「お菓子な絵本」30.初めに唄があった
30. 初めに唄があった
── アルヴィン・シュヴァルツ
お菓子な世界を語る
初めに唄があった
言葉のない
美しく、哀しい唄が
ひそやかに響いていた
耳を澄ます者の心に
風に乗って、漂う唄が
その頃、風の唄はライン河の支流辺りを漂っていた。
岸辺では幼稚園の子どもたちが写生をしてた。とりどりの明るい色の帽子がにぎやかに並んでいる。
一人の男の子の耳にふと、風の唄が聞こえてきた。見えないはずの美しい世界が、そこにあった。
── なんてきれいなんだろう ──。
男の子は夢中になって描いた。草花の不思議な香り、山や湖の輝きを。小川のせせらぎ、葉の生い茂る樹々のざわめきを。風に漂うメロディまでも。
遠く遙かな昔からそれまでずっと長い間、形を成していなかったものに、生命が与えられた。世界は男の子の空想とともに、果てしなく広がっていった。
「素晴らしいじゃないの! アルヴィン」
一人一人に優しく声をかけながら見回って いた先生が、感心して叫んだ。現実に見えない光景を、男の子は写生していたのだが、先生は余計なことは言わなかった。
ルドルフという名の子が突進してきて、その絵に泥をはね飛ばした。わざとではなかったが、素直に謝りもせず、
「そんなのは写生じゃない」と言って走り去った。
泥の染みを消すために、その上には城が描かれた。塔のたくさんある城が。
またある時、風は渡り鳥を伴って北海道南端の岬を吹き抜け、丘の上の一軒家の小さなキッチンの窓辺を訪れた。
そこでは淡いグリーンのエプロンと同じ色のリボンをつけた女の子が、母親とクッキーを焼いていた。
女の子は風の唄の中に、かつてドイツの男の子が描いた美しい世界を見いだした。
「風さん風さん、わたしのお菓子たちも連れていってちょうだいな。あなたの唄に乗せて、あの素敵な世界へと」
風は喜んで、連れていった。
だけど、焼き上がったクッキーをお皿に並べてみて、女の子は首をかしげた。
「ひとつも減ってないじゃない」
ところが風はちゃんと皆を連れていったのだ。焦げてしまった、出来損ないのクッキーまでも。お菓子たちの様々な想いを。
どんどん広がりゆく男の子の描いた世界に、お菓子な住人たちは次々と送り込まれていった。女の子がそれからも、いろいろなお菓子を作り続けたから。チョコレート、ケーキにパイ。ゼリーにムースにシャーベット。とびきり上等なものから失敗作まで。
こうしてあらゆる階層がそこに生まれた。
数年経って、男の子はピアノを弾きながら、風の唄を思い出した。
同じ頃、女の子もお菓子を作りながら、風の唄を聞いていた。
二人は、かつて自分たちが創造した世界へと旅立った。
そこは想像を絶する夢のように不思議で美しい世界でありながら、同時に何ともおかしな世界にもなっていた。法も秩序もなく、善悪の区別もつかぬめちゃくちゃな連中が、勝手きままに遊び暮らしている。
二人は力を合わせて、お菓子な世界を混乱から救おうと努力した。マティアスという名の不思議な少年の助けも借りて。
何日間も頑張ったはずなのに、二人が、いわゆる現実世界に戻ったとき、時は数時間しか経過していなかった。
お菓子な世界はその頃はまだ小さな小さな世界だったので、わたしたちの現実世界より時間の進むのがとても速かったのだ。
時は流れ、二人は成長して大人になった。
ヴァイオリン片手に、彼女はヨーロッパに渡った。男の子がドイツ人で、音楽家を目指すに違いないと知っていたから。
その朝、東欧の音楽院では早くから学生たちが様々な楽器を練習していた。
調弦するのはヴァイオリン。低音を優しく奏でるチェロ。ホルンの音色はアルプスの角笛。音階を自在に駆けめぐるフルートに、トランペットの晴れやかな響き……。
ありとあらゆる音の中、静かに耳を澄ます彼女に聞こえてきたのは、ピアノの調べ。
それは忘れかけていた、なつかしい風の唄。
よりいっそう鮮やかに、はっきりとよみがえる。ピアノ室の扉が開き、そして二人は再会した。二人の間の時間は凍りつき、姿は消え、唄のメロディーだけが、あとに残された。
幼い二人がまいた幸福の種は確実に、立派に成長していた。お菓子な世界では既に1500年もの時が経っていた。二人は歓喜の声で迎えられ、崇拝され、お菓子な世界の女王と王になる。
平和が再び訪れた。
── 永遠に、この世界にとどまろう ──。
二人は心からそう願い、愛しあい、結婚する。
やがて誕生した王子には、とびきりおいしいチョコレート菓子の名がつけられた。
こうして民を愛し、自然を愛し、歌や楽器をこよなく愛する世界一幸福な家庭が、その王国の上に築かれた。
9年の歳月が流れた。
穏やかな風がそよぐ明るい夏の朝。
8歳になった王子は、城のふもとの湖畔で、一人フルートを吹いていた。水面は朝の光にきらめき、薔薇色を帯びた雲がゆったりと流れゆく。魚や森の動物たち、草や樹々、あらゆる生命体が王子の奏でる朝の唄にうっとり耳を傾ける。
見事に輝く太陽が王子に一日の始まりのあいさつを投げかけると、辺りは金のヴェールに包まれた。
女王と王は城のバルコニーからその光景を眺めていた。
「あの子には才能がある。自然界に愛される、不思議な才能が」
二人は心から息子を誇らしく思った。
その時だった。
王子の笛の音に合わせて風が唄い始めたのは。
忘れられた哀しげなメロディーに、二人の息は止まった。周囲が幻のごとくゆらぎ始める。
── ジャンドゥヤ! ──
母親の声を聞いたように王子は感じた。それきり二人は永遠に姿を消した。
女王と王の衣装のまま、二人は演奏会のリハーサル会場に突然現われた。
「一体どこへ消えてたんだ! ずいぶん探したぞ」
現実世界ではたったの三日しか経っていなかった。その夜、彼は学生オーケストラとシューマンの協奏曲を弾くことになっていた。
三日間といえども、西側の留学生が二人、鉄のカーテンを超えた東欧で行方不明になったとあって、各国の秘密警察までが動き出している始末だった。
「代役も考えていたんだ……。しかしその格好、ソリストにしても少々派手過ぎやしないか?」
指揮者とは以前に同じ曲で共演したことがあり、気心も知れていた。リハーサルが本番直前の通し稽古だけとは無茶な話であったが、かつて王だった男は、悲しみをこらえて舞台に挑んだ。
音楽が二つの世界の掛け橋になると信じたかったから。
しかし女王のほうは、いきなり現実世界に引き戻されて息子を失った衝撃に耐え切れそうになかった。
そこで二人はお菓子な世界への意識を拡大し、向こうの時間がゆっくりと進むよう念じた。
息子が自分たちの時を超えて人生を終えてしまうなど、到底考えられなかったから。
かくして、あちらの世界とこちらの世界は、時がほぼ同時に流れるようになる──。
※ ※ ※
「今の物語は、今夜弾かれる曲の解釈と判断すべきなのでしょうか?」
昼下がりのウィーンの老舗カフェ。ここは国立歌劇場の裏手、ザッハートルテで有名なホテル・ザッハーの一角でもある。高い天井にシャンデリア、深紅のカーテンに敷物、大理石の丸テーブルといった優美な内装が歴史の重みを感じさせる。
アルヴィン・シュヴァルツは〈音楽新報〉誌の記者とテーブルをはさんで向かい合っていた。記者の隣には、アルヴィンの話にすっかり魅了され、感動さめやらぬ面持ちの若いカメラマンが控えている。
「シューマンの《幻想曲》でしたよね。メインの曲目は」
メモを走らせていたノートを、女性記者は少々不満そうにペンで叩いた。
「どちらかというと、こちらとしてはもっと現実的なお話を伺いたいんですけどね」
「現実的?」
アルヴィンは長い夢から目覚めたように、ゆっくりとかぶりを振った。
「いえいえ、これは曲の解釈などではなく、実話なんです。かれこれ10数年ほど前までの」
「わたしが言ってるのは、もっと読者の好奇心を満たすプライベートな話題をですね……、例えばあなたのご家族。日本の奥さまのこととか、息子さんのこととか」
「息子?」
アルヴィンのエメラルド色の瞳は再び遠くを見つめ始めた。
「真秀のことですか? あの子なら、今まさにあちらの世界に行っているところですよ。きっと、自分の兄にも出会って、互いに助けあっていることでしょう」
カメラマンの青年が思わず身を乗り出す。
「ということは、自由に行き来できるんですか? あちらとこちらの世界を」
記者が「あんたは黙ってなさい」と、目で合図する。
「それは……、無理です。残念ながら」
アルヴィンはまぶしそうに目を細めた。ピアノに向かいながら時おり見せる、憧れとも哀しみともつかない表情だ。
「つまり、あなたが……」
遙かな遠い世界へまなざしを向け、ひと言ひと言かみしめる。
「あなたが夢から目覚めて、その現実離れした美しい世界に戻ろうとしても、決して戻れないのと同じように、我々も、お菓子な世界に再び戻ることはできないのですよ。どうしたって」
そうかしら? 記者は思った。彼は今、少なくとも彼の心は今、こちらの世界にはいやしない。瞳はわたしたちを見ていない。遙か彼方の、夢の世界を見つめてる。あちらの世界に戻ってるのと同じことじゃないの……。
ともあれ何かしら現実的な話題を引き出さなくては。彼女はこの風変わりで魅力的な堅物ピアニスト、アルヴィン・シュヴァルツを、何とかして自分のペースに引き込もうと努力した。
「ところで先ほどのお話に、ルドルフという懐かしい名前が登場しましたよね」
「ルドルフ・ベッカー」
「86年のコンクールで、あなたに破れた」
「あのときは彼が優勝し、わたしは二位だった。負けたのはわたしのほうです」
「けれど事実上はあなたの勝ち。でしょう?」
女性記者は笑みを浮かべて続ける。
「確かに彼はその卓越した技巧と型破りな解釈で、一部の聴衆には熱狂的に迎えられた。けれど愛されはしなかった。最も愛される演奏家の人気投票では、あなたが一位だった。詩情あふれる誠実な演奏で、審査員特別賞、最優秀演奏賞も、あなたが受賞された」
アルヴィンは関心なさそうに、銀のトレイに乗せられた水のグラスを口元へと運んだ。
「生涯のライバルといわれて、いつも比較されてましたよね」
「有史以前からのね」
ため息まじりに、アルヴィンは答えた。
「そういう意味では、惜しい人を亡くしましたよね。コンクールのあと、ルドルフ・ベッカーは忽然と姿を消してしまった」
ここで彼女は声をひそめた。
「噂では、ラインに身を投げたとか? 遺書もなく、遺体も見つからなかったそうですが」
「彼は死んでやしませんよ」
アルヴィンはさらりと言った。
「お墓もあるのに?」
「泥の染みの上に築かれた城の主として、あちらの世界に君臨しているのです。もう、70歳近いんじゃないかな」
女性記者はついに会話にさじを投げ、名物のザッハートルテを黙々と食べ始めた。アプリコットジャムを挟んだ、濃厚なチョコレートスポンジに、上質のチョコレートのコーティング。横にたっぷりと添えられた甘味の控えめな生クリームの、絶妙なコンビネーション。
インタビューの続きは、興味津々のカメラマンの青年が引き取る形となった。
「彼はこちらに戻って来られないんですか?」
アルヴィンは深く考えてから答えた。
「戻りたくない事情があるのか、あちらの世界で必要とされる何かが、あるのでしょう」
「一つ、わからないことが……」
青年が遠慮がちに尋ねる。
「世界が小さいと時間の流れが速い。と、おっしゃいましたよね。それから、意識を拡大すると、時間が遅くなるといったことも。どういうことなんでしょう?」
アルヴィンはスーツの胸ポケットから小さな手帳を取り出した。
「これをめくってみて下さい」
パラパラとめくる。演奏会のスケジュールなどが書かれているようだった。かたわらの記者がとっさにのぞき込んだが、速すぎて何の情報も得ることはできなかった。
「次はこちらを」
楽譜が差し出される。ピアノの楽譜だ。所々に書き込みがある。芸術家の生の息づかいや特別な感性がじかに伝わってくるよう。青年は1ページ1ページ、丁寧に開いてみた。
「手帳より大きいから、譜をめくるにも時間がかかるでしょう?」
「なるほど、そういうことか!」
彼は気づいた。小さいものは速く、大きいものは遅い。時間の流れが違うのか。
「ハムスターを手に乗せてみたことがおありですか? すごい勢いで心臓が動くのがわかりますよね。では恐竜レベルではどうでしょう? 鼓動はかなりゆっくりなんです。ハムスターの寿命が短いと思うのは、わたしたち人間のレベルで見ているからなのであって、ハムスター自身にしてみれば、他の動物が体験するのと、ほぼ同じ長さの生涯を感じているわけです。
一生の鼓動回数というものは、どんな動物でも概ね変わらないのですからね」
「だから外部からは、小さな世界では時が進むのが速く見えるわけか。そして、世界が広がると、逆に遅く見える」
「そのとおり。仮にあなたがわたしのポケットに入るくらいの、ミニチュアサイズになったとしましょう。あなたは24時間を何日にも感じ、その間、寝たり起きたり、食事も何度も必要になることでしょう。呼吸数も、頭の回転も速くなり、声のトーンも高くなる。会話の速さにこちらはついていけなくなるでしょうね」
「そして何倍もの速さで年をとっていくのか……」
「しかし本人に自覚症状は感じられない」
カフェの奥に置かれたアップライトのピアノがゆるやかに鳴り出した。レハールの《メリー・ウィドー》のワルツを、いつしか現れた老ピアニストが上品かつ気持ち良さそうに奏でている。
泡立てたミルクのたっぷり入ったウィーン風のコーヒー、メランジェを飲みながら時間をつぶしていた女性記者が、ついにしびれを切らし、カメラマンを肘でつついた。
「ああそうだ。写真を撮らせて頂けますか?」
「どうぞ」
アルヴィンはまったく表情を変えようとしなかった。カメラを向けると、大抵の人間は意識して構えるものなのだが。カメラマンは、この夢見るピアニストを、最も素敵に写る角度で撮った。
一瞬、彼の頭上に、輝く王冠を見た気がした。
〈音楽新報〉には、次のような記事が書かれた。
彼の心は常に別の世界にある。
我々の知らない、遠い世界に。
彼は見えないものを見つめ、
聞こえない唄を聞いている。
彼の比類なき美しい音色の秘密は、
そんなところにあるのだろうか。
31.「処刑」に 続く……
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