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旅するように出会い、編み目を紡ぐ。
杉の床敷きは、旅するように出会うのがよいようです。
出会って、お互いがピンときて敷きましょう、となり、敷いたあとも、あの人(あの床)どうしてるかな、と気にかかります。
お互いが「敷いてよかった」と思えるのが本望です。
ひっくるめて、
出会えてよかった。
という言葉に集約されます。
まあ、損得勘定がないといえば嘘になりますけど(^_^;)
いっぽうで、会社の仕事は損得勘定が基本で、相手に商品やサービスにある程度依存させることで利益を得て、効率よく働くことが求められます。
もちろん、職場の仲間やお客様と信頼関係が生まれることもあるし、互いの利他性が働いて歓びを得る局面もあります。だから会社の仕事が空虚だとはいいません。
でも、 構造的には、会社では互いに代替可能で、全人格的に支え合う共同体ではないし、市場は相手の歓びを自分の歓びにすることより利己性をより助長するシステムだと思います。
じゃあ、個人でやれば「人間らしく」稼げるのかというと、それも違います。
例えば、私の杉の床敷きは「こんないいこと、みんなやった方がいいよね」という動機で始めました。
「いいこと」はふたつあります。
ひとつは、杉を敷くだけで空間が劇的に変わり、心身が安らぐ家になること。(さらに、その杉床は移動可能な財産でもある)
ふたつめは、自分で敷けば楽しくて、空間と自分が同期して愛着が湧くのがわかり、自分がほしい住まいを自分でつくる自信がつくこと。
木(杉)と暮らし、
居場所(家)をつくりつづけることを楽しむ。
それは、私が手にした大きな財産です。
それを、杉の床をいっしょに敷くことで他の人にも味わってほしい、というおせっかいです。
それが響く人は、私の感触では20人にひとりくらいです。
大袈裟かもしれませんが、そういう人とたまたま出会えて、その人がちょうど今それを必要としていて、私が提供できることは、奇跡だと思います。
また、それでお金をもらえるというのは、すごいことだ、と感じます。
お金ではないからこそ、お金をもらえたことが腹の底から嬉しいんです。
繰りかえし敷いても、敷いてよかった、という出会いがあると、その原点に立ち返れます。
だから、そのように出会い、敷く。
そこからは、ブレません。
そこから外れたら、個人で働こうが組織で働こうが、同じです。
人間らしい歓びから疎外されずに、いかに経済の壁を乗り越えるか。
それは、考えるととても難しく思えます。
また、高い到達点を求めてしまうと苦しくなります。
でも、人と比較する必要はないですし、気負わず、澄んだ気持ちのときに腹の奥から出てくる声を聴いて、動くだけです。
それに、この課題に取り組んでいる人は、たくさんいるでしょう。
それぞれが自分らしく構築していけば、編み目が広がる。
編み目が多く、太くなれば、まわりが変わって、いつのまにか社会の側が変容しはじめるかもしれません。
人間らしさを疎外する巨大なシステムのひとつとしてではなく、彩り豊かな編み目のひとつとして、今ある大きな流れを信じて生きたい。