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「微笑みの額縁」 ③ (終)

「微笑みの額縁」③(終)



──  今度こそ、彼と話さなきゃ ──。

 アトリエを飛び出し、廊下を駆け抜け、容赦なく大広間へと踏み込んだ。

 またしても、誰もいない。

 ベーゼンドルファーの蓋も閉まったまま。でも、ピアノの音は聞こえてる。どうして?
 ラジオ? CD? それとも近所の家から? 
 中庭へ抜けながら、幼い頃の記憶をたどってみた。この近くにわたしと同じ年頃の、ピアノを弾く少年がいただろうか? 

 いえ、知らない。でも、音はまだ続いてる。曲が終わらないうちに、音の出どころを見つけないと。でないと、もう永遠に秘密は明かされないかも知れない。永遠に、彼に会えないかも知れない。
 目を閉じて、集中する。
 外からではない。確かにこの家の中から聞こえてくる。でも、うちのピアノではない。広間に戻り、鏡の前を通り過ぎようとして気づいた。

── 何かが違う? ──

 恐る恐る、わたしは鏡に向き合った。
 音楽は鏡の中から聞こえていた。
 そして、鏡の中のグランドピアノの蓋は開いていた。
 彼が〈ミニヨン〉を弾いている。黄昏の薄明かりの中で! 


 ミニヨンがツィターを鳴らしながら歌う、遙かな世界への想いが胸に込み上げてくる。

── ただ『憧れ』を知る方だけが、わたしの哀しみを知ることでしょう ──。

 彼は永遠に手の届かない世界の人だった。

 鏡にそっと手を触れてみる。それから頬をつけて泣いた。なんてこと。彼は鏡の中の住人。幻想の世界の人だった。

 音楽は終わり、彼は幸福そうなため息をついてから静かに立ち上り、ピアノの蓋に手をかけた。

「待って、やめないで!」

 寄りかかっていた鏡の感触がなくなり、そのまま前のめりに倒れてしまった。壁の中に入るように倒れたはずなのに、なぜか鏡にはじき飛ばされたように、広間の中に横向きに転がっていた。

「びっくりした。大丈夫?」

 そのドイツ語は間違いなく彼の口から発せられたものだった。顔をあげるまでもなく、そうと確信した。
 いえ、そう思いたかった。そんな風に信じれば、夢が現実になる。だけど少しでも疑ったら、すべてが消えてしまう。
 彼が、昨日のように、ここに来てくれた。つかの間でもいい。幻想でも夢でもいい。今はただひたすら、話がしたい。

 彼は紳士らしく、わたしの手をとって助け起こしてくれた。大きくて優しい、温かな手。
 ただにっこりと微笑むしか、わたしにはできなかった。彼がここにいる。それだけで、こんなに幸せ。

「まいったな」彼はドイツ語で照れくさそうにつぶやいてから、
「少なくともコンクールの間は、きみに聞かせたくなかったなあ。ぼくの素人ピアノは」と、英語に切り替えて言った。

 英語なら、割合わたしも話せる。

「あなたのピアノ、とっても素敵よ。昨日の、夢みたいな〈第五変奏〉だって」

 ようやく言ってから、思った。

── コンクールって? ──

「あの後、姿が見えなかったから、気に入らなかったのかと」

「まさか。あんまり素敵で涙が出ちゃったわ。今の〈ミニヨン〉もだけど」

「今日はシューマンの記念すべき誕生日だよね。今からちょうど150年前の。夕べ、どこからか、この曲が聞こえてきたんだ。で、思い出したってわけ。ぼくもこの曲が好きだったことを。誕生日の贈りものに、ふさわしい曲かなと」

「シューマンは今年、生誕200年のはずだけど?」
 という言葉をわたしは呑み込んだ。

 何かおかしい? 

 わたしはそっと周囲を見渡した。
 何かが違う?
 そうだ。カーテンが違う。それにピアノの脇に掛けてあるのは、祖母の肖像画でなく、どこかの風景画。ソファの位置も形も違う。マントルピースの置物や写真の数々も。

 彼がこちらに来たのではなく、わたしが彼の世界に来てしまったというの!? 

 でも、彼はわたしを知ってる口ぶり。
 コンクールって?

「わたし、わたしは誰なの!?」

「おかしなことを言う人だねえ」彼は笑った。
「きみは……」それから優しい表情で続けた。
「きみは東洋から来た、微笑みの天使」

「じゃあ、あなたは? あなたは誰なの?」

「きみに出会って、自分が誰だかやっとわかった気がする」
 真面目な顔で彼は言った。
「シュテファン・ハイデンベルク。画家の卵。きみの音楽の世界を描いてゆく者さ」

 ハイデンベルク! 
 この家名を受け継ぐ人が居たんだ! 
 彼はここの人? 親戚の誰か? 

 いえ、何言ってるの! 
 シュテファン・ハイデンベルクって……。

 彼の瞳をじっと見つめる。懐かしく、温かい、その茶色い瞳。

 オーパ?

 ドイツ語がよくわからないわたしに、オーパは英語で話しかけてくれた。
 オーパのピアノは絵と同じ、温かい、虹色の輝き。
 ふしぎな物語とともに、弾いていたのは静かで優しい曲ばかり。
 シューマンの〈ミニヨン〉も、そう。  
 だからわたしもこの曲が大好きで、いつか弾きたいと……。

 まさかここは、鏡の中の幻想世界じゃなくて、過去の世界? 

 ああなんてこと。
 涙が流れ落ちてしまう。自分の祖父に恋してたなんて。
 恋? 
 きっと恋じゃなかったんだ。
 きっと懐かしかっただけ。
 無理矢理、自分に言い聞かせる。

「泣かないで」彼はわたしの頬の涙を拭おうと、そっと手を差し伸べてから、ためらい、ポケットからハンカチを出して渡してくれた。

 わたしは余計に泣いてしまった。さめざめと。懐かしさと、とまどいと。二度と会えないと思っていた祖父に、こんな形で会えるなんて! 

「泣かないで、ユイ」その間、彼は必死に慰めてくれていた。わたしはユイなんて名じゃないのに。
「きみの笑顔は世界一素敵なんだから。審査員がどう評価しようと、きみの音楽は本物なんだから」

 ああそうか。ユイはオーマの名。
 かつてコンクールを受けに、ここに来たのも、オーマ。そう、今から──わたしの時間から──50年も前のこと。わたしを祖母と勘違いしてる。それが妥当な線だ。

「ただ、きみのその微笑みを、これからはピアノにも向けてあげればいいんだよ」
 辛抱強く、そしてすごく優しげな調子で、彼は続けた。
「もっとリラックスして。ウィーンの人たちは怖くないんだから。心の笑顔も絶やさなければ、きっと、もっと音楽に深みが増すと思うよ」

 もともと似ていると言われてた。そのうえ、日本人で、言葉がろくにしゃべれず、背格好も、髪型も同じ。おまけにこのリボンも、昨日のスカートも、祖母のものだったとしたら。それに、この黄昏の薄暗い中。

 だったら、今のセリフ、そのままオーマに伝えなきゃいけない言葉だ。今、ここに、コンクールを受けに来ているはずの。

 ここに残れば、そしたらわたしもオーマにも会える? 

 たとえ現実の時代に帰れなくなる危険を犯しても、会いたい。でも、そうしたらわたしが二人になってしまう? というより、祖母が二人に? 

 それにここにいたら、目の前の、この人への想いを断ち切ることができなくなるかも知れない。今の言葉はわたしでなく、オーマへの愛の告白なんだから。わたしがいたら、過去が変わってしまう。どころか、未来までも。

 帰らなきゃ、元の世界に。一刻も早く! 

 ハンカチを返しながら、わたしは彼の手を、愛を込めて両手で握り締めた。そうせずにはいられなかった。そして勇気を振り絞って、言った。

「今あなたが話してくれたこと、もう一度、同じことを言って欲しいの。次にわたしに会った時に」

 彼は妙な顔をしたけれど、優しく微笑んでうなずいてくれた。「わかった」

「もう一度、〈ミニヨン〉を聴かせて」

 わたしはそっと彼から手を離した。もう二度と会えない。

「少し暗いままだけど、いい?」
 彼はピアノに向き合いながら言った。
「現実と、幻想の境目。何かふしぎなことが起こりそうな黄昏時の、陽の名残りのほの暗い中で弾くのが好きなんだ」

 わたしは静かにピアノから離れ、後退りしつつ鏡に近づいていった。彼の姿が涙でゆらぐ。
 そして鏡には、鏡の反対側には、彼の姿は映っていなかった。
 そこが現実の世界。わたしにとっての。
 わたしは鏡に手を触れ──実際に触れることはできなかった。感触がなかったから──、そのまますっと額の中に入り込んだ。

── 元の世界に ──。



 失恋のショック。懐かしさと哀しさと、そしてとてつもない寂しさ。とまどいと混乱。一晩中ベッドで泣き明かし、明け方になる頃、どうにかまどろみの世界へと入り込んだ。

 オーマの歌ってくれる子守唄。
 温かくて優しい響き。
 オーマ? 眠りにつくまで、ずっと手を握っててね。
 オーマの手作りクッキーの、なんて幸せな味。
 幼い頃の思い出の中、オーパもオーマもいつも優しく微笑んで……。

「もう大学生なんだから、迎えに来なくても大丈夫」と言っておいたのに、空港に、懐かしい二人の笑顔。
 慣れないフランスで一人頑張り続けた緊張が、いっきにほぐれた瞬間だったな。

 その夏も、いつものようにオーマにはピアノやウィーンの伝統料理を、
 オーパには絵だけでなく、チェスやダンスを教わり、郊外への小旅行に、親しい仲間とのささやかなパーティー。
 美術館巡りに、オペラ鑑賞。美味しいものも、たくさん。
 短い滞在期間に、ありったけの思い出を二人で創ってくれた。

 空港の搭乗口での祖父母の姿。何だか小さく見える。
 微笑みの中に、一抹の寂しさ? 
 そしてそれきり永遠の別れ。
 一生忘れられない、二人の優しくも、哀しそうな姿。


 涙で枕が濡れて、目が覚めた。
 わたしは泣いた。さめざめと。
 なんて幸せで、なんて哀しい夢なんでしょう。

 夢……? 

 いえ、ただの夢じゃない! これは思い出。
 あの別れが最期だった。あの夏、わたしはパリから日本に戻るのを変更して、ウィーンへ来たのだもの。二人の優しい笑顔にふれたくて。

 うそよ! オーマは一度だって笑わなかったじゃない。パリからは日本に直行したんだから。ピアノもろくに弾いてなかったし、叱られるのがオチ、と思ったから、ウィーンはパスしたんだもの。そして、二人には二度と会えなかったんだから! 

 いえ、違う。オーマはいつだって優しくて、微笑んでた。だからイジワルなBFよりも二人に会いたくて……。

── 記憶が二重になっている? ──

 過去が変わってる? わたしは平行世界の狭間にいるの? 

 冷静にならなきゃ。身を横たえたまま、まずは深呼吸。ゆうべの記憶をたどってみる。

 現実世界の、この時間、この空間に戻った瞬間までも音楽は鳴り続けていた。鏡の額を抜けて、こちらの世界に倒れ込んだわたしは床に手をつきひざまずいた状態で、この音を一生忘れまい、と目を閉じ、心に刻み込んだ。
 曲が終わったらすべてが終わる。この時を止めることができたら! と、どんなに願ったことか。鏡を振り返る勇気はなかった。振り返ったら、そこに彼の姿が見えたら、再び過去への想いを断ち切れるか、自信がなかったから。

 そして音楽は静かに終わりを迎え、わたしの心は混乱と哀しみでぐるぐると渦を巻いた。

 ミシッ! 背後で鋭い音。鏡が割れた音。

 鏡自身の意思で? それともわたしが割ったの? わたしの心が? わたしの想いが? あまりの哀しさに、ミニヨンの心臓が止まってしまった時のように? 

 何も見なかったことにして、そのまま寝室に駆け込みたかったけれど、理性が自分をその場に押し留めた。ひびが入っただけなら、テープで応急措置をと思いきや、少し触れた途端に大きな破片が崩れ落ちてきてしまった。もし、クララ伯母か誰かが来たら、怪我をしてしまう。
 額縁からすべてのガラスを取り除き、ほうきとちりとりで、床に散らばったガラスの破片をしっかり片づけ、掃除機もかけて、仕上げは自分の手で破片が残ってないか確認した。

 魔法の額縁は屋根裏部屋に何とか運んで、元どおり白い布をかぶせ、衣装だんす裏に封印。

── いつか必要な時がくるまで ──。

 それから靴と服を脱ぎ捨て、ようやくベッドに倒れ込んで、思う存分泣いた。

 そこまで思い出して、自分の身体がぽかぽかしてくるのに気づいた。細胞レベルで活性化されてゆく感じ。でも、いつもと違う。細胞の、ひとつひとつが愛と喜びで満たされてゆく感じ。自分自身が内部から生まれ変わっていくみたい。

 何か、とてつもない変化が起きている? 

 わたしがほんの少しの間、過去を訪れたことで、若かりし頃の祖父と会話をしたことで、未来が、今のこの現実に変化が? わたし自身が、変わってきている? 

 記憶が……。どうしたらいいの? 

 パリから日本に帰ったわたし。

 パリからウィーンに来た思い出。

 どちらかの記憶を選択しなきゃならないとしたら? 


 白々と、夜が明けてくる気配。わたしは決断を下し、身を起こしてガウンを羽織った。

 おはよう。新しい朝。新しいわたし。

 邸内はまだ薄暗いけれど、壁や天井が、窓からの世界が、ゆったりと呼吸を始めたかのように、きらめいて見える。
 人生の新たな第一歩を踏み出すかのように、静かに、ゆっくり、ゆっくりと階段を降り、広間に入る。なんら変わりない様子なのに、すべてが新鮮にみえる。屋敷全体が、生き生きと、自ら輝いている。

 わたしがここを守ってゆこう。ハイデンベルク家の、この館に住むにふさわしい人間を目指して。

 決断するには勇気が必要だった。どちらの過去を選ぶかは、自分で決める。わたしが決める。その鍵が、ここにある。

 ベーゼンドルファーに手を置き、唇をかみしめる。確かめなくても答えはわかっていた。この空間が温かな愛に満たされているから。
 あふれそうになる涙をこらえ、わたしは壁の肖像画を見上げた。ありったけの笑顔を返しながら。

── オーマ、オーパ、ありがとう ──。

 涙でかすんでしまう。祖母の優しい微笑みが!




 Ende




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