「お菓子な絵本」13.降ってきた助っ人
13. 降ってきた助っ人
「マドレーヌさま……」
どこからか、遠い呼び声。
「どこですのー?」
静かに、そして確実に。二人の幸福な眠りを打ち破るかのごとく、響いてくる。
── 彼女だわ ──。
「マドレーヌさまー!」
── いやよ。来ないで。ずっとこうしていたいの。幸せな夢を、いつまでも見ていたいのに! ──
ジャンドゥヤはいさぎよく立ち上がり、マドレーヌにかけてあったマントをそっと外して自分の肩に引っかけた。
彼女と話したかったのだけどな。
リンゴの木を足がかりに、背後のレンガ塀に飛び移ると、愛おしそうにマドレーヌを振り返る。
彼女、自分が狙われていることを知ってしまったんだ。力になれる仲間は大勢いると伝えておきたかった。それに、話せば何か手がかりがつかめたかも知れない。
彼はなおも眠っているマドレーヌに風に乗せて投げキッスを送ると、塀の反対側へ飛び降りた。
── 行ってしまった ──。
マドレーヌの頬を涙がつたう。
ニーナのばか! あなたなんかに起こされたくなかったのに!
ニーナ・カットは〈白の庭〉へ足を踏み入れるや、いきなり何かに髪を捕まれた。
「きゃっ!」
とっさに手をやると、激痛が走った。
「あ痛っ。何なの!?」
血のにじんだ手を口に当てながら身をよじって見上げ、わけがわかった。アーチの白バラの枝が髪に絡みついている。まるで意思を持っているかのように。悪意とともに攻撃を仕掛けてきたかのように。それも、誰かの命令で。
鋭いとげに再び刺されぬよう注意を払いながら、ニーナはやっかいな枝としばらく格闘していたが、ヘアピンを外し、固く結ってあったアップの髪を解くことで、ようやく解放された。
「もうっ」
花を蹴散らせながらずんずん庭の奥に突き進み、眠っていたマドレーヌ嬢を乱暴に起こしにかかる。
「起きて下さい! マドレーヌさま」
マドレーヌは目を閉じたまま、まくらを固く抱きしめて抵抗した。
「わかっているんですよ。さあ、起きて!」
「いや。まだ夢の途中なの」
── わたしはあなたじゃなくて、夢の中のあの人に起こされたかったの! ──
「ハッピーエンドになるまで、絶対に起きない」
ニーナは怒りを抑えるようぐっとひと呼吸おき、押し殺した低い調子でゆっくり言い放った。
「チェスの結果はどうであれ、パーティーは予定どおり開かれるんです。すぐにお支度を」
遅めの昼食会も兼ねた午後のティー・パーティー。
負け戦を演じたペルル・アルジャンテは出席しないに決まってる。むろん、お父さまも。姉たちは当てにならない。となると、招待客を放ってはおけない……か。自身の役目を思い知らされ、マドレーヌはしぶしぶ起き上がった。
手を貸そうとしたニーナの指の傷が目に入る。
「大変! 血が出てる」
髪型も乱れに乱れていた。
「それに何だかボロボロって感じ。どうしたの? 大丈夫?」
「あなたの仕業じゃないのですか?」
という言葉を、ニーナ・カットはやっとの思いでのみ込んだ。
カイザー・ゼンメル城を一望できる小高い丘で、待機させてあったオイゼビウスと合流すると、王子は一気に丘を駆け降り帰りのルート、つまり東の橋へと向かった。
※ ※ ※
── どうなるんだろう? ──
読書の手を、真秀はいったん休めた。
ジャンドゥヤ王子は主人公だから、死んだりはしないだろう。だけど、オイゼビウスもろとも橋から落ちたりしたら?
すぐ次のページをめくるのを、真秀はためらった。いい知れぬ不安がよぎる。どうしても、気になる……。
そして絶対にしてはいけないことをやってしまった。意地でもやるものか、と常に自分に言い聞かせていること。読書におけるタブー。
つまり、飛ばし読みをしたのだ。
数ページ先をちらりとのぞく。いきなり衝撃的な場面に出くわした。それは白いドレス姿で柩に横たわる、ぞっとするほど美しい少女の姿だった。
── マドレーヌ! 死 ──。
真秀は『お菓子な絵本』を、ばん! と閉じた。
「何? マドレーヌが死んじゃう?」
見てはいけないものを見てしまった。じゃあ、掘に落ちるのはマドレーヌなのか。そんな! ジャンドゥヤはどうなるんだ。あんなに彼女が大好きなのに。
それともやはり王子が落ちて、後を追ってマドレーヌも? ロメオとジュリエットみたいに?
「何とか……、何とかしないと」
状況を分析するんだ。真秀は目を閉じ、深呼吸して集中した。
落とし穴を仕掛ける三人の警備隊員の姿が浮かんでくる。ダックワーズ……。そうだ。彼なら! 彼は根っからのワルではなさそうだから、何とかできるかも知れない。
── 食べたお菓子は味方 ──。
真秀は〈警備隊員ダックワーズ〉と名の付くお菓子を捜し出し、慌てて包みを開いた。それがどんなにバカげたことであるか、もはや判断力を失っていた。
※ ※ ※
城の北側に位置する警備隊宿舎。休憩室で三人はこそこそと固まっていた。
「そろそろだろうな」
石弓の手入れをしながらサバイヨンがつぶやいた。
「ちょっと見てくる」
手にしていた本をテーブルに置いて、ダックワーズが立ち上がった。ページは最初からいっこうに進んでいなかった。
「そうか。犯人が犯行現場に戻るってのは、こんな心境なんだ」
ヌーガットが第三者的立場で犯罪心理を分析する。
「そしてオレたち三人とも御用ってわけか」
「黙って座ってろよ。出てったりしたら承知しないからな」
サバイヨンがすまして言う。無表情だが声には凄味が利いていた。
※ ※ ※
「行け! ダックワーズ。行くんだ」
真秀はクリームの挟まれたアーモンド風味のメレンゲ菓子を、さくさくかみしめながら絵本に向かって命令していた。
「きみだけが頼りだ!」
※ ※ ※
弾かれたようにイスを蹴飛ばし、ダックワーズは宿舎の出入り口へすっ飛んだ。
「おい、待て!」
ドアに突き刺さるクロスボウの威嚇射撃をものともせず、外へ出るや、すばやく錠を下ろし、現場へ向かう。
城の中を任務以外で通り抜けることも、どたどた駆け抜けるのも御法度であったが、この際、構ってなどいられなかった。
東の回廊にさしかかったところで、白馬に乗って丘のふもとを優雅に進んで行く王子の姿が目に入った。ダックワーズは窓から身を乗り出し、「王子殿!」
と叫ぶが、この距離では無理だった。
※ ※ ※
「ああダメだ。間に合わない」
ぼくがもっと早くダックワーズを食べとけば……。
── 何言ってるんだ? ──
でも、食べたお菓子は、確かに味方になった。
真秀は絵本を片手に登場人物のお菓子を食べ始めた頃を思い出してみた。
最初からそうだった。
寝ている王子に剣を突きつけたブレッター・タイク。それからロリポップ男爵。食べたとたんに態度がころっと変わったじゃないか。
極めつけは鷹のブラウニー。彼がスピードを緩めなかったら、王子は間違いなく死んでいただろう。
いやいや、と真秀は妄想を振り払った。
これは絵本の話で、味方になるのも決められていたことで、単なる偶然。ぼくが物語の進むのに合わせて食べてただけ。現実じゃない。
だけど意識はあちらに行ってたじゃないか。
さっきから……、いや、読み始めてからずっとそうだった。お菓子な世界を体験してた。
窓際のレースのカーテンがふわりと舞い上がり、真秀は一瞬、周りの空間が揺らいだような錯覚に陥った。が、それは風がそよいだにすぎなかった。
意識下で、空想と現実の境界線があいまいになりつつある。
そう。意識の問題なんだ。
真秀は自分に言い聞かせた。何とかして理屈を通さない限り、頭がおかしくなりそうだった。読書とはそういうものだ。キャラクターに感情移入しながら物語を自身の体験のように読むか、ただ傍観しながら何気なく読むかは、読者の意識次第なんだ。
── 冷静に、冷静に! ──
※ ※ ※
ジャンドゥヤは橋のたもとでいったん馬を止めると、憧れに満ちたまなざしをマドレーヌの窓辺に投げかけた。
今度はいつ会えるだろうか。
想いを振り切るように、王子はオイゼビウスを先へ進ませようと──
※ ※ ※
「ダメだ、ジャンドゥヤ! その橋は──」
身を乗り出し、叫んだ拍子に真秀はベッドから転げ落ちた。すぐあるはずの床は、どこにもなかった。
※ ※ ※
想いを振り切るように、王子がオイゼビウスを先へ進ませようとすると、いきなり誰かが叫びながら目の前に降ってきた。
「ダメだ、ジャンドゥヤ! その橋は──」
どすん! と橋の上に転がった瞬間、抜け落ちた床と共に彼は堀に落っこちた。
気がつくと真秀は水の中にいた。毒の入った水の中に。
── 毒。毒だから、この水は ──。
だから、目も口も開けちゃいけない。理屈でなく、本能がそう教えてくれた。
── とにかく水面に出るんだ! ──
腕を伸ばし、思い切り水を蹴って水面に顔を出す。口の中にわずかに入った水をプッと吐き出し、あえぎながら夢中で空気を吸い込んだ。
なんかもう、死にそうだ……。
うす目を開け、ぼんやりとした視界の中で岸を見分けると、真秀はどうにか泳いでそちらに向かった。体が岸に触れるやいなや、真秀は強い力で引っ張り上げられた。
ジャンドゥヤ王子だ!
── 王子は無事だ。良かった ──。
「王子、この橋は落とし穴になってるんです」
草の上に倒れ込んだままぜいぜいしながら、真秀は何とかしゃべることができた。
「わかっている。それはきみが身をもって証明してくれた」
王子は動じない様子で、あっけらかんと言う。
「しかし、いったいどこから降ってきた?」
── どこから? さあ、どこからだっけ ──。
真秀は混乱していた。ただ、伝えなければならないことはわかっていた。
「ここの水は毒入りなんですよ」
王子の顔色がさっと変わる。
「毒のあるところには解毒剤があるはずだ。近くに必ず」
辺りに目を光らせる。花だとか薬草だとか、何かあるはずだった。
「大丈夫。水は飲んでない。ただ……」
毒のせいか、目がちかちかしていた。
「ただ、顔を洗いたい」
「急いだほうがいい」
王子は真秀の手を引いて近場の噴水へ導くと、それっとばかりに彼を水の中に投げ込んだ。
「わあっ」
冷たいじゃないか! 乱暴だなあ、もうっ。
と真秀は思ったが、少し慣れると噴水の水は心地よく、生き返った感じがした。
「で、きみは落とし穴と知っていて、堀の水が毒入りと知っていて、わたしの身代わりになってくれたというわけかい?」
「まあ、そういうことでしょうかね」
白鳥型の口から湧き出る水で散々口をゆすぎながら、真秀はあいまいに答えた。
「ありがとう。助かったよ」
王子は真秀をじっと見つめた。優しさと信頼のこもった深いグリーンの瞳で。
「ジャンドゥヤ・ブラン。きみは?」
水から上がりながら、真秀は差し出された王子の片手をしっかりと握り返した。
「真秀。真秀シュヴァルツ」
「シュヴァルツ?」
「そう。シュヴァルツ……」
自分の名前を認識し、真秀はようやく正気を取り戻した。そして、パニックに陥った。
── どうしてここにいるんだ!? ──
古い衣装だんすが別世界の入口になっている物語。
自作のコンピューター・ゲームに取り込まれるプログラマーの話。
読んでいるうちにファンタジーの世界に引き込まれていく臆病な少年の物語。
数々のタイムスリップもの。主人公がひょんなことから異次元世界に入り込んでしまう、ありとあらゆる冒険物語が真秀の頭をかけめぐる。
ありえない。こんなこと、あるわけがない。これは、夢なんだろうか? 王子がいる。ジャンドゥヤ王子が、目の前に! だけど、違和感というものがまったくないのはどうしたことか。
「はくしゅん!」
真秀はずぶ濡れだった。
「風邪をひくぞ。どこかで着替えないと」
風邪ならとっくにひいてるんだけど……。
真秀は辺りを見回した。頭上に城がそびえている。その大きさに圧倒される。すごい。本物のお城だ。カイザー・ゼンメル城。城を囲む緑が、緑がまぶしい。気候は……、初夏といったところだろうか。体が濡れていても、死ぬほどじゃないが、やっぱりちょっと寒いかな。
「とにかく、ここを出よう」
二人は東橋から正門へ通じる道を避けて、一番近いルートで城の外を目指した。
茂みに隠れ、なりゆきを見守っていたダックワーズは、背後から肩をつかまれ飛び上がった。
「王子はどうなった?」
「帰ってったよ」
「きさま、まさか裏切ったんじゃ……」
サバイヨンはダックワーズの胸ぐらをつかんで茂みから引きずり出した。
「何もしてない。ただ、どっからかいきなり助っ人が降ってきて、王子の身代わりになって落ちたんだ!」
14.「安らかに眠りたけれど」に 続く……
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