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[ブログ&漫画] オッサンの気づき 第42話 ~小さな命に気づいた!~


おまけ漫画です。

今思うと私は、幼児の頃から「小さな命」に敏感だった気がします。犬は私が生まれた頃からずっと家で飼っていましたし、昆虫や小動物も好きでしたし、蚊とかハエを殺すのも何だか嫌でした。普通に可哀そうなんですよね。それプラス、命が無い物にも命を感じるみたいなところがありました。3歳くらいの頃、お気に入りの猫ちゃんぬいぐるみを持っていたのですが、いつも抱えているのでだんだん垢で汚れてきたのです。すると母ちゃんが「新しいのを買ってあげるから、それもう捨てようか」と言ってくるわけです。でも嫌なんですよね。もう私はこの猫ちゃんに命を見出してしまっているのです。ずっと抱えていたら、もう命があるような気がしてしまうのです。ずっと抱えていたから中の綿も良い感じにグニャグニャになって、本当の生き物のようなやわらか感も出ていたのです。その後さすがに汚くなりすぎて母ちゃんが新しいのを買ってくれたのですが、なんかここで新しい新品の猫ちゃんをかわいがると、垢で汚れてるほうの猫ちゃんが悲しむ気がして、何とも言えない気分になっていました。なので、いまいち新しいほうはかわいがる気になれず、でも垢のほうはいつのまにか母ちゃんが捨てちゃってて、そこでもうぬいぐるみに興味が無くなったという流れがありました。たぶん4歳くらいの頃でした。

それプラス、「前後関係想像グセ」というものがありました。例えば父ちゃんはよく、私がお茶碗にごはんつぶを残すと「せっかくお百姓さんが作ってくれたんだから」と、全部つまんで食べなさいという意味の事を言っていました。すると私は「じゃあ食べるか~」となるだけでなく、リアルお百姓さんを想像して、彼らが私の苦手な肉体労働をしてくれた事によってこのごはんを食べれているんだなあ、ていうかお百姓さんの中には私のように理由もなく年中体がだるくて田植えとか超きついと思っている人もいるかもしれないなあ、かわいそうだなあ、彼らの苦痛を無駄にしてはいけないなあ、というふうに考えを発展させながら、ごはんつぶをつまんで食べていたのです。これはごはんつぶだけでなく、野菜なんかでもそうです。

そしてその後、何かのきっかけで、植物にも命があるっぽいぞと考えるようになるんですよね。たぶんドラえもん的な児童漫画での、植物が擬人化して喋るみたいな展開がきっかけだと思うんですが、確かに考えてみれば植物は伸びたり花が咲いたりする、つまり意思を持って動くので、命があるんだろうな、と考えが発展して、庭の雑草を抜くのも何だか嫌になりました。何でチューリップは大事にされるのにオオイヌノフグリとかは抜き殺されるのだろうか、ていうか「雑草」とか言って本名を無視されてひとくくりにされちゃうのはかわいそうではないか、という感じです。このへんが全部あわさって、お米や野菜にも命がもともとあったと考えるようになり、今でも食事の時はお皿をきれいに食べるのが好きですし、お店で注文する時も残さないように若干少な目を意識します。もちろん漫画に描いたような、他人の食事まで気にしすぎると頭が変になるので、描いたような内容はレアケースです。でも妻ちゃんが残しちゃった物は必ず全部かわりに食べます。

そしてこの前後関係想像グセ+命への敏感さの、48歳おじさんバージョンが、死へのとらわれというわけなのです。目の前の妻ちゃんや両親、犬猫たち、その他の人たちの死を連想してしまうという事ですね。漫画に描いたように、ここ10年でたくさんの死を経験しました。特に多かったのは、我々夫婦で経営するトリミングサロンのお客さんの犬猫でした。今回の漫画を描いている間にも2頭死んでしまいました。私たち夫婦のお店はそんなにお金儲け主義ではないので、余裕を持って彼らと遊んだりかわいがったりしながらトリミングをしています。つまりどの子にも愛着があるんですよね。お客さんとの心理的距離も近いです。なので、自分達が飼っているわけではなくても、結構悲しいです。妻ちゃんは毎回泣いちゃってます。そして今回の漫画には描ききれませんでしたが、飼っていた猫も2頭死んでしまいました。実家に住んでいた頃から飼っていたペテエちゃんと、

保護猫トッチ君です。

以前のブログや漫画に描いた妻ちゃんの父ちゃんも、一緒の家で暮らしていたような関係で、突然倒れて1年後に死んでしまうまで、介護をしながら日々弱っていくのを見ていました。友人二人は、一人は直前までメールしていたのに急死してしまいましたし、もう一人はALSという体が動かなくなる難病で、数年かけてじわじわ弱っていくのを見ていました。この10年、定期的に「あ~〇〇も死んじゃったかあ、悲しいなあ」と感じる出来事が続いていたんですよね。

https://note.com/yuki1192/n/n7d18c122d918?magazine_key=m0b7b30a5d458

また、命のない物にも命を感じるクセがあるので、地元の風景が変わっていくのも寂しいです。おばあちゃんに手をひかれて通っていた保育園はもうありません。これを書いている今日、保育園への通り道にあった大きな桑の木が、宅地開発で切られてしまっていたのを見ました。そこには毛虫がよくいて、その下を通る時はおばあちゃんとキャーキャー言いながら走って通っていた思い出があるんですよね。20代の頃、夜に飼い犬ダリちゃんを散歩させていた雑木林も全部無くなってしまいましたし、ダリちゃん自身も15年くらいまえに死んでしまいました。不良時代のたまり場だったバッティングセンターも去年閉業し、もう建物ごと無くなりました。当時の友達が住んでいた団地もありません。その多くは命の無い無機物ですが、私は友達や飼い猫が死んじゃった時と同質の悲しさを感じます。やっぱり私にとっては、あの猫ちゃんぬいぐるみと同じく、思い入れのある対象には命を感じてしまうんですよね。

たぶん私は愛着を持ちやすいんだと思います。漫画を描くのに使っている机はおばあちゃんが使っていた机ですし、小学校の頃に買ってもらった筆箱はボロボロになってバカにされても使い続けたという漫画も描きました。一番仲の良い友達(毒島くんのモデルになった友達)は、3歳くらいの頃人生で最初にできた友達ですし、妻ちゃんとは知り合った20年前と変わらずキャッキャ言いながら毎日過ごしています。その20年間妻ちゃんからもらったプレゼントやちょっとした物は全部、ラッピングの紙まで捨てずに保管してあります。愛着とは、見方を変えれば心の拠り所です。自分の一部です。なので前後関係想像グセで、この先愛着の対象、心の拠り所、自分の一部が一つ一つ無くなっていく事に言いようのない寂しさを感じます。やはり何もかもが、あの垢だらけの猫ちゃんぬいぐるみと同じように思えます。垢なんてまさに自分から出たもので、それと一体化した猫ちゃんという事ですもんね。

https://note.com/yuki1192/n/n93129eb89152?magazine_key=m0b7b30a5d458

そしてその寂しさへのとらわれを、新しい命によってなんとかできないかというふうに最近思っています。周りの人の死はみんなが経験するものです。でもまあみんながみんなそれにとらわれているわけではないですよね。多くの場合は何かしら新しい命が、それを乗り越えるきっかけになっているんじゃないかと思うのです。例えば、愛する夫/妻が死んじゃって悲しい状態でも子供がいれば、死んじゃった夫/妻のぶんもこの子と幸せになろう、もしくはまだ自身が若ければ、死んじゃった夫/妻のぶんも自分は生きよう、みたいに死へのとらわれから切り替えるきっかけが持てますよね。これは例えるなら、死に対して悲しく思っている状態を、おなかがぺこぺこの状態とします。死=失っている状態で、おなかぺこぺこも胃の中の食べ物が失われている状態です。そこで命、つまり食べ物が入ってくればぺこぺこ感は無くなるのではという事です。でも実際私は子供もいなければ歳もとりました。そこで私なりの「新しい命によってなんとか」が、小さな命を大切にする事なのです。例えるなら、おなかがぺこぺこの時に食べ物のかわりに糖分の多い飲み物を飲むと、血糖値が上がってぺこぺこ感が無くなるのと同じ事です。雑に言えば別の似た効果のある物でごまかすという事です。死へのとらわれとか関係なく、そもそも私は子供の頃から小さな命が好きですしね。

特にガーデニングは、「育てる」という要素があります。これはすごく自分が満たされるのを感じます。哺乳類は子育てをする生き物なので、「育てる」にポジティブな気持ちを持つ本能が備わっていると思うんです。親が子供にかわいいとかのポジティブな気持ちを持つのも、単純なビジュアル的なかわいさから来る気持ちよりも、「育てる」に基づいた未来への希望から来る気持ちのほうが大きいと思うんです。来年は七五三、その後は進学、そして将来はどういう職業に就き、どんな家庭を築くんだろうか…などです。私の場合、今の2月に種をまいて、来月には芽が出て、春になれば葉っぱが育っていもむしがやってきて、夏前にはモンシロチョウになる、そういう小さな命の未来を考える事が今の私のミニ希望になっています。花の少ない今の冬の時期も、休眠中の植物を眺めながら「あと二ヶ月もすればまた花が咲くんだな~」と毎日考えています。なので私は、1年で枯れてしまう花よりも、毎年咲く花、もしくは種ができて翌年も育てられる花を育てる事が多いです。以前、妻ちゃんが近所からひっこぬいてきてくれたチモフィラもその一つです。

https://note.com/yuki1192/n/nf849135e2217?magazine_key=m0b7b30a5d458

その一方、私はこの死へのとらわれをポジティブにとらえる事も多いです。よく言う事ですが、死を意識するおかげで今を大事にできるのです。いろいろな「今」がこの10年で私の周りから無くなってしまったので、「今」に対してのリアリティがすごく強くなったのです。なので妻ちゃんや動物やその他の生き物、植物には惜しみない愛情を注ぎます。週2回、仕事が休みの日には、ここ10年必ず妻ちゃんと飼い犬プーティンを連れて自然の多い場所へ小旅行に行きます。逆に自分の快楽的な部分に集中しすぎてしまうもの(ゲームとか)はほとんどしません。自分の閉じた世界に入ってしまうと、周りの存在との思い出が作れなくなってしまうからです。漫画のみ、自分の心を安定させるために描いています。実家には毎月、両親&弟が勢ぞろいして、今が人生で一番会話をして笑い合っています。こういう今の風景がいつか無くなってしまうと考えてしまうと本当に悲しいです。今を大事にし、愛情を持つからこそいつかの別れがより悲しくなってしまうというのもあるんですよね。でもこれはもう、あっちを立てればこっちは立たずで仕方の無い事ですね。世の中には完璧な状態は存在しないわけです。

https://note.com/yuki1192/n/n6ec164228321?magazine_key=m0b7b30a5d458

それに加えて、妻ちゃんとの関係には「育て直し」という要素があります。それによって妻ちゃんの命にはさらにリアリティを感じます。これは、毒親育ちの人は子供時代に子供らしくいられなかった→大人になってから子供を満喫する、という営みです。説明すると長くなるので、次回の漫画をこのテーマで描いています。何にしても、この10年で色々意識が変わりました。だからこういうブログや漫画を描くようになったわけですしね。それは私が元々持っていた資質が、環境によって強まったのだと思います。そしていつか最後に私が死んだ時、またみんなと再会できると信じるようにしています。

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