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うまくやろうとしなくても笑えていればいいんじゃないと思った件


押田さん、矢口さん

映画の話

先日『おーい!どんちゃん』という映画を観ました。ドキュメンタリーではないのですが、沖田修一監督の実子の成長過程を3年半かけて撮影し、フィクション映画として編集したという作品です。

そこにはかっこつけない、本当の人間が写っていたように感じました。というかどんちゃんが可愛すぎた。最初、沖田監督は遊びで俳優仲間と撮ったらしいのですが、あれ、これ映画になるぞと思い、撮り続けることにして映画にしちゃったらしいです。とんでもなく面白かったです。とにかく1シーンも面白くないシーンがなかった。

「うまくやろう」とするとうまくいかないのに「適当にやるか」ってやるとうまくいっちゃうことってありますよね。ビギナーズラックとかもそれに近いのかもしれない。最初うまくいっちゃうと2回目は1回目うまくいった感覚をそのままやろうとしてなんか1回目よりうまくいかない。なんかそんな感覚と近い気がする。沖田監督の「遊びでやっちゃう」感覚はおそらく「うまくやろう」としていない。自然体でやってそれがとても人間をうつす映画になり、魅力的になっている。

資本主義がいやんなっちゃった話

最近僕は資本主義に嫌気がさしています。人はなにか人が喜ぶことをやるために仕事をやっている気がするのですが、現代において「人が喜ぶから」仕事をやっている人、というのは非常に少ない気がします。ものすごく極端に悪く言うと「お金を稼ぐために」「盛ってお客さんに提案し」「お金をたくさんとって」「そんなことできるわけないよと思っている開発がお客さんにサービス提供している」みたいな虚偽のやりとりとお金の発生という場面が社会にはまん延しているような気がする。ぶっちゃけ情報商材屋さんと変わらないのでは、と思うサービスもたくさんあるように感じる。

僕はここに「うまくやろう」としてうまくいかなくなってしまうという現象と似たようなところを感じます。「人が喜ぶから」やっていた仕事を抽象化して、効率化して、「うまくやる」道具を開発する。その指標となる数字を伸ばすこと、それが「人が喜ぶこと」の拡大につながるはずだ、という信念のもと仕事を拡大していって「うまくやる」道具を使うことが目的になる。そうすると「うまくやるための手段」である道具を無思考で使う人がたくさんでてきてサービスは劣悪になり、本来「人が喜ぶから」やっていたことの価値がどんどんなくなっていき、誰も喜ばないサービスになっていく。でもシステムに入り込みお金を発生させる流れができてしまっているので誰もとめられない。

なので、共産主義とかを謎に衝動的に勉強してみているのですが、面白いです。そういう最初は「人が喜ぶから」やっていた仕事が「お金のため」になり、人間性が疎外されていくことを疎外論と言い、原始マルクス主義は「人間の本来性を取り戻すこと」のために共産主義革命を起こそう、という考え方をしていたらしいです。それが結局「革命を起こそう」が目的化してしまい、結局また「人間の本来性を奪う」ことになってしまい、どっちもどっちだなあと思った今日このごろです。

資本主義いやになって衝動的に始めちゃった話

その流れで、さらに最近衝動的に始めちゃったことでいうと「ふるさと兼業」というサイトでプロボノに応募して2件面接して、2件副業やることになっちゃったことです。7月頭くらいに申し込んで面接やって、いつのまにかやることになっちゃいました。9月には東京の檜原村と長野に1人で出張に行きます。

「お金のため」に仕事することにのまれそうだし、それが評価軸になることにちょっと嫌気がさしちゃったので一旦自分でお金をもらわずに「人が喜ぶから」活動をするということに時間を使ってみたくなったのです。

『会社のなかの「仕事」 社会のなかの「仕事」~資本主義経済下の職業の考え方』『広告の仕事~広告と社会、希望について』の2冊を読んだことがプロボノに興味をもったきっかけでした。特に後者とかは僕は前職で自分が心から共感しきれない商品の広告をつくってお金をもらっていたときにもやもやしながら読んだ本で実は結構前に読んだものなのですが、とても印象に残っていました。

広告は産業革命以降の大量生産・大量消費の申し子だ。大量生産・大量消
費のエンジンとして長年その役割を果たしてきたが、量や規模の経済が明
らかに終焉を迎えようとしている今、その役目を終えようとしている。で
は、広告が終わったかというと僕はそうは思わない。
これまで広告が培ってきたコミュニケーションの経験値や技術、そして直
感力などを侮ってはいけない。これからも世の中に必要とされるコミュニ
ケーション技術だと思う。
それは何かといえば、大量生産や大量消費ではない、量や規模ではない、
人の喜びや幸せにつながるものだ。

『広告の仕事』「はじめに」より

なぜ僕はこうやって、「人が喜ぶから」活動をする、ということに時間を使いたいのでしょうか。それは自分の動きが単純に感謝されることが自分の存在理由を作ってくれるからだと思います。

僕は存在論的不安のようなものを感じるときが結構な頻度あります。「ただ、生きていればいいじゃない」なんて全く思えない。自分の動きが誰からも喜ばれるものになってないと想像してしまったとき、僕は自分の存在理由を見失い、闇落ちします。

僕が資本主義が嫌な理由はここにつながります。資本家が「お金が大量に動いてすごく人にとっていいことが起きているはずだ」と思っているさなか、現場では不幸や欺瞞が起きている、ということが多く感じます。そしてそれは誰が悪いというわけではないと思うのです。

資本家という抽象化しないと物事を捉えることができない管掌範囲を持った人からみたらお金の流通量が増えること「人が喜ぶこと」の増加に見えるかもしれない。資本家の存在論的不安は解消される。一方でそこから確実に排除される存在がいる。現場はそこに向き合う必要がある。現場は存在論的不安にさいなまれる。自分は何のために仕事をしているんだろう?何のために生きているんだろう?

金利を下げて、お金が流通すれば景気が回復するはずだ!と散々金融緩和施策を平成の時代やってきて、結局景気は回復しませんでした。これは抽象的な、「お金の流れ」でしか「人が喜ぶこと」の増加を考えられてないことが原因なのではないでしょうか?むしろ今は「お金の流れ」がないことによって不景気になっているのではない。「人が喜ぶこと」がなんなのかよくわからなくなっていることで不景気になっているのではないか。

「人が喜ぶこと」の具体的な把握と実行をするためには僕は組織として「小さくある」ことが必要なのでは、と感じます。大きくなってしまうとそれを統制するために抽象的なことを考えなくてはならない。そうすると本質的な「人が喜ぶこと」が抜け落ち、ビッグワードを言うだけの空虚な存在になってしまう。

「小さくありながら」「開かれている」共同体がたくさんあり、具体的に考えながら隣の具体的に考える人たちとたまにおしゃべりをする。そんな世界ができたらいいなと感じます。そのためのヒントとしてまずはプロボノをやってみようと、最近思った次第でした。

バービー良かった話

ここからは余談ですが、先日観た『バービー』がとんでもなく面白かったです。今年公開された映画の中で言えば僕はトップクラスに好きでした。抽象化された女性の理想像としての「バービー」というおもちゃと現実のギャップを皮肉り、抽象化されたジェンダー課題を皮肉り、笑い飛ばす痛快な作品に見えました。

上の話だと抽象化されてしまった本来的に「人が喜ぶための活動」を取り戻すには具体性を取り戻そう、という話にしていますが、一つ他の選択肢としてあるのは「抽象化されたもの」なんて「くだらないから笑い飛ばしてしまおう」というのも解決策としてあるような気がします。

『バービー』は僕らが課題として言葉にして喧嘩していることをフィクションとして誇張表現し、男女関係なく笑い飛ばせるようにし、「人生は複雑で変化するもので、苦しい。けど一人ひとりの人生は美しい」というメッセージが散りばめられている。なんか普段もやもやしていたことから開放してくれるような映画で映画観ている最中3回くらい泣いちゃいました。本当にいい映画だったなあ。


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