「お菓子な絵本」 5.王子ジャンドゥヤ
5. 王子ジャンドゥヤ
「あーっ! もうっ、何てこと!」
マドレーヌは悲鳴をあげた。
「あと少しだったのに!マスクを外すとこだったのに!」
高い天井から下がる重厚なカーテンが次々と開かれ、部屋中がまばゆい光と、すがすがしくも楽しい朝の音楽で満たされていく。光の音楽、噴水のさざめき、風と緑の木々の重奏、庭園の花々の可憐な歌声。
「今日は絶好の狩り日和ですよ」
マドレーヌはベッドにうつ伏せたまま動こうとしなかった。
「もう一度、寝る」
完全に機嫌が悪かった。
マドレーヌの世話役ニーナ・カットは容赦せずブランケットを引きはがす。20代前半といえども、数年来マドレーヌ嬢に仕えているベテランの身。やり方は充分心得ていた。
「やめてよ、ニーナったら。わたしは今すぐ、夢の世界に戻らなきゃならないんだから」
「また黒すぐりの夢ですか? 黒すぐり、黒すぐり。今や世間は謎の黒騎士のことで、もちきりですのね」
「その謎の騎士の素顔が、まさに見られるとこだったのよ。起こされさえしなければ」
怒りを押し潰したマドレーヌの声。対するニーナは主人に背を向けブランケットをたたみながら、呆れた表情を浮かべていた。
「ああ、せめて髪の色だけでも知りたかったな。せっかく帽子をとったのに見そこなっちゃったじゃない。瞳の色だって」
「そのようなことは、今日のところはお忘れにならないと。さあ、身仕度なさいませ」
マドレーヌは半分身を起こし、おせっかいな世話役をにらみ据えた。
「さっき、狩りって言った?」
「ええ。ジャンドゥヤさまがお見えになるそうですよ」
とたんに、目が覚めた。ジャンドゥヤ。彼が来るのね。
黒すぐりは思いきり伸びをしながら帽子を放り投げた。マスクを外し、黒の衣装に映える鮮やかな金色の髪をかきあげる。きりりとした口元と、森の緑を映し出す澄んだ瞳が気品を感じさせる素顔であったが、大あくびとともに現れたのは少年らしいあどけなさ。
草の上にばったり横になると、川のせせらぎも小鳥の朝のあいさつも、もはや子守唄でしかなかった。
わずかな間、黒すぐりはぐっすり眠り込んだ。背後からのかすかな気配に感づくまでは。
息を殺して忍び寄る人影の手には短剣が光っている。黒すぐりは目を閉じて横たわっているものの、既に剣と盾とをしっかり握っていた。
※ ※ ※
服装からして、これは〈森の管理人ブレッター・タイク〉だな。真秀はドキドキしながら彼を口に放り込んだ。さくさくの、葉っぱ型のパイだった。
※ ※ ※
木の陰から男が飛び出し、黒すぐりに襲いかかる。ところが当の黒すぐりは武器を手にしつつも微動だにしない。鋭い刃先は寝ている黒すぐりの喉元でぴたりと止まった。
「ジャンドゥヤさま! どういうおつもりですか? これがわたしでなかったら命を落とすところですよ!」
森番風の身なりをした老人は剣をさやに収め、ぶんぶん怒り始めた。森の木々が、そうだそうだと葉を揺すって抗議に加勢する大合奏を伴いながら。
ああ、つかの間の安眠はいずこやら。黒すぐり=ジャンドゥヤ王子は背中を向けたまま眠そうな声でつぶやいた。
「ブレッター、きみだということくらい知っていたさ。第一、殺気がなかったぞ」
「殿下、わたくしも含めて誰に対しても油断は禁物ですぞ」
襲撃者=ブレッター・タイクは、そこで声をひそめた。
「少なくとも第三の人物の正体がわかるまでは」
「わかった、気をつける。ただ、今は死んでもいいから眠りたいんだ」
王子は片手で黒すぐりの帽子を探り当て、顔の上に覆い被せた。
「確かに……」
ブレッター・タイクは姿勢を正し、王子への敬意をあらわにした。
「確かに昨夜はロリポップ男爵相手に、たいそうなご活躍だったそうで」
「たいそう早耳なことで」
「ですが王子がお戻りにならないので、城ではもう大騒ぎですよ」
「で?」
「ですから、皆心配して大騒ぎに」
「でもって、何でまたこんな朝っぱらからわたしを捜し回るわけなのだ?」
あまりの眠さで、ジャンドゥヤの思考力はゼロに等しかった。
「お忘れですか? 本日はルドルフ公主催の狩りのご予定ですよ。マドレーヌさまの件を探る絶好の機会かと思われますが」
とたんに、目が覚めた。マドレーヌ……。
まさしくこの場所だった。彼女と初めて会ったのは。五年前の、明るい夏の昼下がり。
ジャンドゥヤはまぶしそうに、流れゆく川の輝きに目を向けた。
※ ※ ※
「ふうん、何やらロマンスの香りが漂ってきたぞ」
やっぱり王子が黒すぐりだったわけか。そして黒すぐり=ジャンドゥヤ王子とマドレーヌ嬢の間には何かあるんだ。眠気が吹き飛ぶほどに魅かれ合う何かが。
小さな貝の形の、ふわふわのマドレーヌ菓子を真秀はつついた。
マドレーヌには秘密がある。眠りつつ透視する能力も。それともこの物語そのものが、彼女の夢なんだろうか。
※ ※ ※
今にも事が起こりそうな気配だった。
早朝の木漏れ日が豊かにふりそそぐ森の入り口。ジャンドゥヤ王子の王室護衛隊と、カイザー・ゼンメル城警備隊の面々が、意味もなく火花を散らし、にらみ合っている。
その見えない火花に引火するかのごとく、パチパチとメロディーのない冷たいリズムが、そこかしこで機械的に刻まれている始末。
険悪なムードをあおっているのは、ぺルル・アルジャンテ。並み居る精鋭を蹴落とし、若干20歳ながら警備隊長の座についたエリートである。冷たい輝きを放つグレイの瞳、銀色の髪にバランスよく乗った制帽、しわひとつない制服、磨き上げられたブーツのつま先に至るまで、嫌みなほど見事にきまっている。
「いったい皆さん方は、どなたを護衛するおつもりですかな?」
辺りを見渡しながら、トレードマークの氷の微笑。
「ジャンドゥヤ王子は我々とは別のルートでこちらに向かっているのです。どうぞお構いなく、狩りを始めてはいかがですか」
王室護衛隊ケーニヒス・ベルガー隊長が答える。
王子が昨晩グラス・ロワイヤル城に戻らなかったことは伏せておこう、と彼は判断した。
ケーニヒス・ベルガー。〈王を救う者〉という名が示すとおり、親子二代にわたって王家に仕えるベテランである。王と女王が健在だった頃は、父親が隊長を務めていた。
「いえいえ、そんなわけには参りませぬ」
アルジャンテ警備隊長が皮肉っぽい口調で続ける。
「彼は主賓ですから」
ベルガーのほうも負けてはいなかった。
「ではお尋ねしますが、ルドルフ公こそどうなさったのです? 主催者は彼でしょうが」
「父はこのような場所には参りませんのよ」
先ほどから成りゆきを見守っていたマドレーヌが、ついに口をはさんだ。招待客に対する礼儀というものを、彼女は充分に心得ていた。城にこもりがちな父ルドルフや、おしゃれに余念がない姉たちに代わって、城外での外交活動は彼女の役まわりだった。
「もう高齢ですからね。城で宴会の準備を整えて、皆さまをお待ちしております」
肩からたすき掛けにしていた角笛を手にとって、一同の同意を得るようにうなずいた。
「さあ、そろそろ始めましょうか。いつ見えるとも知れぬ王子さまを、待つこともないでしょう」
「そうですな。あるいは、おじけづかれたのかも」
追い討ちをかけるアルジャンテ。
王室護衛隊のほぼ全員が、すかさず剣に手をかける。
主人がこけにされたとあっては、もはや我慢がならない。王子の名誉を守るためベルガー隊長は決闘覚悟で警備隊長に詰め寄り、
「今の言葉、取り消したまえ。さもなくば──」と、言おうとして、マドレーヌに先を越された。
「ペルルったら、ジャンドゥヤさまをライバル視するのもほどほどに。昨年のテニス試合でこてんぱんに負かされたからって、本人不在の悪口はフェアでなくてよ」
「いや、不在ではないよ」
陽気な声が響いたかと思うと、当のジャンドゥヤ王子がいきなり頭上の木から飛び降りてきた。
「こっこです、こっこです、ここにいます~♪」
※ ※ ※
緊迫感を打ち砕く、ジャンドゥヤのおバカな歌声。真秀は苦笑し、そしてはっとした。すっかり物語の世界に没頭してしまった……。
「なかなかいかすじゃんか、この王子。ひきかえアルジャンテってのは、嫌みな奴だね」
〈警備隊長ぺルル・アルジャンテ〉。やけに薄っぺらな包みの中から、銀色の小さな粒が真秀の手のひらに、ぱらりとこぼれ落ちた。
「アラザンだ」
フランス語だとぺルル・アルジャンテ(=銀色の玉)なんて洒落た名になるのか。クッキーやケーキのトッピングによく使われる、アラザン。そしてここでは、カイザー・ゼンメル城のお飾りってわけだ。
真秀はアラザン=ぺルル・アルジャンテを、星型パンの〈カイザー・ゼンメル城〉に乗せてみた。城主の、皇帝気取りの〈ルドルフ公〉とはどんな奴? じゃりっとしたアラザン独特の感触と、素朴なドイツパンをかみしめながら探してみたが、ルドルフという名のお菓子はどこにもなかった。
「何でだ? 実際には登場しないんだろうか?」
お次。〈王室護衛隊長ケーニヒス・ベルガー〉。深紅のマントをまとった、王室護衛隊というわりにはワイルドなイメージ。鋭い瞳の奥に懐の深さがにじむ、凹凸のある小さなマジパン菓子を味わってみる。王家に対する絶対的な忠誠心が伝わってくる感じ。
そして話題に出てきた〈グラス・ロワイヤル城〉ってのが、王子の本拠地なんだな。砂糖衣のかかった白亜の城が、真秀の心に鮮明に浮かび上がる。
だけど? これもお菓子になってない。変だな。どこかで見たはずなんだけど。王子の居城にふさわしい、えらくきれいな城を。
でも……、どこで見たんだっけ?
6. 「鷹は舞い降りた」に 続く……
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