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「白の Rondo」 ②
これまでの、アントン・ヴァイスの物語は……
往年の舞踏会の写真集に写っていた貴婦人アウレリアに一目惚れしたピアニストのアントンは、時空の重なる大観覧車を足がかりに、彼女を追って百年前のウィーンにタイムトリップ。
何故かアントンは19世紀末のその時代にとけ込んでいるようで、皆が当然のごとく彼を知っていた。しかもアウレリアの恋人として!?
しかし一足違いで彼女は亡くなってしまう。
アウレリアの実家で絶望の一夜を過ごすうち、アントンは、何としてでも状況を変えて見せようと決意を固めるのだった。
「白の Rondo」②
「アントン!」
幼い少年が抱きついてきた。
これまた予期せぬ登場人物。今度は誰だ?
少年はアントンの膝の上でしくしくとひとしきり泣いてから、フリューリング男爵婦人に──つまりアウレリアの母親に──手を引かれて棺のそばに行き、アウレリアの安らかに眠る姿を見るや、今度は悲痛な大声で泣き伏した。
少年の悲しみが我が胸の痛みと重なり、アントンも再び涙が止まらなくなる。朝になって母親の死を知らされたのだろう。胸が潰れてしまいそうだ。どんな言葉も励ましも、慰めにはなるまい。
ん? 母親? 彼女に息子がいたのか?
はたと、アントンは気づいた。そもそもアウレリアは独身ではなかったか? 自分がそう思い込んで、のぼせ上がっていただけで、実は人妻だったとか?
それとも歳の離れた弟なのか。年齢はおそらく6、7歳。婦人は「トニー」と呼んでいる。英語風の愛称、ということは異国の血が混じっているのか。ぼくと同じ、茶色がかった少々くせっ毛のブロンドにグリーンの瞳は、彼女たち、フリューリング家の血筋ではなさそうに見えるが。
婦人がそっと目配せして出ていったので、暗黙の了解で青年が少年の面倒を引き受けることに。子どもになら話を聞き出しやすかろう。心を落ち着かせる為に、庭園に散歩に連れ出してやる。
どこか懐かしいここフリューリング邸。あちらの木陰にも、こちらの花壇にも、そこかしこにアウレリアの可憐な姿が佇んでいるように見えてしまう。ないはずの、この時代での記憶がよみがえってくるようだ。
「ねえ、トニー、本当の名前は何だっけ」
何でそんなことを聞くのさと文句を言いながら、少年は自分はアンソニー・ホワイトだと名乗った。思い切り英語圏の名前ではないか。
「お父さんが英国人なの?」
少々どきどきしながら、アントンは続きを尋ねた。「そう、産みの父親は英国人だって。でもぼく、オーストリアンのつもりだけどね」
「お母さんが、この国の人なんだね?」慎重に問いかける。
少年は頷いた。
「でもぼく、覚えてないんだ」
記憶を辿ろうと、指先で頭を抑えてみせる。
「きれいな、ふしぎな歌。でも、……消えちゃった」
つまり、きれいな声でふしぎな歌を歌ってくれていた産みのお母さんは、いなくなってしまったと。
アントンは思わず涙ぐんだ。胸が締めつけられる。施設育ちの自分にもそういう母がいたはずだ。しかし自分には何の記憶も残されてはいなかった。
「でも、今のぼくのお父様はフリューリング男爵だし、お母様はフリューリング婦人だよ」
そしてアウレリアは、もうじき自分のママになるはずだったと言う。らちがあかない。挙げ句、
「アントンは、ぼくのパパになるんだからね」
「パ、パパ !?」
まったくわけがわからない。辛抱強く、アントンは今の時代に置ける自分が、果たしてどういった存在なのかを探り出そうと試みた。
「ぼくたちが初めて会った時のこと、覚えてるかな?」
「『音色のすっごくきれいな、素敵なピアニストを見つけた!』ってアウレリアが。えっと、クリスマスの頃」
ようやく状況がつかめてきた。要するに、アントン・ヴァイス青年は半年ほど前にトニーの音楽教師として、ここフリューリング家に招かれた新進ピアニストで、アウレリアと身分違いの恋を貫き、近々結婚して身よりのないトニーを養子として引き取ろうと計画していたらしい。
ぼくたちがそんなことまで考えていたとは。アントンは感激に目を潤ませた。そして彼女の忘れ形見であるかの存在の、この少年を心から愛しく思うのだった。彼のために、自分はこの時代に遣わされたのだろうかと。父親になるのか!
「名前はどうなるかなあ」
トニー少年は自分の将来に思いを馳せた。
「ホワイトのままでもヴァイスでも、ぼく、どっちでもいいよ。同じだもの。どっちも『白』だしね!」
教会では式の準備が整っていた。
純白のウエディングドレスに身を包んだ花嫁は、幸せに頬を染め、胸をときめかせていた。
参列のお客さま方は、皆、親しい馴染みの人ばかり。まあ! 本当に懐かしい方たちも! でも、どうしてみんな黒い服なのかしら?
トニーはなんて素晴らしい声、それにアントンの音色は、まるで夢のように響くのね。
あ、彼は……。花嫁は顔を曇らせた。
やはり来てしまったのね。危ない。彼を止めないと。
トニー、気をつけて、トニー!
アントン、彼の手を離さないで。
待って、みんな。花を投げるのは、まだ早いわ。痛い……。投げるのは花だけにして。どうして? 茎を、どうして切って下さらないの?
それにみんな、そんなに泣かないで。お父さま、お母さま、どうか悲しまないで。だってわたし、こんなにも幸せなんですもの。
あら、わたしったら眠ってるの? このままじゃ、お花に埋もれちゃうじゃない。
待って、これは……
結婚式じゃ、なかったの? わたし、わたしは──
彼女は泣いて泣いて、泣きながら高く舞い上がり、そよぐ風に溶け込んでいった。
哀しみの葬儀は滞りなく行なわれ、トニー少年は世にも清らかな天使の歌声で別れの歌を歌い、アントンがピアノでおごそかに伴奏をつけた。
すべてが終わったところで、招かれざる客が現れた。
「アンソニー。迎えに来たよ」
精悍なその出で立ちは、ハプスブルクに仕える一介の軍人と見受けられたが、その姿にトニーは動揺し、アントンにぎゅっと身を寄せてきた。
「父さんと一緒に帰るんだ」
── 例の英国人か? ──
アントンは少年をかばって、きつい表情で立ちはだかった。
「どうか、お引き取りを。今はわたしが彼の父親代わりなんです」
男はアントンをにらみつけた。
「きみたちはまだ結婚してなかったはずだが」
「ミヒャエル」
フリューリング男爵が割って入り、落ち着いた、かなり威圧的な口調で言い放つ。
「事情聴取をどう逃れたかは知らんが、あとは時間の問題だぞ」
──こいつが犯人か! ──
一歩踏み出すアントンを静かに制し、男爵は軍人仲間である屈強な友人らに目配せをし、男を連れ去らせた。
男爵の説明によると、ミヒャエルという名のその男は、アウレリアの元夫であった。
「夫?」
アウレリアはやはり結婚していたのか。アントンはこんがらがった思考を整理しようと努めた。
「トニーの父親は、英国人ではなかったんですか」
ミヒャエルというドイツ語名からしても、彼が英国紳士とは思えなかった。
「聞いてなかったのか?」
男爵は不審の目でアントンを見た。
しまったと思い、アントンはショックで記憶が混乱してしまって……、と言い訳した。
「ミヒャエルはうちを出ていった後、別な女性と再婚したのだよ」
その女性も二度目の結婚で、彼女の連れ子、つまり彼女の前夫である英国人ホワイト氏との子どもが、アンソニーなのであった。
「じゃあ、あのミヒャエルとは血はつながってないのですね。母親はどうなったんです?」
行方不明。ここにも犯罪の香りあり。
「この事件も迷宮入りになったら、どうすべきか」
犯人の手がかりさえ掴めれば、事態を変えられるかも。未然に防げるかも知れない。アントンは思考を巡らせた。アウレリアを救うことだって──、
「いずれは当局が手を下すさ」
どこか遠くを見つめ、男爵はぽそりと言った。
そしてドナウに謎の死体が浮かぶのか。
貴族の、退役軍人の、そして一人娘の父親としての、プライドと底知れぬ傲慢さ。アントンはぞっとした。自らの手は血に染めずとも、復讐は確実に果たす。そうしたことが、まかり通る時代に来てしまったか。
すっかり憔悴している様子の男爵夫妻に代わり、アントンは他の客人たちの相手をしながら──記憶は常に失われたふりをして──、様々な情報を聞き出した。
アウレリアは若い頃、学生時代からのつき合いであったミヒャエルと結婚したものの、一年足らずで離婚する。決定的な理由は彼が動物虐待、飼い犬を平気で蹴飛ばし、馬にも容赦なく鞭を当てる非情な態度にアウレリアが耐えられなかったことによる。
彼は離婚を承諾しなかったが、当人が反体制の不穏分子とつき合い、ハプスブルク帝国への反逆を企てていた疑いと、当時帝国を震撼させたルドルフ皇太子の心中事件に関与した疑いから当局に拘束されたのを機に、離婚は成立された。
やがてミヒャエルは後妻を迎えるが、彼女もまた愛想をつかしたか、自身の連れ子であったアンソニーを残して出て行ってしまう。
しかし真偽のほどは謎であった。これほどまでに愛らしく善良な息子を母親が置き去りにするだろうか?
結局、犯罪の痕跡は見つからず、ほどなくしてミヒャエルは義理の息子を持て余し、前妻のアウレリアに押しつけてきた。
当時まだ3才であったトニーは、複雑な環境にもかかわらず大変純粋で素直で可愛らしく、アウレリアは喜んで彼を引き取り、フリューリング家で養うことになる。
しかし英国人の父親とオーストリア人の母親が行方知れずであるが為に、養子縁組みの手続きが滞っており、今に至っているのだと。
「馬車で送らせましょう」とのフリューリング夫妻の好意に、アントンは甘えることにした。実は自分がどこに住んでいるのか、まだ把握していなかったから。
トニーのことが気がかりだったが、まずは落ち着いて今後の身のふり方を考えねばならなかった。アウレリアの死すらも、まだ受け入れられないのだし、実際、受け入れる気もなかった。
馴染みとおぼしき馭者に頼み、途中、この時代でも仕事場であるカフェ〈星の冠 Stern Kranz 〉に寄ってもらう。
同僚に(血染めの)燕尾服は弁償すると詫びを入れ、当面の休職願い、といった所用をすませ、再び馬車に乗り込み、ドキドキしながらアントンは行く先を見守った。そして馬車が乗り付けた先は……、
いつもの4階建てのアパートではないか!
階段を5階分上り、持っていた鍵を半信半疑で差し込んでみる。鍵は合っていた。百年前の我が家に帰宅し、最愛なるベーゼンドルファー──まだ初々しかった──に挨拶する。
やっておくべきことがあった。カフェに預けてあった上着のポケットから「アントン・ヴァイス殿」と書かれた封筒を取り出す。
中にはユーロ紙幣。
現代の、つまり百数年後の〈星の冠〉の店長から、弦楽トリオの編曲代の前金として受け取ったばかりの金だった。
報酬を頂いたからには仕上げなくては。
アンティークの本棚は元の場所そのままに置かれていた。引出しが開かなかったのには理由があったのだ。
アントンは微笑んだ。あのかしこい店長なら、きっと見つけてくれるだろう。
アウレリアを取り戻す為に何ができるかはわからなかったが、どの時代、どの世界、どのような状況においても、自分には音楽があるというゆるぎない意識が、彼の精神をより強く支えていた。
③ に続く……