短編小説「エリーの世界」
「・・・助けて」
そんな声に僕はゆっくりと目を覚ました。気付けば小さな電灯が明かりを降らすデスクの上に身を伏せ、居眠りをしていた様だ。頭を搔きながら大きな欠伸を溢し、ぼんやりとした意識の霧が次第に晴れ出す頃、しばしばとする目を擦って時計を見やると時刻は夜中の2時半。僕はゾッとした。
「・・・嘘だろ」
今日、今から7時間後に進級のかかった大事な期末試験が待ち受けている。選択科目の中でも特に覚えることの多い生物と地歴の試験範囲の内容を僕は未だに全く暗記できていなかった。半ば絶望しつつも、急いで授業ノートの続きに目を通そうとした・・・その時。
「助けて」
という声がどこからか聞こえた。空耳か、と思いつつ「一夜漬けは良くないなぁ」と呟いていると、再び「お願い、助けて」という声が今度こそはっきり聞こえた。背筋の凍る思いがした僕は薄暗い自分の部屋を見渡して、
「・・・誰?」
と訊ねた。すると、コツコツという音が僕の手元で聞こえ、「ここだよ」とその声が言った。驚いて椅子から飛び上がってしまった僕であったが、気を取り直して恐る恐る声のした方を見てみると、そこには積み上げられた教科書や参考書の間に挟まった一冊の方眼ノートが少しだけはみ出して来ていた。息を飲んでジッと見ていたその背表紙から再びコツコツという音がして、方眼ノートが身をよじる様に少しずつ這いずり出て来ようとしていた。
僕はいよいよ自分の頭が変になってしまった、と額に手を当てたが、「私を助けて」というノートの声に、「何でノートが喋って、動いているんだ?」と思わず問い掛けてしまうのだった。
「私はノートじゃないの。とにかく、ここから取り出して最初のページを開いてみて」
そうお願いされたので、僕はノートを恐る恐る指先で教科書らの間からつまみ出し、最初のページを開いてみた。その方眼ノートは真っ新な新品で、まだ何も書かれてはいなかった。
「何も書いていないじゃないか」
と僕が零すと、
「そう、まだ何も書かれていないの」
と声が言った。
「一体どういうことだい? 僕にどうしろと?」
そう訊ね返すと、デスクの上に置いていた筈のシャープペンシルが1人でにころりと転がった。
「あなたに書いて欲しい、何もない世界から私を助け出して」
そんな声の言葉に戸惑いを覚えた僕が、
「そんなこと言ったって、僕は絵が下手なんだよ」
と情けない口調で返すと、声が静かにくすりと笑った。
「文字があるじゃない」
僕は真っ新なノートをデスクに広げ、シャープペンシルを手に持つと
「君はどんな世界がいい?」
と声に訊ねてみた。しかし、
「私が望む様な世界は描けないの、全てあなた次第」
と声は答えるのだった。
「うむ・・・」と考え込んだ僕はまず、賑やかな街並みを描写してみた。
「何だか楽し気な景色が見えて来た」と声が言ったので僕は笑みを零して、
「石畳の小さな街の広場で、市が開かれているんだよ」
と答えつつ、テントを張った多くの市が並んだ広場で買い物を楽しむ人々や、走り回る子供達、木陰で欠伸をする子犬などを描写していった。そして市に出されているのは新鮮な野菜や果物、魚介類。爽やかな陽光が降り注ぐ午前中で、広場の中央にある舞台では楽隊が陽気な音楽を演奏している。
「なんだか踊りたくなるわね」
そんな声の言葉に、僕はその姿を描写することにした。声音の感じから年齢は十七、八の少女で名前はエリー。髪は赤毛でやや癖があり、瞳の色は透き通る様なエメラルドグリーン。黒いブーツに18世紀ヨーロッパの庶民的な雰囲気を思わせるレトロなドレスを身に纏っている。
「私は庶民なの?」
と彼女に悪戯っぽく訊ねられたので、「実は違うんだ」と僕は答えてその先の描写を続けた。エリーは街の住民達と楽隊の奏でる音楽に合わせて陽気に踊り始める。踵を鳴らし、ドレスを翻らせ、手を繋いでお辞儀をする。街中に笑顔が溢れていた。
とその時、突然市場に一発の銃声が鳴り響いた。黒い布を顔に巻いた男達が、「金目のものを出せ!」と大声を撒き散らしている。
「まずい、盗賊団だよ」とエリーが零したので、「大丈夫、君は手練れの女性剣士だ」と僕は答えた。翻す様に脱いだドレスの下に男装していたエリーはスモールソードを抜くと、その優雅な剣捌きであっという間に盗賊団を制圧してしまうのだった。一斉に住民から拍手が舞い上がる。
「私って、強いのね」
剣を納めながら得意げにそう言う彼女に、「幼い頃から城内で鍛えられてきたからね」と僕は答える。その時、笛の音が街中の至る所で響き渡り、馬に乗った警官たちが広場に雪崩れ込んで来た。どうやら盗賊団を追っていた様だ。
「逃げた方がいい気がする」
とエリーが呟いたので、「そうだよ、君も彼らに見付かるとまずい」と僕は答えた。
急いで広場を抜け出したエリーは、途中馬を借りて隣町へと向かった。風の吹く広原を颯爽と進んだ後、エリーは隣町である青年と出会った。背が高く、筋骨隆々で端正な顔立ちのフェアラートという青年だ。彼も剣士で、腰にはロングソードを携えている。
「なんだか素敵な人ね」
とエリーがこっそりと言ったので、「どうだか」と僕は答えるのだった。
町を一望できる高台でしばらくフェアラートと話をしたエリーは、少しずつ鼓動が高鳴るのを感じていた。すると突然、「君はこの国のお姫様だろ?」とフェアラートがエリーに言った。驚いたエリーは思わず言葉を飲んだが、フェアラートは微笑みを浮かべて「僕も隣国王の跡継ぎなんだ、君と同じ様に忍んで遊びに来ているのさ」と言った。
その後、意気投合した二人であったが、フェアラートがエリーにある提案をしてきた。それは両国の間にある盗賊団のアジトに侵入しようというものだ。両国共に長年手を焼いている盗賊団のお頭を倒して一網打尽にすれば、二つの国はもっと平和になる。エリーは快諾し、フェアラートと共に盗賊団のアジトへと向かった。
「ヒーロー的展開ね」
とこそこそ僕に話しかけてくるエリーに、「油断大敵」と僕は呟いた。
盗賊団のアジトに乗り込むと、エリーは改めてフェアラートの強さを実感する。二人は凄まじい勢いで盗賊団の下っ端達を制圧すると、あっという間にお頭の所まで辿り着いてしまうのだった。しかし、このお頭がとんでもなく強い。エリーとフェアラートはお頭が振り回すモーニングスターに吹き飛ばされ、なかなか間合いに入り込むことが出来なかった。
「どうしよう、フェアラート」
とエリーが背後にいた彼に訊ねた時、重い衝撃がエリーの後頭部を襲った。倒れ込み、気が遠くなる中、エリーは薄笑いを浮かべるフェアラートの顔を目撃するのだった。
目を覚ますと、エリーは暗がりの部屋の壁に鎖で縛り付けられていた。遠くからお頭達が酒でも飲んでいるのか陽気に騒ぐ声が聞こえる。もちろん、フェアラートの下品な笑い声も。
「・・・騙されてたってこと?」
とエリーが僕に訊ねたので、「ピンチだ」とだけ答えておいた。繋がれた鎖から逃れようと身を捩っても、強固な南京錠で鍵を掛けられているものだからビクともしない。
「恋は盲目って、よく言ったものね」
とエリーが零した時、誰かがこっそりと暗がりの部屋に忍び込んで来た。「誰?」とエリーが訊ねると、小さな蝋燭の火を灯したのは幼馴染の少年、シンシアだった。
「エリー、助けに来たよ」
シンシアは手にした小さな器具で南京錠を解くと、エリーを鎖の束縛から開放した。
「どうしてここが分かったの?」
とエリーが訊ねると、シンシアは照れ臭そうに笑って、
「お転婆なお姫様から目が離せなくて」
と言った。その時、盗賊団のアジトが急に騒がしくなった。エリーとシンシアが暗がりの部屋から出てみると、そこでは大勢の警官や兵隊達が盗賊団を包囲していた。シンシアが通報してくれていた様だ。盗賊団は拘束されまいと暴れたが多勢に無勢。あっという間に制圧され、盗賊団のお頭も御用となった。逃れたフェアラートがエリーだけでも連れ去ろうと剣を抜いて来たが、足元に落ちていたモーニングスターを手にしたエリーは、フェアラートにその鉄球を思い切りお見舞いしてやるのだった。
フェアラートは盗賊団のお頭と手を組んで、エリーを人質に国を乗っ取ろうとしていた。しかし、経済的な苦境に陥っていた隣国によるこの作戦は呆気なく打ち破られることとなるのだった。
城に戻ったエリーは、お忍びで城下に遊びに出ていたことを父である王と執事の爺に散々叱られたが、二人に舌を出しつつ彼女はそそくさと来賓の間に向かった。そこには、正装したシンシアの姿があった。
やがてシンシアと結婚したエリーは王女となったが、今でも時折お忍びで城を抜け出してはスモールソードを腰に携えて馬に乗り、自由な旅路を奔放に駆け回っているらしい。
方眼ノートの最後のページに辿り着いた時、ポロリとシャープペンシルが僕の手から転がり落ちた。
「・・・できた」
無意識の内にそう零しつつ、僕は椅子の背もたれに身を預けた。しばらく目を瞑っていると鳥の囀りが聞こえ始める。ハッと目を開いて見た窓の外は既に明るくなり、時計を見やると朝の7時過ぎだった。
「・・・嘘だろ」
真っ青になった僕は迫る電車の時間に慌てつつ、急いで朝の支度をし始めた。今日は進級の掛かった期末試験だというのに一睡もしていない上、結局テスト範囲の生物と地歴の内容は何も覚えていない。絶望的だ。
急いで一階のリビングへと駆け下りようとする僕であったが、ふと誰かが静かに笑う声が聞こえた。その笑い声の方を見やると、朝日の差し込んだデスクの上に一冊の方眼ノートが佇んでいた。
「書いてくれてありがとう」
そんな声が聞こえた気がした。
僕は静かに佇む方眼ノートに思わず笑みを浮かべるのだった。そこには、僕が初めて最後まで書き上げた短編小説が綴られている。
〈 終わり 〉