杉が、これでいいんだ、と言った。
2年前の夏に、川崎市子ども夢パーク(以下「夢パ」)の乳幼児スペース「ゆるり」に杉の床5畳分を寄付しました。40畳近くありそうなスペースのほんの一角にすぎませんが、少しでも敷けば、皆がもっと敷き広げたくなるに違いない、と思い、そういうムーブメントが起こせたら、と思ったのです。
でも、そうはいきませんでした。
百年杉を体感しさえすれば、皆、敷きたくなる、というのは幻想でした。
夢パのスタッフさんたちと一緒に敷いて、皆さん、いいなあ、と感嘆しましたが、私や、自分のお金で杉を買って敷いた人たちほどには愛着をもたなかったように思います。
そりゃ、そうだ。
自ら望んで、決めて、手に入れたものではないですからね。
「ゆるり」は大きな窓からの陽射しがあり、泥遊びした子どもたちが入ってきて、杉たちはあっという間に色あせて痛みました。家のなかで愛でられている杉たちと違い、激しく扱われます。それでも、わかりやすい明るさやツヤはなくなっているのに、不思議と生命力は失せてなくて、やっぱり気持ちよいのです。
私はたまに夢パに通って杉たちの様子をみることにしました。
ところで、夢パには「つくりつづける会」(以下「つくり」)というのがあります。
夢パの利用者たちが、利用者たち自身でこの場所をよくしていこう、という集まりです。
私には、ゆるりの床ぜんぶに敷き広げたらすごい空間になる、と確信していたので、「つくり」でその夢を語りました。ただ、敷き広げることが目的ならクラウドファンディングなんかをやればいいんでしょうけど、それはなにか違う気がして、ひとまず感想ノートを置くことにしました。
ゆるりで杉の床を体感した人たちに書いてもらい、私もそこに書き込んで、というコミュニケーションをとりはじめました。ノートにはキラキラした感想が書かれていて、私もそれに応えて思いを書きこみました。
「つくり」の中島さん(なかじ)や、夢パスタッフのやのちん、ヒロトが、この感想ノートをてがかりにプロジェクトをすすめる仲間になってくれて、私も夢パのなかに居場所ができました。また、自分たちでとことん話し合う夢パのあり方から、民主主義の根っこみたいなものを学びました。
正直、このプロジェクトがあるのをいいことに、夢パの人たちに会いに行っていました。(笑)
そうして1年くらいたったある日、ゆるりのドアをあけて中に入ったとたん、 私の身体にブワッと風がきました。物理的な風ではありません。風のように何かがブワッと私を包んだのです。
杉たちが、
これでいいんだ、と訴えてきた。
そう感じました。
私は、杉たちが、この場になじんだのだと直感しました。
自宅で愛でられている杉たちとはまったく違う、この雑多で荒々しい空間のなかで、杉たちはしっかりなじんでいたのです。
このとき、私は、このプロジェクトが「成った」というか、「成っていた」と気づきました。
床ぜんぶに敷くことよりも、敷いた杉たちがこの場と一体になることが本質的なことだと気づき、そうなったことが嬉しくて震えました。 杉がこの場で生きてきたということであり、夢パの場の力でもあるはずです。
「私の杉」から、「ゆるりの杉」になったのです。
もしかしたら、私が夢パに居場所を得たことが、「ゆるり」に敷いた杉たちの声がきこえたことと関係しているようにも思えます。
さすが杉!
さすが夢パーク!
杉材はモノではありません。
杉材には、100年かけて太陽と水と土壌から蓄えた、膨大な情報が蓄積され、精油分やなどに宿っているのだと思います。
生命力は、触れればわかります。
手をかざせば、ビーンと感じます。
そんな生きた杉を床に敷けば、そこにいる人たちを癒しながら、空間と一つになっていくと感じています。
レイキの能力がすごい人に百年杉を敷いた空間をみてもらったことがありますが、空間にあるひとつひとつの自然のモノたちにも、杉の波動が宿っていたようです。
(残念ながら私はそこまで解像度高く感受できません^^;)
だから、
杉とは友だちのように接するといいです。
敷いてからが幸せな関係の始まりです。