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「額縁幻想」 ⑧ (終) 輝きの出口

「額縁幻想」⑧(終)輝きの出口



 音楽が、天上から直接脳裡に鳴り響いてくるようだった。

 オルゴールの夢の世界。ファベルジェの卵の中に閉じ込められたかのような錯覚に、クラウスは陥った。
 しかしここには果てがないはずだ。ぼくたちの宇宙には限りがあるが、人の心は、果てしなく永遠に広がってゆけるのだから。

 花や木々、珍しい小鳥たち、優しく吹きそよぐ風までが、オルゴールのメロディーに合わせて唄を歌ったり、何やらささやき合ったりしていた。キラキラ、サラサラ、リンリン、シャララン。何を物語っているのか、そのすべてがクラウスには理解できる気がした。

「妖精の女王さまが現れたのよ」
「創造者が!」
「小鳥たちが花冠を作って差し上げたんですって」
「そうそう、また新しい銀河が生まれたらしいわよ」
「ちょっときみたち、女王さまが眠ってらっしゃるんだから、静かにしたまえよ」

 すべてのおしゃべりは、歌声であり、すべての歌声は、生命のたわいないおしゃべり。

 頭上には満天の星々。天の川がゆったりとゆれ動き、流れ星が降り注ぐ。遙か彼方の銀河星団が、スコープを通したかのように間近に迫り、目をこらすとその中の恒星のひとつひとつ、更にそれを囲む惑星の自転、四季の移り変わりがはっきり見え、惑星に住んでいる生命の息遣いまでが聞こえてくるようだった。

 これが彼女の宇宙観なのか。彼女の理想とする、プラネタリウム。

 尾の長い極彩色の鳥が、高らかに歌いながら木陰から飛び立った。

 クラウスは、はっとした。
 いけない。どのくらい見とれていたんだろう。オルゴールの音楽は、まだしっかりと鳴っている。急いで女王さまを見つけ出さないと。

「きみたち、女王さまはどちらか、知ってるかな?」
 半信半疑、駄目もとで、クラウスは花々に語りかけた。

 足元の花々が、丁寧におじぎをしながら背後に後退りして道を開ける。
「女王さまのご友人であられる勇敢な騎士さま」
「どうぞお通り下さいませ」
「どうぞどうぞ」

 小鳥たちは、羽ばたき、振り返りながら案内する。
「こちらでございます」
「こちらへ、こちらへ」

 遙かな恒星から届く日差しを遮るように、女王の上に天蓋となってかがんでいた二本のマロニエの木が、おごそかに、誇らしげに立ち直った。
 ばら色と白のエリカの花で作られた、豊かな香りのベッドで、夜空の明るい日差しを受けた絵里香の寝姿は、輝くばかりに美しかった。妖精の女王、というより、もっとはかなげで純粋無垢な、妖精の姫。

 騎士、あるいは王子が、麗しの姫君にそっとキスをして眠りから覚ます、という定番の行動パターンの誘惑を、クラウスはあえて避けた。ここは強行手段でいかねば。

「絵里香。絵里香姫、お目覚めの時間ですよ」

 乱暴に起こしにかかるが、びくともしない。

「絵里香、起きて!」

「う〜ん、クラウス?」
 半ば目を閉じながら、絵里香が反応した。
「クラウス、待ってたのよ」

 良かった。クラウスは心から安堵した。温かな息遣い。それに意識もちゃんとある。

「さあ、帰りますよ」
 絵里香を起こし、腕を引っ張るが、立ち上がれる力はなさそうだ。クラウスはやむなく姫君を抱き上げた。元来た道に一歩踏み出し、そこで血の気が引いた。

── 出口はどこだ? ──

 自分が入ってきた場所がどこだかわからない。いや、仮に覚えていたとしても、絵の中のこの世界は音楽と共に刻々と変化しているのだから、出入り口など、とうにふさがっているに違いない。

 クラウスは腕の中ですやすや眠り込んでいるお嬢さんを見下ろした。責任はぼくにある。助け出さねば。必ず。しかし……。
 クラウスは思案した。
 それだけじゃない。仮に出口を見出し、絵里香をこのままの状態で連れて帰っても、永遠に目を覚まさない恐れがある。彼女が自分の意思で帰らないと、意味がないのだ。

「絵里香、起きて」
 クラウスは抱いていた絵里香を無理に立たせ、肩を支えて揺さぶった。

「クラウス、わたし眠たいの」

「絵里香! もう時間がないんだ!」

 彼女をしっかり抱きしめ、キスして目覚めさせたい衝動にもかられるが、そんなことをしては、こちらがくらくらとろけてしまい、永遠に絵の世界の虜になってしまう。女性を叩くのは本意でなかったが、頬を軽くぴしゃぴしゃとやった。

「ひどいことしないで!」
 絵里香は怒ってクラウスの手を払いのけ、ようやく自力で立つことができた。一歩下がり、彼をぼんやりと見返した。
「わたし、あなたが好きよ。ずっと一緒に居てもいいくらいなんだから」

「それはありがとう」
 慇懃無礼に、クラウスは言った。
「だがその話は帰ってからに」

 体が徐々に重たくなって来る。オルゴールのテンポが遅くなって来ている。思考までが鈍りつつあるのを、クラウスは感じた。

「音楽が鳴っている時だけ、ここでは生命が生きているんだ。この世界に閉じ込められたら、ぼくらの思考は停止し、ただ眠っているだけになるだろう。さっきのきみのように」

「でも、素敵な夢を見ていたわ。お花畑であなたとワルツを踊るのよ。ターンする度に、ふわりふわりと、いい香りが舞い上がるの」

「確かにここはきみのユートピア、あるいはアトランティスだろうよ。だけど、現実世界じゃない」

「いいのよ。クラウス。ここは永遠の世界なの。ずっと一緒にここに居ましょう」

「目を覚ませ、絵里香。どんなに辛くても、大変でも、ぼくたちは現実に生きる役目があるんだ」
 遠くなりつつある意識を振り絞って、クラウスは続けた。
「ハイデンベルク家はどうなるんだ! 絵里香、きみが守ってゆくんじゃなかったのか!?」

「わたしが? ハイデンベルクを?」
 絵里香はぽうっとした様子で首を傾げた。

「シュテファン・ハイデンベルクの記念館は、きみの大いなる野望だろう?」

 オーパの記念館……。

 オーパと、オーマの大切な家。ママたちが育った大きなお屋敷。それは、先祖代々から伝わる、大切な宝物。
 絵里香はようやく我に返った。瞳に生命力がよみがえる。

「帰りましょう。帰らないと」
 辺りを見渡した後クラウスをふり返り、毅然とした表情で言った。
「出口はどこ?」

 時間がない。クラウスは周囲に目を光らせた。

「一番輝いてる場所が、おそらく出口だ」

 一番輝いている場所、最も輝いている場所。

 そして出口は、現実世界への入口。新たに始まる人生の。

「あそこ!」
「あそこだ!」
 二人は同時に別方向を指した。絵里香は花が咲き誇るひだまりを、クラウスは全天でもっとも輝く恒星を。

「じゃあ、お互い思ったところに、同時に行きましょ」

 クラウスは静かに首を横に振った。
「そんなことをしたら、ぼくたちはそれぞれ違う世界に戻ってしまうかも知れないよ」

「違う世界? 戻ったら、現実世界が変わってるの」

「それはわからない。ただ、その可能性が、なくもない」
 クラウスは絵里香の瞳をしっかり見据えて言った。
「絵里香。ぼくたちは一緒に居る必要がある。だから同じ世界に戻る」

 その言葉には計り知れない強い響きがあった。
 絵里香は感激し、心の底から安心した。二人は向かい合って手を握り、しっかり見つめ合った。

── 最も輝ける場所 ──。

 それは、互いの瞳の中だった。




 オーマの肖像画は? 大丈夫、元のとおり優しく微笑んでる。
 窓からの景色は? カーテンは? 
 身の回りの状況が変わっていやしないかと、絵里香は気が気でなかった。そこら中を慌てて確認して回る。マントルピースの上、ピアノ、ソファは……? 

「テーブルの位置が違ってる!」
 絵里香はひきつった悲鳴を上げた。

「それはぼくが動かしたんだ」
 錯乱した絵里香の腕を引き寄せ、クラウスは厳しく言った。
「絵里香、もうやめるんだ」
 今度こそ、絵里香をしっかりと抱きしめる。
「何も変わっちゃいないんだから、大丈夫なんだから。それに、ぼくたちは一緒だ。何があっても二人なら乗り越えられる」

 大切なのは、己の心。
 世界は元のとおりでありながら、今までとは異なる世界。自分たちの心が、以前とはまったく違っているから。心が変化すれば、意識が高まれば、世界も変化してゆくものだから。

「クラウス、ありがとう」
 クラウスを見上げ、絵里香は消え入りそうな声でささやいた。
「それから……、ごめんなさい」

「もういいよ。ぼくも浅はかだった。それより」
 クラウスは冗談まじりに明るく言った。
「さっき、『ずっと一緒に居てもいい』って言ったよね」

「あれは……」
 はにかみつつ、絵里香は答えた。
「いつか……ね」

 はぐらかしながらも、そのいつか、が限りなく近い日であろうことを彼女は知っていた。

「さ、絵を外そう」

 ハプスブルクの額縁は、元どおり屋根裏部屋へ。何もしなければ問題ないのだ。二人が永遠に秘密を守り通しさえすれば。

「この絵は、預かっておくよ。いつか、その時が来るまで」

「花の妖精を描き足したらね」

 ハプスブルクの額縁と、絵里香の絵と、ファベルジェのオルゴール。三拍子揃ってなければ危険はないはずだったが、すでに魔法がかかってしまった絵とオルゴールは、やはり一緒にすべきではないと、クラウスは判断していた。

 オルゴールがコロン……と鳴った。

「こんな仕掛け、よくぞ見つけたね。きみは素晴らしいよ」

 絵里香は微笑みながらネジを巻いた。もう怖くはなかった。

「ふしぎな曲。不安な時は怖い曲に、楽しい時は明るい曲に、幸せな時はロマンティックな音楽に聞こえるんだから」

「それは、世界はその人の心次第で、良くも悪くも変化して見える、ということさ」

 クラウスは絵里香の前に一歩踏み出し、うやうやしくお辞儀をした。絵里香は恥じらいながら、差し出された手にそっと自分の手を重ねる。
 二人は幸せなオルゴールのワルツに乗って、大広間の中を、初めのうちはささやかに、徐々に大きな円を描きながら優雅に舞った。

 しかしながら無言のまま見つめ合うダンスには、絵里香はまだ慣れていなかった。つい口が開いてしまう。
「プラネタリウム、ね。いつか一緒に行ってくれる? もう二度も見損なっちゃって」

「仰せとあらば」
 クラウスは優しく微笑んだ。
「きみの創った星空を見たよ。ああいうのが好きなんだね」
 そして白状した。
「実はぼく、専門は天文学でしてね」

「やっぱり嘘ついてたんだ」
 絵里香は一瞬つまずき、ぷうっと頬を膨らましてから笑った。
「何だかわたしたち、趣味が合いそう」

「プラネタリウムを監修することもあるんだ」
 クラウスは遠くを見つめながら己のヴィジョンを騙った。
「ぼくの野望は、子どもたちや一般の人々に、天文学をわかりやすく浸透させること。
 宗教や哲学、あらゆる慣習。異なる価値観が民族や宗派どうしの対立を招き、紛争が起こるわけだが、壮大で美しい宇宙に想いを馳せる天文学は、普遍のものだから」

「天文学が浸透すれば、世界に平和が導かれる……。鏡の力を借りなくても」

「同じことが絵里香、きみの絵でもできるね」

「わたしたち、一緒に何かできるかも」

 オルゴールは徐々にゆっくりになり、二人もそれに合わせて動きを止めていった。

「喉が乾いちゃった」
 絵里香は頬を染め、キッチンに入った。
「お水でも」

── ピアノを弾いてくれる? リャードフの〈プレリュード〉 ──。

 絵里香の心の声が伝わるか、伝わらないかのうちに、大広間のベーゼンドルファーが静かに鳴り出した。

 ふしぎね。最初に聞いた時より、もっとロマンティックに聞こえる。
 クラウスのために特別なクリスタルグラスに水を入れ、絵里香は広間に戻った。
 お水だって、そう。クリスタルで飲むと、より美味しいし、安心する誰かと一緒だと、もっと美味しい。

 ピアノの脇に寄り添って立った絵里香を、クラウスはふと見上げた。
 少しの間、時間が止まるかのごとく、彼の手も、音楽も、ゆるやかに動きを失った。まるで止まりゆくオルゴールのように。
 二人の瞳と瞳が溶け合い、無限の時がそこに生まれた。それは、二人の人間が同時に恋に落ちた魔法の瞬間だった。

 二人は気づかなかった。

 その時、周囲の空気が、大広間のシャンデリアやオルゴール、屋根裏の額縁、アトリエの絵、あらゆる小物から家具、中庭の木々。屋敷全体が、二人を取り巻くすべての宇宙が、ゆったりと細胞レベルで活性化され、深く、幸せな呼吸を始めたことに。



Ende





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