群馬県・総社古墳群~上野国分寺跡を歩く
ぼちぼち、近場の関東から歴史散歩を再開させたいと思います。
このnoteでも、そうした歴史散歩の記事も少しずつupしていきたいと思っています。お付き合いいただければ、うれしいです。
歴史散歩第一回目の今回は、群馬の総社古墳群と山王廃寺跡、上野国分寺跡を巡ります。群馬には、たくさん古墳があるのですが、その中でも、今回、総社古墳群を選んだのは、古墳が、前方後円墳から方墳にうつって、仏教の影響も入ってきて、お寺もできて…という一連の歴史の流れが、比較的狭い範囲を歩くだけで、見られそうだからです。というわけで、早速、出発です!(今回歩いたルートを載せた地図は、記事の一番最後に貼っておきますね)
JR群馬総社駅を降りて、南下して、まずは総社二子山古墳を目指します。すると、住宅の中に、こんもりしたものが。これこそ総社二子山古墳です。全長90mの前方後円墳。6世紀後半の築造だそう。全体像の写真は撮れなかったので、古墳に登ってパチリ。↓
新緑の季節です。方墳部から南方を望むとこんな感じ。↓
古墳からの眺めは、高台になるので、基本、悪くないところが多いです。つぎは、愛宕山古墳に向かいましょう。こちらは7世紀前半の一辺56mの方墳だそうですが、中学校の向かいにありました。駐車場完備で、石室も見られるようでしたが、先客がおられたのと、草ボウボウなのに、虫よけスプレーを持ってきていなかったので、こちらは場所を確認しただけで、スルー。用水路を渡って、小学校と何かしら神社仏閣の間の暗い道を通っていくと、小学校の端に神社があって、紅葉山古墳と書いてありましたが、よくわかりません。紅葉山古墳の反対側は、光巌寺という立派なお寺で、そのお寺の南側に、目指す宝塔山古墳が見えました。宝塔山古墳は、一辺60mの方墳、こちらは7世紀後半の築造です。こじんまりしているけど、きれいです。↓
早速登ってみましょう。昔の日本人向けだからでしょうか、階段の高さが中途半端で登りにくいです。上には、江戸時代にこの辺りをおさめた秋元氏の歴代のお墓がありました。
宝塔山古墳の階段をのぼりきったところで、一枚撮ってみました。↓
やはり見晴らしがいいですね。奥にみえる山は、多分赤城山だと思いますが、自信はありません。とりあえず赤城山方面だというのは間違いありません。写真には写ってないのですが、写真の右側には、蛇穴山古墳と前橋市総社歴史資料館があって、全部とても近くにあります。でも、そちらに行く前に、まずは宝塔山古墳の石室を見てみましょう。↓
きれいですね!私、古墳巡りをしているわりに、石室に入るのは苦手で、(だってお墓ですからね)いつもお邪魔してすいませんって思いながら入ったり、入らなかったりするのですが、ここは頑張って入りました。きれいだし、奥の家形石棺が特徴的らしいので。その石棺のアップです。↓
見えますでしょうか?石棺の下が、まっすぐではなくて、波形っぽくなっているのですが。これ、「格狭間(こうざま)」というそうで、仏具と共通の形で、ここに仏教文化の影響が見られるそうです。しかも、この石室には、漆喰がぬられていて、白くなっているのです。奈良の高松塚古墳のように絵が描かれていたのか?と考える向きもあるようです。
では、つぎはすぐ近くの蛇穴山古墳に行ってみます。蛇穴山古墳は、やはり7世後半の築造で、サイズは宝塔山古墳より小さくて一辺43mの方墳。こちらが、県内最後の大型方墳になるそうです。↓
入口はこんな感じ。↓
いい意味で、人の手がしっかり入った人工物という感じで、きれいですね。入口の手前の空間は、「前庭部」といって、ここでお供え物をして、お祈りをささげたそう。お供え物して、お祈りしてっていうのは、いまのお墓にも似ていますね。内部はこんな感じ。↓
ここにも漆喰が塗ってあるような気がしましたよ。
つぎは、すぐお隣の前橋市総社歴史資料館へ。こちらで、これまで見てきた古墳やこれから見る予定の山王廃寺跡や上野国分寺跡の予習復習をしました。宝塔山古墳の上に歴代のお墓があった秋元氏は善政をしいて、地元の方々に、とても敬愛されていて、宝塔山古墳のすぐ裏にあった立派な光巌寺には、秋元氏の功績を偲んだ領民たちによる力田遺愛碑があるそうです。散歩の途中で目にした用水路もこの秋元氏によって作られて、これによって洪水も減ったりしたそうです。この辺りは、古墳群と合わせて秋元氏も大切な存在なんですね。
この資料館、入場無料ですし、お手洗いもあるので、散歩の合間に是非立ち寄られるといいのではないかと思います。この日は、5月というのに真夏日で、ここまで歩いてきた時点ですでにぐったりしてしまっていたのですが、こちらで休憩することができて、本当に助かりました。資料館の大きな窓からは、蛇穴山古墳の全景も見られましたよ。
さて、一息入れたので、つぎは山王廃寺跡を目指します。ところで、群馬には、7世紀後半から8世紀前半に作られた古い石碑が三つあって、これらをまとめて上野三碑というのですが、その三碑のうちの一つである山上碑が、次に向かう山王廃寺と関係があります。というのは、山上碑を建てたのが、放光寺の僧長利という人だったのですが、山王廃寺で、「放光寺」と書いた瓦が出土して、山王廃寺=放光寺だと判明したからです。さらに資料館の展示によると、この放光寺の僧長利さんは、さきほど見てきた蛇穴山古墳でお祈りをしていたそうです。宝塔山古墳の石棺の格狭間と合わせて、この辺りの(後期の?)古墳とお寺って近しい関係にあったんだなと思いました。
資料館から山王廃寺跡までの道のりは少し長いので、気乗りがしなかったのですが、石造物の多い雰囲気のある道に入って、少しテンションが上がりました。山王子育地蔵尊のあるところで、右に曲がって少し行くと、比較的新しい社殿の日枝神社があり、そこに山王廃寺跡がありました。山上碑の僧の長利さん、ここにいらっしゃったんですね。↓
写真を見て、これだけ?って思われた方がいるかもしれないですけど(かくいう私は、Googleマップでこういう写真を見てそう思いました)、実際にみると感動します。行く前は、わざわざ見に行くほどではないかな、暑いしと思っていたのですが、見に行って良かったです!ここまでの道のりも、石造物とか、大きな古い家とかあって、雰囲気があって、そこに、この山王廃寺跡が、ぽ~んと出てきて、トータルで良かったです。写真は撮ってないですが、山王廃寺跡の向かいにある石造りのタバコ屋さんの建物も面白かったです。俄然、上野国分寺跡まで向かう元気が出てきました!つぎに進みます!
山王廃寺跡を抜けると、急に道が寂しくなって、少しつまらなくなったのですが、しばらくいくと、また古くて立派な家がたくさん出てきて、おっ!と思っていると、ついに上野国分寺跡です!↓
遺跡感ありますね。復元された七重塔の基壇は、こちら。↓
ここに高さ60mほどの七重塔が建てられていたようです。塔の基壇に登ってみます。↓
塔の北西部には、榛名山などがひろがっているようです。同じ場所から、北東部を向くと、↓
奥に講堂の基壇と、赤城の山々が見えます。
気分が上がりますね。この気分の上がり方は、藤原宮跡に行った時と似ている気がします。あちらは都、こちらは国分寺ですし、規模は違うのですが。がらーんとした空間と、それを取り囲む山々があるところが似ています。藤原京跡は大和三山が、上野国分寺跡は群馬の山々が囲っているのです。
さて、上野国分寺跡には、必要なことを過不足なく教えてくれる上野国分寺館という小さな資料館があって、それを見学して、一息ついて、今回の目標は達成。楽しかったです!
ここまでで、まだ昼前だったので、どうしようかなと思ったのですが、暑さで疲れたので、ここから一番近い電車の駅・新前橋駅まで、歩いて帰りました。途中、総社神社にも立ち寄りましたが、こちらもなかなか立派な神社でした。↓
今回の行程は、下記の通り。↓
群馬総社駅を午前9時半ぐらいに出発して、ゆっくり見学・休憩しても昼過ぎには新前橋駅に着くことができました。今回は真夏日だったので、これ以上、歩く気はしなかったのですが、春や秋なら気持ちよく、もう少し色々歩けると思いました。
参考資料:
☆『東国文化副読本~古代ぐんまを探検しよう~』<平成30年度版>群馬県
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