[ブログ] お祝いイラストをいただきました!🌞
先日、Twitterでフォロワーの福介さんからお祝いイラストをもらいました!
実にかわいいですね~😊嬉しいですね~😊福介さんは、漫画家デビューを目指す高校生です。なんとこのコンテストでも準グランプリに入賞しています。
そんな若い方がこのオッチャンの漫画をこんなに気に入ってくれるなんて、ビックリですよね。しかも見れば見るほど、私の今までの漫画をよく読んでくれている事に気づくんです。キャラクターそれぞれが、それぞれのエピソードにまつわるアイテムと一緒に描かれているんですよね。妻ちゃんとチモフィラだったり、おばあちゃんとふでばこだったり、母ちゃん&父ちゃんとパンだったり…。しかも右上の犬っぽいキャラは、ケルベロくんという私がKADOKAWAで原案デビューした時のキャラクターなんです。そこまで深掘りしてくれてるなんて、感無量ですよね。
現代において、漫画を含め全てのエンターテインメントは、基本的には消費される物です。自分も消費する側でした。例えば私の若い頃、1990~2000年代はカラオケブームだったので、多くのJPOPはカラオケで歌う用の存在でした。曲をちゃんと聴くというよりはカラオケでみんなの前で歌う題材として曲が存在していたような感じです。そして次々に新しい曲や歌手が現れ、耳触りの良いカラオケ向きの曲をリリースし、すぐ消費されて消えていきました。業界全体がそういうお金稼ぎのシステムを作っていた感がありました。でも、実際にそれを作っているアーティスト側はそれじゃ悲しいですよね。本当はその曲一つ一つにはリリースに至るまでの苦労や曲に対するこだわり、それこそ小さい頃からの夢も含まれていたはずです。言い換えれば私たちそれぞれと同じだけの命の重み、人生の重みがあったはずです。それが一瞬で消費されて、何年かしたら誰も覚えていないというサイクルが出来ていたのです。2010年代以降の、みんながスマホでネットを利用する時代になってからは、消費がさらに加速しました。例えばSNSでは毎日たくさんのエッセイ漫画が読めます。でもその多くは次の日には、場合によっては30分もすれば忘れられてしまいます。人間そのものですらそうです。誰かがへまをして炎上すると、色々な人がそれを叩きますが、1週間か1カ月もすれば忘れられているのです。誰か有名人が病気で亡くなってしまった時も、その時は「〇〇さんのご冥福をなんとかかんとか」とかのツイートがいっぱい投稿されますが、やっぱりしばらくしたら忘れられてしまいます。ファンはもちろん覚えていますが、それ以外の人達はそれこそ「あれ?△△ってもう死んじゃったんだっけ?あ、死んじゃったのは〇〇のほうだっけ?」みたいな事が多いですよね。エンターテインメントが消費されるだけではなく、その延長にある人間の人生すらも消費されるような流れが出来てしまっているんだと思います。もちろん私も同じです。現代においてネットに日常的につなぐ人の多くはそうだと思います。そしてそれは悲しいけど、新しい常識でもあるのです。
私は漫画を、自分を分析して客観視するために描いています。漫画にまとめる事で自分の悩みやルーツを深堀りし、それを自分の支えにするためです。そしてもう一つは、周りの愛おしい人達をこの世に残しておくために描いています。人間の死には肉体の死と記憶の死とがあって、それは例えばAさんの肉体が死んでしまっても誰かがAさんを覚えていればAさんの存在は消えていないという事です。普通は子供や孫がそれにあたります。なので私や父ちゃんがおばあちゃんの事を覚えているので、おばあちゃんはちゃんとこの世界に存在している、おばあちゃんの苦労だらけの人生はちゃんと存在している、無駄じゃなかったという事になるのです。でも私には子供がいません。すると私が死んでしまった後はおばあちゃんも両親も妻ちゃんも、みんな存在が消えてしまいます。それは今のこのかけがえのない毎日も消えてしまう事でもあります。あんなに愛すべき人たちが、存在していなかった事になってしまうのは悲しいです。だから漫画に描いて、物理的に残したり、読んだ人の記憶に残ることで存在をこの世にとどめておきたいのです。
そして、最初の福介さんにもらったお祝いイラストなのです。ちゃんとみんなの存在を、福介さんが心の中に残しておいてくれているのです。感激です。私にとっては単なる「絵が可愛くて嬉しい」だけじゃないんです。むしろ私自身、このイラストを見て思い出す事も多かったです。妻ちゃんとチモフィラの関係も、今もチモフィラは毎日お世話をしているのに、それがそもそもは妻ちゃんがどこかから引っこ抜いてきてくれた苗だった事をこのイラストで思い出しました。私自身日々を消費してしまっているので、こういうふうに他者との関係を通して日々を振り返れるのは、すごく貴重な事だと思うんです。
こんなふうに、人や自分自身を感動させる時、その根幹には愛が存在していると思っています。作品に対する愛、人に対する愛、そして世界に対する愛です。愛とは一体化の一種なので、福介さんの場合、創作する事への愛(Twitterを見ると、本当に楽しそうに漫画を描いています)が、他者の作品への愛にもつながり、自分自身や世界への愛、つまりは「いつか絶対漫画家になるぞ!」という強い気持ちにつながっているんだと思います。作品に対する愛は、↑↑のケルベロくんについての漫画で描いた、つるみさんと接した時にも思いました。どちらも同世代で、やっぱり二人とも、創作&作品への愛がすごく純粋なんですよね。そういう人達が作品を発表し続ける事で、大量生産大量消費の流れの中にキラっと光る何かを残し続けてくれるんだと思います。
私は今年47歳ですが、47年ぶんの人生のにごりが積み重なっているわけです。すごく単純化すれば、例えば17歳であれば、30年ぶんにごりが少なくて、それだけ澄んでいるわけです。47歳の場合、にごった水の中をゴシャゴシャやって昔から持っていた光るおはじきを探し出す作業が必要です。何なら見つけたところでおはじきももう汚れていたりするわけです。でもにごりが少なければシュっとおはじきを探して出せるんですよね。汚れている率も低いです。当然そういうおはじきの光は色々な人の心を動かすので、いつまでも大事にしてほしいなと思います。私自身、漫画を描く作業は、そのおはじきを探す作業でもあるのかもしれません。
ちなみに福介さんはなんと、お父さんが私と同い年でした!
親子二代で私の漫画を読んでくれたなんて嬉しすぎますね~。よく昔から活動しているバンドが「最近は昔からのファンに子供ができて、親子でライブに来てくれる」という感じになったりしていますが、まさにその感覚です。まだまだこの世には経験していない事がたくさんありますよね。それを教えてもらった気がします🌞
[おまけ]
創作と愛の関係は、ちょうど最近この漫画を一気読みして感じていた事でした。
創作愛にお金が絡むとおかしなことになりやすいですよね。なぜならお金とはシステム・理屈でカチっとした分野で、愛とは真逆の存在だからです。100円玉で必ず100円の物をキチっと買えるのがお金です。愛は人によってその価値が変わるフンワリしたものです。そして人間とは、フンワリした存在で、そのほうが自然だと思うのです。