ボーンボーンボーン!時間です。
45年くらい前の夏休み。
思いっきりトウモロコシを食べて、スイカをパクリ!プールに行って久しぶりに会う従兄弟たちと思いっきり遊んだ後は、叔父たちとの夕食だった。
私たちが来たからとご馳走にしてくれる。子ども心にそうとわかるメニューが食卓に上がる。そして、私の目はいつも釘付けになるのだ。叔父の右手に。
叔父といっても母方の遠縁にあたるその人は私が小学生の時にはすでに大おじいちゃんだった。焼け爛れた後の皮膚というのはこんなにもツヤツヤと光って見えるものなのだ、と肘から先のない叔父の腕を見ていた。
叔父は戦争で右手を失っていた。顔にも大きくやけどの跡があり、唇は原型をとどめていなかった。足もなくて、杖をついていた。残された左手と右の肘で上手にご飯を食べる。唇のやけどのせいかはわからないが、出てくるご飯がいつもベチャベチャで、お刺身のならぶご馳走を前に、(ご飯さえベチャベチャじゃなかったら完璧なのに)と小学生の私は密かに思っていた。
父方の祖父は戦争に行っていない。生物学者だったかららしい。
動物園のすぐ隣にあった研究室で、戦況が悪化したために毒入りの餌を無理やり食べて殺された象たちの話をよくしてくれた。毒入りと分かっているのか、初めは全く口にしようとしなかったその餌を、解った、とでもいうように何日目かに口にした象は、悲しいような苦しいような声をあげて息絶えたそうだ。
父は、級友たちの父のほとんどが戦地に行っているのに兵隊として赴かなかった、そして戦死という結果にもならなかった祖父を、子どもの頃は恥ずかしいと思っていたそうだ。そして、『憲兵』と呼ばれた、何がなんでも戦時中の規律を守らせるために権威を振りかざす警察官に憧れた。
テストの名前欄には、祖父の苗字を書きたくなかったため、MP(military police)と書いていたそうだ。
母は満州からの引き上げ者。中国残留孤児のニュースを見るたびに『私もこうなっていたかもしれない』とよく言っていた。今ではそんなニュースを見ることもないけれど、私が子どもの頃はよくやっていた。インタビューの映像が流れる度に、(日本人なのに中国語しか話せず、親と離れ離れだなんて、どんなに大変だっただろう。私だったら。。。。)と小学生の私は想像してみた。画面に映る子どもの頃の写真は、そこに写っている大人の人と同じ人なのかどうかもわからないくらい変わっている。あの人たちは無事に親族に会えたのだろうか?今日本にいるのだろうか?それとも。
8月6日は平和授業の日。子どもたちは登校日で、広島に原爆が投下されたその時間に黙祷を捧げる。私が子どもの頃に住んでいた地区では無かったことだ。聞けばこの辺ではずっと昔からそうで、先生方は『二度と子どもを戦地へ送るな!』と書かれたバッジをつけたりしていたそうだ。
ところが、そんな地区でも、国立の大学附属小中学校ではもう何年も前から平和授業は廃止。そして映画などでは特攻や戦争が次々に美化される。
自分の子どもたちが、知っているかわいいあの子達が、戦争へ行く?そんなことはなんとしても阻止しなくてはならない。このおばさんの命にかけても!
そう。ぼーっとしてる暇なんかない。私たち大人ができることを伝えていかなくては。ぼーっとしてたら飼い慣らされて飼い殺されちゃうよ。今、夏休みを楽しんでいる、あのときの私たちと同じこの子どもたちのために。