短編小説「祭囃子に候」
からんころんと下駄が鳴る。
白地に紫の撫子模様が咲き乱れる艶やかな浴衣に身を包んだ年頃は十四、五の娘が、赤い灯の揺れる階段の先を見据えつつ、柔らと苔むした段を登り行く。夏の夜風が木の葉を揺らし、提灯のみが仄かに照らす足元を人知れず貂(てん)が走り去って行った。
どこまでも長く続くと見られた階段は次第に赤い灯を娘に近付け、胸郭の奥からやって来る静かな鼓動が娘の耳元で囁き始めた。愉快に遊ぶ祭囃子の笛の声音にふと気付いた時、きゃっきゃと騒ぐ子供達が浴衣を着崩さんばかりに娘の隣を駆け上って行った。その後を追う母親の結った頭に腰を据えた髪留めが、提灯の灯りを柔らと美し気に弾いていた。
息が切れる頃に娘が階段を登り切ると、そこにはさんざめく赤い灯が揺れに揺れ、迸る熱気を帯びた人々が祭りの賑わいの中を泳いでいた。列を成す屋台に目が眩む程の豆電球が幾つも貼り付き、活きの良い客を呼ぶ声が辺りに散りばめられている。
夏は真ん中、宵は淵。祭りはまだ始まったばかりである。
首筋に汗を伝わせながら、娘は屋台をひやかし歩いた。甘い綿菓子の匂いに誘われて、顔を並べるお面が笑えば、射的の弾が的を打つ。逃げる金魚らを追う網はいつしか破れ、水槽の前に小さなお尻を落とした子供達が落胆の声を上げていた。串に刺さりて輪を描くぽてとに若者が群れ、烏賊の纏いし醤油の焙られた香ばしい煙が立ち込める。
そぞろ歩く浴衣の娘は、所在も無さげに彼らを見ているのだった。
「一人かい?」
ふと声の掛けられた方を娘が見やると、そこには背が高く、目の細い若き男が立っていた。男は笠巻絞の柄をした浴衣を颯爽と身に纏い、目を尚細めてにこりと破顔している。訝しんだ娘は、
「いいえ」
と答えたが、「嘘はいけない、君は一人だ」と呟いた男はいつの間にやら娘の目の前までやって来ていた。男からは何とも言い難い、柔らかくもあり華やかでもある良き香りがした。細い目の奥に灯る明かりは、不思議な色を携えている。娘の鼓動が早まるのに合わせ、幾重にも並ぶ風車が一斉に回り始めた。からから走る赤い羽根。留まることを知らない風に、咲き乱れる風車が回り続ける。
「僕が案内しよう」
そう言う男に柔らと手を掴まれて、浴衣の娘は夏の宵時を走り始めた。
小さな舌でりんご飴を舐める娘の隣で、細い目の若き男が的を射貫く。渋い顔をする射的屋の親仁から頂いた景品の花飾りを、男は娘の結われた髪に通した。淑やかに夜の光を弾く髪飾りに頬を赤らめた娘が「似合う?」と訊いたので、男は「綺麗だよ」と言った。
途端に歓声が沸き起こり、足元を揺らさんばかりの地響きがやって来た。見物人が多く集う会場の舞台の上で、祭り太鼓が爆ぜ始めたのだ。どこどこと勇ましく鳴る太鼓の音は、空気の層が撓(たわ)みを解くのを許さぬままに、夜の帳を驚かし続ける。目を奪われる観客の先で、和太鼓奏者の汗が迸った。
やがて太鼓が鳴り止んだ後、賑やかな音頭が会場を包み込んだ。舞台の下に集っていた人々は一斉に踊り出し、やんや、やんやと騒ぎ始める。手を掲げては足を上げ、浴衣の襟がややもすると崩れるが、それでも構わぬ人々は、やれ踊れ踊れと輪を描き出す。
浴衣の娘と若き男も、共に輪の中に混じりて踊り始めた。辺りは一斉に熱気に包まれ、花や蝶らも舞い上がる。綿菓子、烏賊焼き、りんご飴。扇子に盃、提灯踊り。紙の吹雪が乱れに乱れて、お面も一人でに宙を舞う。
その内に人々は舞台へと登り始め、どんちゃん騒ぎの火を灯す。お祭り騒ぎの真っ只中で、舞台の上から手を引かれた娘は、戸惑いの顔で目の細い男を振り返り見たが、視線の合った彼はにこりと笑い、「行っておいで」と娘に言った。
浴衣の娘はいつしか舞台に上げられ、踊り狂う人々の中で彼女も次第に我を忘れて踊り始めた。物憂げな顔をしていた浴衣の娘が、今では幸せに満ちた笑みを零している。
目の細い若き男はお祭り騒ぎの舞台からやや離れた所までそぞろ歩いて行くと、暗がりの木立に背中を預けて、その賑やかな様子をしばらく遠目に見ていた。そして、徐に瞳を閉じる。
目蓋の奥で回転する赤い灯。フロント部位の潰れた車、折れた電柱。恐怖に慄く人々が泣き喚き、けたたましい笛を鳴らす白い車が続々と集まり始める。固いアスファルトの上に、ひしゃげた自転車と共に誰かが力なく横たわっていた。近寄りて、額から紅(べに)の流れるその顔を覗き見ると、それはまだいたいけな若い娘だった。
静かに目蓋を開くと、同じ顔をした浴衣の娘が賑わう舞台の上で踊っていた。その額にもはや紅は流れず、皆に囲まれてとても幸せそうな笑みを浮かべている。彼女を取り囲んでいる皆は、それぞれに『ぬらりひょん』や『ろくろ首』、『火車』、『ぬっぺふほふ』、『猫又』、『狗神』、『狐火』、『鉄鼠』、百鬼夜行の妖怪達だ。浴衣の娘は気付かずに踊り続ける。
すると突然舞台が宙に浮かんだ。いや、よく見ると舞台の下に四つの足が生えている。舞台はまるで神輿さながら賑やかな皆を担いで揺れた。やがて夜空の果てへと向かって、舞台神輿は見えぬ階段を登り始める。どんちゃん騒ぎが続く舞台の上で、浴衣の娘はいつまでも踊っていた。
打ち上げ花火が空を覆って、神輿の行く先を明るく照らし出す。青に緑に紫に赤、留まることを知らない火の粉の雨が、旅立ちの夜を艶やかに染めていた。
目の細い若き男は彼らの騒ぎを見送りつつ、その行く先に無数の蓮の花が咲き乱れている景色を見た。耳を澄ませば、そぞろに哀し気でありながらどこか華やかな歌が聞こえてくる。目も眩む程のその景色に、浴衣の尻から零れ落ちるふわりとした尾を揺らした男は、いつしか狐の面立ちになりて、細い目を尚細め見た。そして、物憂げな顔で小さな吐息を零したのだった。
夜に散りたる 火の粉の花よ
幾重の路傍に 針を留めよ
それ 昇りゆく 彼岸の道に
香しき赤の こうべを垂らして
衣擦れの音に 汗が滲めば
爆ぜる太鼓の 鼓動が響く
やれ 遠のくは 此の世の常で
ひと夏の夜の 幻の如し
神輿過ぎ行く 松葉怪道
それ やいやいと薪をくべよ
輪が輪を描く足踏みの音に
貴方へ届くは世にも珍し
紅蓮に燃ゆる 祭囃子に候
夏のしじまの宵の真ん中。激しき祭りの燃え盛る灯は、まだ世の暗がりを照らし続けていた。
〈 終わり 〉