短編小説「入道雲のおじさん」
耳を劈く様な蝉時雨が降り頻る中、僕は夏空に向かって大きく手を広げた。その先には、もくもくと天高く聳え立つ入道雲のおじさんが胡坐をかいていて、僕を優しく見下ろしていた。
「おじさん、今日も一緒に遊ぼうよ」
そう言う僕ににっこりと笑った入道雲のおじさんは、小さな僕を白い雲の手で摘み上げると、柔らかな肩の上にそっと乗せてくれた。降り注ぐ夏の日差しに目が眩んだ僕は、額に手を翳して遥か遠くの山々を眺める。夏の山は緑が濃くて、その上に広がる真っ青な空も、そこに浮かぶ真っ白な雲も、僕の目にははっきりと見えた。綺麗に切り取られた様な雲の輪郭は、つい手を伸ばして掴みたくなる程だ。
僕を肩に乗せたまま、入道雲のおじさんはゆっくりと立ち上がって歩き始めた。遥か目下に見下ろした先には水田が広がり、青々とした稲が風に揺れている。その足元に揺蕩う水が陽光を弾いて、時折僕の視界に虹色の光の欠片を残した。水田の群れの隣には僕の祖父ちゃん家も紛れ込んでいる小さな人里が佇んでいて、「どこだろう?」と祖父ちゃん家を探してみたが、見付けることは出来なかった。
気付けば、見下ろした水田の間の小道を数人の人達が急ぎ足で歩んでいた。手には多くの農耕具を持ち、頭には薄手のタオルを巻いている様に見える。まるで何かから逃げている様だ。
と、その時、ごろごろと空気を揺さぶる様な低い音が辺りに響き渡った。僕は入道雲のおじさんの顔を見て、「おじさん、お腹空いたのかい?」と訊ねると、彼は苦笑いしつつ近くにあった雲をゆっくりと手で掴んで食べ始めた。入道雲のおじさんは次から次に雲を食べていくものだから、さらに体が大きくなって、終いには膨れ上がったお腹を抱えてごろんと横になってしまうのだった。僕は肩からおじさんのお腹に飛び移って、その上でぽんぽんと飛び跳ねた。
「凄いや、このまま何処までも弾んで行けそうだ」
しかし僕がそうやってお腹の上で遊んでいる間に、入道雲のおじさんは鼾をかきながら昼寝を始めているのだった。おじさんの鼾は互いに摩擦し合って雷を生み出した。おじさんが寝そべった空の下には大きな暗い影が出来上り、時折雷を纏わせながら大量の雨を降らし始めている。
雨の降り頻る下の人里を覗き見て驚いた僕は、昼寝を続ける入道雲のおじさんの顔まで辿って行って口ひげを引っ張った。
「起きてよ、おじさん。祖父ちゃん達の家が水浸しになっちゃうよ」
しばらく髭を引っ張っていると、柔らと目を覚ましたおじさんは体を起こして大きな欠伸を零すのだった。入道雲のおじさんの肩に転がり落ちた僕が下の人里をもう一度覗き見ると、そこには再び暑い夏の日差しが降り注いでいた。僕はほっと一安心したのと同時に、入道雲のおじさんに向かって、
「海の方に行こうよ、そこならいくらでも寝ていられるよ」
と言った。すると微笑んだおじさんはゆっくりと腰を上げて、僕を肩に乗せたまま山間から見える海に向かって歩き始めたのだった。間近で数羽の鳶がひゅるりと鳴いて、輪を描きながら僕らの後に付いて来た。
海に辿り着くと、入道雲のおじさんは急にふわりとした水蒸気になって、僕は大勢の人々で賑わうビーチに向かって真っ逆様に落ちて行くのだった。おじさんは僕を拾おうともせず、いそいそと沖の方へと行ってしまう。
「おーい、入道雲のおじさん!僕を置いてかないでよ」
と叫んでみたが、彼にはもう僕の声は聞こえていない様だった。
突然、ばしゃりと海水を掛けられて僕はハッと浅い眠りから目を覚ました。
「うぇ、しょっぱい!」
そう言いつつ、ぺっぺと口に入った海水を吐き出していると、一緒に海に遊びに来ていた友達らが笑いながら僕の顔を覗き込んでいた。
「いつまで砂に埋まってるんだよ、海で泳ごうぜ」
とその中の一人が僕に言う。仰向けに寝そべって砂に体を埋められたまま、覗き込んでくる彼らの頭上で光り輝く夏の太陽の眩しさに目を細めつつ、僕は青空をぼんやりと見ていた。
・・・入道雲のおじさん
ふと蘇ってくる情景に僕はがばりと起き上がり、埋もれた砂から這い出ると波打ち際まで走って行った。沢山の人達が遊ぶ波間の向こう側の空に、一つだけ大きな入道雲がぷっかりと浮かんで漂っている。まるで大きな体を横たえて昼寝をしているおじさんの様だった。
僕はその入道雲にむかって「おーい」と手を振ってみたが、雲は沖へ沖へと流れていくだけで、次第に紺碧の空に溶けてなくなってしまうのだった。
僕はちょっとだけ寂しかったけれど、「また会おうね」と小さく呟きながら、いつまでも手を振り続けていた。
もうすぐ、夏が終わる。
——§——
操縦席に乗り込んだ僕は、若い副操縦士が読み上げるチェックリストの項目を元に各種スイッチやレバー、計器を目視で確認しつつ状態報告をした。異常がないことをチェックした副操縦士と僕は管制からの指示を受け、細心の注意を払いつつ安全に旅客機を離陸させるのだった。
無事に離陸した上空で自動操縦に切り替わる頃、若い副操縦士が操縦席から見える真っ青な空を眺めつつ、
「今日も暑くなりそうですね」
と言った。僕は俄かに微笑んで「そうだな」と答えた。
白い機体が滑空していく先には、空と海が交わる水平線が何処までも続いていて、所々もくもくとした立体的で巨大な雲達が姿を現し始めていた。つい先日、全国で梅雨明けが発表され、いよいよ本格的な夏が始まろうとしている。
何度目の夏になるだろうかと数えてみるが、大人になってしまった僕はあの入道雲のおじさんにあれ以降会えていなかった。空の上ならまた会えるかもしれないとパイロットになったものの、毎日の忙しさにすっかり彼の事を忘れてしまっているのだった。
先日、妹夫婦の間に子供が生まれたと聞いて、とうとう僕も叔父さんになってしまったのだな、と実感した時、ハッとあの入道雲のおじさんのことを思い出した。背が高くて、ちょっと太っていて、少しだけ抜けている所もあって、それでいてとても優しい。
僕はふと目頭が熱くなるのを感じた。あの年の夏、僕は小さい頃から大好きだった叔父を病気で亡くした。悲しみに暮れていた僕を元気付けようと海へ遊びに連れ出してくれた友達らとは今でも連絡を取り合い、居酒屋で酒を酌み交わす仲だ。浜辺で見た夢に出て来た入道雲のおじさんが一体誰だったのか・・・、それは僕だけが知っている秘密なのだ。
「大きい雲ですね」
という副操縦士の声が聞こえたので、ふとそちらの方を見やると、ずんぐりとした入道雲が海の上でお腹を膨らまし、ぷっかりと横になって浮かんでいた。僕は思わず零れ出る笑みを顔いっぱいに湛えたまま、その姿をしばらく見ていた。
・・・会いたかったよ、入道雲のおじさん
おじさんは青い海の上でにっこりと微笑んだかと思うと、遠い空の彼方に向けて大きな欠伸をしているのだった。
また、暑い夏がやってくる。
〈 終わり 〉