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「冴えている人」とはなにか、あるいは無名の人の語りについて


たしかに、我々は冴えない、無名の会社員3人です。そんな人たちの往復書簡などだれが読むのだろうか?目的地の見えない泥舟なのではないか?そんなことを思いながらみんな文章を書いているようです。私もその一人ではあります。しかし、どこか、私は「まあだれかしら酔狂な人が読むだろう」という謎の確信があります。ぼくはぶっちゃけ2-3人くらいの人がちょっとだけ「面白かった」と言ってもらえればとても満足するかもしれません。

ついこの間公開された映画『君たちはどう生きるか』の監督、宮崎駿は「若いこと、貧乏であること、無名であることは、創造的な仕事をする三つの条件だ」と毛沢東の言葉を引用してよくお話をするようです。もしかしたらこの3人は特別貧乏なわけでも若くもないかもしれないけど、無名であることのエネルギー、なぜかテーマもわからないのに文フリに出そうか、と言ってしまうくらいの文章をどこかに発表してみたいという気概がどこかしらある3人なのかもしれない、と思っています。

「読み始めたら、意外と読めちゃう」くらいのものをまず目指す

マーケティングファネルに考えたときに「偉大な文豪とかの書簡とかだったら読みたいなあ」というのは「プロモーション」「アクイジション」あたりの数をあげるためにユーザーに喚起していきたい感情です。しかし、今回の文学フリマ出品において、色々な無名の人の体験談を調べてみるとおそらく10冊売れれば御の字くらいのテンションでしょう。そう、この文学フリマにおいて、「プロモーション」→「アクイジション」で獲得すべき購買数は10にすぎません。

雑なマーケティングファネル

僕の体験だと、どんなにすごそうな作者でも全然おもしろくなくて読み始めてすぐに閉じてしまうような本もたまにあります。リテンションが弱いのです。せっかく捕まえた顧客が3ページ読んだもういいか、となってしまう本になってしまうのは悔しさを感じます。

そう、実はこの書簡集の目標は「総売上」をあげることではないのです。「LTV」をあげることなのです。いや、もはやLTVすらあげなくて僕らが面白がって文章書ければいいやろ、というツッコミは置いておいて。

うん、でも少なくとも僕は、繰り返しになりますが「なんか冴えない3人の会社員の往復書簡、ちょっと読んでみたいな」というめちゃくちゃ少数の人がふとページをめくったときに「まあ、もう読まなくていいか」となって、去ってしまう。そういう本にしてしまうのはとても悔しいのでなんとかそうならないものをつくりたい。

読めちゃうものとはなんだろうか

今日、『速水健朗×古市憲寿「1973年生まれと1985年生まれの対話──あなたから、社会はどんなふうに見えていましたか?」』というシラスの動画を観ました。

この回非常に面白くて速水健朗さんの新刊『1973年に生まれて: 団塊ジュニア世代の半世紀』の刊行記念イベントでありながら、後半は速水健朗さんの肉声とはどこにあるのか?というのを東浩紀さんと古市憲寿さんがとにかく問い詰めていくという内容になっています。

「美学があって、それに沿って発信される文章や言葉、というのは面白くない。というかそもそもそんな事前に設定される美学などというのは幻想的であり、とりあえずやりたくない気持ちもどこかにあるけど、やる。もちろんやりたいと感じて機会があるものもやっていく。そうして、やっていくうちにやったことを遡行的に振り返ったときに初めて美学というものはでてくるのだ」

こんな感じのことを東浩紀さんが言っていて、とても印象に残りました。また、肉声はどこにあるのか?と聞いているのはおそらく東浩紀さん、古市憲寿さんにとってはその肉声こそが観客がもとめていること、聞きたいことなのでは、という気持ちがあって聞いていたと思います。

たしかに後半少し「この本は売れないとやばい、人生のかなり岐路にある」とかぶっちゃけ話をしてくれたところからこのイベントの求心力はかなり高まりました。聞いていて、「面白い!」と感じたのです。肉声の力です。

僕は肉声が乗っている文章であれば、まあ読めちゃうのでは、そんな書簡を交わしてみたいと感じました。

今、僕はどういう感情なのか

肉声とはその人の感情が乗っている声だと感じている。さて、今僕はどういう感情か。

「応答することなんてない、なんて中身の薄い人間なんだ自分は」「偉大な文学者の往復書簡とかだったら読みたいけどこんな3人の冴えない会社員の往復書簡なんてだれが読むんだ、泥舟だ」

いや、まあ感情を出してくれているのはわかる。が、もう少し本当の感情があるのではないか?と感じる自分がいます。であれば、文学フリマに出そう、などとならないはずで、だって、そうすれば文章なんて書かなくてすむから。

「まあ自分の文章なんてだれが読むかな」という気持ちのどこか裏側に「なんかこういうのやってみたらだれか読むんじゃないかな」などの妄想はあるのではないでしょうか。もっとそういうの聞いてみたいなあ。そこに本心的なところがあるんじゃないかなあ。

僕はそこの妄想はあります。ちなみにぼくは最近無名の人、というか別に知らない人のエッセイとかが結構好きです。でも上手い下手はあります。その「上手い」というのは別にきれいな文章で、文学的技巧があって、とかではなく、その人の素直な感情が手に取るようにわかるような前提と言語化がされていたりして。人間不思議なもので意外と大体のそういう素直な感情って共感できたり、へーそう考えるのね、と面白く感じられるのです。

そんな文章を書いてみることを今回やってみたい。できるような気がする。それも他者との共同作業であれば。

冴えなくたって、無名だって語っていい

文学フリマなんて、冴えなくて無名の人たちが肉声を発する場なのではないでしょうか。そもそも偉大な文学者だって最初は無名で貧乏で若い人だったはずです。ぼくらは文学フリマに出すという機会を自分たちにつくった以上、肉声を言葉にしていくことを真剣にやらなければならないと感じます。

しかし、実は文章を書いたり行動をするときに一つ大きなコンプレックス、というか苦手意識があることがあります。それはすぐメタ視点になってしまい、肉声を言葉にできているのか?という不安感です。

ここに僕が文学フリマに出す、ということに乗った理由があります。せっかくなら、肉声を言葉に出すことをやってみたいな。やれるか試してみたいな。

ただ、肉声がでているのか今さっぱりわかりません。これは他者から問いかけられたりして初めて見えてくるのかもしれません。僕は今回の書簡でみなさんにはもっと肉声があるのでは?というのを問いかけてみたつもりです。

一方でこの書簡を見て「まだまだ湯川のこの肉声が聴こえねえなあ」というのがあれば問いかけてください。そういうコミュニケーションで僕も僕自身の肉声を発見したいと感じています。


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