ともに生きていくためのファシリテーション
矢口さん、押田さん
押田さんに問われたので僕の思うファシリテーションの考え方について書いてみます。
結論から言うと僕の中にはファシリテーションをするときの心得として
「他者を変えようなんて傲慢なこと考えるな」
「できることは何を感じているのかを出し合う場作りだけだ」
「何を感じているかの先陣は自分が切ろう」
という3つが根底にあると思います。
そしてそのファシリテーションという行為を「お互いをケアをしながらともに生きていく場をつくること、そこに参加すること」と捉えているようです。
なぜそういう考え方になったのか、以下に書いてみます。
『違国日記』という漫画を読んで思い起こした過去
最近『違国日記』という漫画を読んでバチバチに刺さってしまいました。両親が突然亡くなってしまった中学生の田汲朝と、亡き母の妹である小説家の高代槙生の共同生活を中心に描いた漫画です。
僕も高校2年生の5月、父親が亡くなりました。『違国日記』を読むことは僕の高校時代の体験を思い起こすことでした。
高校生で、親が亡くなると、少なくとも同学年にはこの事実が一瞬で広まります。葬儀が終わってから、ひどく学校に行きたくないと感じました。なぜかというと「悲劇の主人公」扱いをされたくないからです。
僕の場合、闘病生活も4年間と長かったため、正直心の準備はできていたし、本当に正直なことを言うと「やっと終わった」という「安堵感」、もはや「嬉しさ」に近い感情のほうが大きかったのです。むしろ人に闘病生活の事実を言えないで、4年間中学2年生から高校2年生まで過ごしていく時間のほうが辛かった。辛い、というよりどういう役割としてその場を生きていけばいいのかわからなかった。
自分の家庭での気持ちと学校での気持ちに折り合いが延々につけられず、僕は学校で言葉をほとんど発さない状態でした。言葉が出ていたとしてもそれは自分ではありませんでした。周りの状況に合わせた言葉を吐いているだけ。僕は4年間ほぼ精神的ひきこもりの状態でした。
「ひきこもり」というと部屋から出ないこと、家から出ないこと、という印象を持つかもしれませんが、僕の中では「精神的ひきこもり」という言葉がとてもしっくりきます。『「ひきこもり」経験の社会学』を読むと「ひきこもり」というのは自分のアイデンティティがよく分からなくなり、社会参加ができなくなることと捉えられることがわかります。僕は学校にいながら全く社会参加できていませんでした。
父が亡くなり、僕が言えなかった事実は少なくとも学校の人に伝わります。4年間ほぼ言葉を発していないため、友達はほとんどいませんでした。僕は4年間という膨大な文脈のなかで今、父が亡くなり「安堵感」を感じています。そんな自分の感情が誰にも伝わる気はしないし、学校で事実を知っている人たちとどう接していけばいいのかさっぱりわかりませんでした。
学校に行き、僕がここでもっとも、居心地がよい、と感じたのは「ただ一緒にいてくれる部活の仲間の存在」でした。「辛かったね」みたいな話も全くされずに、あまり仲良くもなかったのに、なぜかゲーセンに連れて行ってもらって、僕は少しずつ言葉を出すようになりました。自分を「悲劇の主人公」的な「辛さを感じている」人間としてのカテゴリーづけもせずに、ただ、人間として共にいてくれること。これによって僕は社会参加する際の自分の存在方法のようなものを学んでいきました。
他人の気持ちなんて究極的にはわからないし、もはや自分にもわからない
『違国日記』は名言だらけなのですが、最初の方にまずこの漫画に鷲掴みにされる言葉があります。
両親が突然亡くなった田汲朝は自分の気持がよくわからない、悲しいのか、それすらもよくわからない。そんなときに小説家の高代槙生がふと朝に言う言葉です。
僕が4年間精神的にひきこもっていた時間はずっとそんな感じでした。自分は今どういう気持なんだろう?をずっと1人で考え続けていました。ただ一つだけわかることは父が亡くなったあとにそんな、自分でもわからない複雑な感情を「辛かったね」などという一言で決めつけられたら僕はその人を絶対に信頼できない、と感じたことでした。
別に上のような非日常的な体験だけでなく、普段の日常においてもその人の感情はその人だけのものです。そう感じてしまう感情を悪いものと捉えて、それを変容させよう、それは発達課題だね、とかいう言葉でジャッジするのだけは僕は許せません。
だからこそ僕は
「他者を変えようなんて傲慢なこと考えるな」
「できることは何を感じているのかを出し合う場作りだけだ」
という価値観を強くもっているのだと思います。
自分の感情を出すとみんな感情を開いてくれる
僕にとって、自分すらわからない感情を言葉にしてみて、なんか表現しきれなくて、そこにだれかが共感するのか、違和感を持つのか、その人の感情を出してくれて、というやりとりがとても好きです。
普段、特に仕事の場だと、感情を出すような場面は多くありません。役割があり、その役割に適した言葉を人々は発します。そこに感情を持ち込むことは通常嫌がられるのかもしれません。でも僕はそこに仕事の進めづらさとかのヒントが眠っているような気がします。
仕事は感情をもった人間がやるし、届けられる仕事の価値も対象は人間です。その感情が嫌だ、と言っているなにかがあるとしたらそこは考えてみる価値があると思うのです。
多分これはきっかけとしてPMをずっとやっていることが起因していると思います。PMは期限を切って、みんなにやってもらわなきゃいけません。でもみんな期限は守れないのですね。なぜでしょうか。例えば、他の仕事が忙しくてこの仕事は優先順位下げてもいいかと思ってしまう。例えば、要件がざっくりしすぎて進めようと思ってもうまく進められなかった。例えば、やる意味がよくわからず、やらなくていいか、と思ってしまった。などなど。
僕は新卒で最初からPMだったので、管理職や上司としてのPMではなく、なにもわからない新卒で、役割としてのPM、もはや雑用係に近い存在だったので、まったくみんな期限は守ってくれないし、会議で僕が「こうしないと」と言っていることも殆ど聞いてくれませんでした。
ぼくの最初の成功体験は、期限があって、まずPMとしてスケジュールを引いてみて、エンジニアやデザイナーを呼び出して「あの、期限パツパツでもはやみんなこれ絶対ムリやろ、って思うと思うし、僕のタスクのところも無理だ、って気持ちなんですけど、一回あるべきで引いてみました」と言ってみたときです。
そうするとみんな「いやーこれは無理だね」と感情で色々言ってきます。でもそうやってみんなで「無理なスケジュール」というのを共有できると、「でも、そういう条件のなかでみんなでどうやる?」という問いにみんなで向き合えるようになりました。そうするとするするとスケジュールがみんなの声で引けてきます。「ここはちょっと頑張るよ」「ここ同時並行でいけるかも」
そこで「頑張る」と自分で宣言してたりするので僕は期限を執拗にリマインドしなくてもやってきます。週一回くらい思い出したりやってみての感情をシェアしあう場があればプロジェクトって回っちゃうな、と思いました。
そうやってずっとPMをやっている中で僕はいつの間にか
「何を感じているかの先陣は自分が切ろう」
というマインドでずっと仕事をしている状態になっていました。そっちのほうがお得だな、色々回るな、と思ったんですね。
ファシリテーションとケアの可能性
元々僕は上記でも言っている通り、PMとしてずっと仕事をしていたので、ファシリテーションというのはあくまでコトを実現するための手段でした。
最近成果物を作り上げたら終わりでもない、複雑かつ終わらない、正解があるのかもわからない課題に仕事で取り組む中で、ファシリテーションの出口にケアの可能性を感じ始めました。
僕は高校生の頃、自分の複雑な感情をそのまま受け止めてくれる場の存在にケアをされていました。僕らは飲み会で仕事の愚痴を言います。いわゆるできるビジネスマンは愚痴を言うな、みたいなことを言いますが僕は反対派です。愚痴言わないでなんで生きていられるんだ、くらいの気持ちです。めちゃくちゃポジティブすぎる人も(あくまで僕目線でいうと)役割に自分を埋め過ぎでは…ととても息苦しそうに見えてしまう。
「なんか辛いっすね」「めんどくさいなー」とかおしゃべりしながら、「でもみんな結構しんどいって思いながら生きていることがわかったし、じゃあ一緒になにができるか考えましょっか」となっていく。お互いの生きづらさ、しんどさをケアしあった上で、めんどくさいけど取り組むべきと社会から要請されていることに取り組んでいく。
僕はファシリテーションはお互いをケアをしながらともに生きていく場をつくること、そこに参加することと思っています。めちゃくちゃ正直言うと、それで事業とかの数字が伸びることを目指すとか成長していこう、とかはあんまりめんどくさい。それが「ともに生きていく」ために必要なものだなと腹落ちしたらやるけど、成長とか数字が伸びるとかは目的にはなり得ない。目的は「ともに生きていく」ことである。それがぼくのファシリテーション観かもしれません。