倫理への違和感、優しさへの憧れ
矢口さん、押田さん
みなさん、無名な人の声みたいなのに良さを感じたり、興味があったりするんですね。僕はみなさんの文章を見ていて「観測」とそれは「いつの間にか失われている」という言葉が印象に残りました。これについて考えてみたいと思います。
「残る」コミュニケーション
現代において、僕らが言葉を出すところはSlackやTwitter(今はXか…w)などのテキストで表現されるオンライン空間が多くを占めています。押田さんや矢口さんとのコミュニケーションもほとんどがSlackですね。
さて、これらのコミュニケーションは記録として残ってしまいます。矢口さんの言う「いつの間にか失われるもの」ではない。無料版Slackは3ヶ月でログは消えますが、有料版なので、ずっと残っています。ちなみに僕は入社したタイミング(2021年1月)で2019年くらいからのSlackログをあさりまくって読みまくっていました。気持ち悪いですね。それによってなんとなく各人の性格とかテキストコミュニケーションの傾向を掴んでいました。まあその話はおいておいて。
「善」と肉声
Twitterのテキストが残ることによって起きている印象的な事象は、過去の発言を切り取って排除しようとするいわゆるキャンセルカルチャー的な動きです。僕はここに不快感を感じる。過去そのような発言をしていた人にではなく、過去の言動を取り出して責める行為に、です。
人間における善というのは時代によって変化するものだと思います。今から見たら1900年代の人なんてほとんど女性差別の塊みたいな男性が多く、もし発言がTwitterで残っていたら大バッシングされまくっているのではないでしょうか。ついこの間北野武の『ソナチネ』を観て、大変感動したのですが、でてくる女性に主体性というものがかなり薄く、男性についていく存在として表象されていて、「この映画を現代において"めちゃくちゃ好きです"と言ったら誰かに怒られそうだなあ」と思いました。でもぼくはめちゃくちゃ好きだったのですが。(「女性の主体性が薄かったこと」が好きだったわけではないです。)
テキストが残ることによって、それが多くの人に観測されることによって、僕らは言葉を倫理的なものにしなくてはいけない、と感じます。実はそこに息苦しさを感じることがあります。だからTwitterで色々書くのが苦手なのですが。まだ社内のSlackとかはいいです。こちらの文脈も伝わっているし、社内なら直接お話する機会もあるし。あ、でも人数増えて直接喋ってる人とかが減ってくると書きにくくなってくるなあ。社外コミュニティ的な場所でのSlackに入ったことはありますが、微妙に書きにくさは感じますね。
僕らが聞きたい、興味がある肉声というのはそんな、倫理的でなくてはならない、人に変なふうに思われたくない、みたいなことを考えずに、思ったことを率直に発話された言葉なのではないか、と思うことがあります。別に非倫理的な言葉を聞きたいわけではないのですが、やはり多くの人に観測されること、それが残ること、それが部分的に切り取られうることによる可能性によってその言葉は「肉声」ではなくなるのではないか。
肉声を阻む現代の構造
突然話が変わるのですが、僕は仕事をするときに顧客に価値提供をするときに誰かは顧客に接さず、誰かは顧客に接する、というタイプの分業がとても苦手です。全員が顧客に接して自分なりに価値提供する、という構造のほうが居心地がよい。
これを強く感じるのは、自分がWEBサイトのプロジェクトマネージャーと言う仕事をやっていたことが起因している。プロジェクトマネージャーだけが顧客の前にたち、つくってもらうエンジニアやデザイナーはプロジェクトマネージャーの言うことを聞くだけの存在になる、という構造になると、エンジニアやデザイナーはある種他者に指図されるだけの存在になります。そこにエンジニアやデザイナーの主体性は薄くなります。僕はエンジニアやデザイナーの肉声が聞きたい、それがかき消され、いつしか無のプロジェクトとなっていきます。
なので、いつからかぼくがプロジェクトマネージャーをやる際は全員が顧客と接せるようにミーティング設計するようになっていました。
誰かは顧客に接さず、誰かは顧客に接する、というタイプの分業を横割りの分業。全員が顧客に接して自分なりに価値提供する、というタイプの分業を縦割りの分業とここではします。
横割りの分業では顧客の声を間接的に聞く人が現れます。その人は顧客と接している人から報告書があがってくるのをもとめます。そしてその報告書をもとに計画をたて、顧客に接している人に落としたります。
僕はここに肉声というのものが消える構造があると思うのです。
優しさがある声、善なる声
「惻隠の心は仁の端なり」という言葉があります。「惻隠」はあるものを対象にして、哀れみと同情を示すことであり、人間はこうした心境をもつことによって、仁の道に入ることができる、ということを言っています。惻隠というのは直接人と接していてはじめて生まれるものです。「惻隠」の本質は「哀れみや同情」ではなく、人と接してはじめて人は「仁の道」に入れる、「優しくなれる」というところにあるのではないか。
ここまで書いていてわかってきました。肉声というのには「優しさ」があるのではないか。多くの人に届けられる前提の、倫理的であろう、という意思が込められた言葉を聞くと僕は大変な居心地の悪さを感じることがあります。息苦しいのです。
肉声は非倫理的なわけではない、でもその裏には倫理的であろう、善であろう、というよりは現実人と接していくなかで自然とわけでてきた「こうしたいなあ」という自分発信の感情がある。
アウトサイダーと肉声
ここで僕が陥りたくないところがまたあります。アウトサイダー、社会の端にいる人の声を拾う「べき」である。それを聞かない社会は悪である、という言い回しです。
例えば、昔の24時間テレビに感じていた違和感。障害者が頑張っているから感動する、募金しようという見せ方。なぜここに違和感を感じるのか。
アウトサイダーではない、という自己認識をもった人はアウトサイダーの言葉をみて涙を流す。その涙はなんなのか。それはアウトサイダーが頑張ってるから、ではないのではないか。
アウトサイダーはアウトサイダーであるからこそ、社会の既存の軸に対して合わせる生き方をできない、していないケースが多いのではないかと思います。だからこそ、自分が素直に「こうしたいなあ」という自分発信の感情で動かざるを得ない。
僕らがアウトサイダーのもがきや、観測されない声を聞いて涙を流すのはそこに社会の軸にあわせていない、社会的倫理に沿った動きを目的としていない、自分発信の素直さを感じ、そこに憧れをいだくからなのではないでしょうか。
そして、「自分はアウトサイダーではなく、誰かはアウトサイダーである」ということ自体へのおこがましさを感じることがあります。それを感じることはある種、自分は救う側の人間であり、相手は救われる人間である、という立場の差を生むからです。
ユマニチュードと倫理
「ユマニチュード」というケアの概念があります。ケアの現場において「なんでもやってあげる」のではなく、ケアされる人を人として見て、その人らしさ、尊厳を守りながら相互の関係性を築く、という考え方です。
僕らは一人の人であり、今は偶然ケアされる存在ではないかもしれないが、老いたときにケアされる側の人間に立つこともある。今でさえ、ケアされ、ケアしていることに自覚的でないだけで、常にケアの輪の中にいるのが僕らだと感じます。
そのなかで僕らは「倫理」でケアしている瞬間はないか?と常に考えてしまいます。
倫理でのケアは押し付けになり得ます。相手の主体性を消す行為になりうると感じます。相互に人として接して、お互いが「こうしたいなあ」と思ったことを言葉にしあったり、行為しあう。
そこには倫理ではなく、優しさがある。
つれづれなるままに書いてしまいましたが、要するに僕は人として人に接し、優しくありたいし、優しい世界がいいなあ、というだけみたいです。そして、それはこういう長い文章のやり取りでも生まれると感じます。また、「文学」というのもそのヒントになる概念と感じます。それはなぜか?というのは謎として一つ置いておきます。