながら、少女はしぶしぶ言った。
「お城へいらっしゃいな。父が何でも差し上げるでしょうよ」

 こぼれた眠り草を土に返しながら、少年はさほど関心なさそうに会話につき合った。
「では、あなたはルドルフ公の末娘であられる──」

「マドレーヌよ」
 少し取りすまして少女は名乗った。次に起こるのはきっと、賞賛のまなざしと、無礼を詫びる言葉。彼はひざまずき、そして──

 マドレーヌか。少年は思った。貝がらの形をしたバターたっぷりの焼き菓子のことを。あれは紅茶に浸すとおいしいんだっけ。そして今、目の前にいる泥まみれ、水浸しのふくれっ面の……、うす茶色の髪に同じ色のきらきらの瞳の女の子は、まさに紅茶浸けのマドレーヌだ。しかも上等のロイヤルミルクティーが似合いそう。
 くすっと少年は微笑んだ。
                         
 またしても思わく外れた少女のほうは怒りで頬を紅潮させ、意地悪く言った。
「一応お名前を伺っとこうかしら。考えようによっては、あなただって容疑者の一人なんですからね」  
「容疑者?」
「舟のロ-プを外した犯人」

── なるほど。このお嬢さんは危険にさらされているのか ──。

 少女の身分を聞いてもさほど関心を示さなかった少年の胸に、小さな炎がチラリと灯った。それはやがて、こちらの世界(=お菓子な世界)も、あちらの世界(=いわゆる現実世界)も巻き込んで、彼が生涯を捧げることになる、恋と正義の炎だった。

「一人でゆっくりお昼寝したくて。小さな舟を見つけたから、それに乗ったの」
 少年の、いささかぶしつけとも思えるまなざしに、どぎまぎしながら少女は続けた。
「涼しくて気持ちのいい木陰。舟は揺りかごみたいで……。すてきな夢を見てたのよ。誰かが嫌な声で夢を引き裂くまでは」

 その「誰か」を特定することはできなかった。夢はすべてを見せてくれるわけではない。恐怖心が犯人の姿を覆い隠していた。悔しそうに顔を曇らせ、少女は夢の世界へと意識を集中させた。

「とってもきれいな男の子が、白い馬に乗って平原を走ってた。風と光を全身に浴びて、輝いてて。まるで……、まるで世界中が彼を祝福してるみたいだった。わたしも風になって、その子と一緒に走ったわ。川のほとりで彼は馬を放して」
 そこまで語って少女は気づいた。

「あら、そう。あなたよ。夢の中の男の子」

 あらためて、まじまじと少年を見つめてみる。
 したたり落ちる水滴を宝石のように見せているサラサラの金髪。大きな衿の、飾り気はなくともいかにも上品な白いシャツ。かたわらにあるのは、少年のほっそりした体にはまだ少し大きそうな剣と盾。
 伝説の〈星の剣〉だ。刃は隕石でできていて、柄には世界最大級のスター・サファイアが埋め込まれている。
 それに盾の紋章。ブラン王家の象徴である、冠をいただく白鳥と、音楽による世界の調和を表わす音符が描いてある。
 そして瞳。エメラルドの輝きを放つ、高貴な瞳。この世のすべてを包み込んでしまいそうな、深く澄み切った瞳! それが何よりの証拠。

「あなた、もしかして、あなたは?」
 答えはわかっていた。しかし聞かずにはいられなかった。

「ジャンドゥヤ・ブラン……。と、申します。マドレーヌさま」
 少年は言いづらそうに、その名を語った。大げさなほど優雅にお辞儀をしながら。
  
 にくったらしくとも楽しかった二人の会話は、これで終わりだ。少年は覚悟した。いつだってそうなのだ。身分を明かすと誰もが口をつぐんでしまう。

 ジャンドゥヤ・ブラン。音楽とお菓子を伴う空気が日常に漂う、ここ〈お菓子な世界〉創造者の息子にして、唯一の王子。
 数年前、創造者である彼の両親が突然行方不明になってからは、事実上の「王」とされている。 

 少女はようやく理解した。なぜ、自然界が彼を祝福しているように見えたのか。なぜ、彼が木陰であれほど悲しげだったのか。

 言葉を失ったまま、二人は見つめ合った。

 ジャンドゥヤの瞳を、大抵の者はまともに見ることができない。あまりにも澄み切った美しさに心を見透かされそうで、誰もが一様に目を伏せてしまうから。
 しかしマドレーヌはそうしなかった。ひざまずき、敬意を払うことすらしなかった。
 というより、できなかった。
 王子の瞳に魅入られ、すくんでしまったから。自分が砂糖菓子になって溶けてしまいそうな錯覚に陥りながらも、負けずに澄んだ美しい瞳で必死に見つめ返すのだった。




2.「秘密指令」に 続く__







いいなと思ったら応援しよう!