忍耐の心は愛の表現。
我慢とか忍耐のせいで、自分を虐めていた。
私はここでそう何度も書いた。
だから、そんな自分をもうやめよう……自分を1番愛して生きていきたい。
そう思った。
でも、
そう言い聞かせて生きていると、時々心の奥から聞こえてくる音がある。
《忍耐がそんなに悪いことなの?》
《我慢って要らないものなの?》
音がする。
そう生きてきた自分を嫌いになんてなれない。
嫌いになりたくないんだ。
我慢したのは誰の為だった?
忍耐出来たのはなぜ?
《愛する気持ちがあったから》
《愛する人のためだから》
だから我慢や忍耐ができたんだ。
忍耐の心は愛の表現だと思うの。
大好きだからその人のために出来ること
愛しているから思いやるためにしたいこと
人間だからできる修行を神様が授けてくれたのが忍耐だと考えると、
日常で関わる人を愛する時、人は皆何かを我慢したり、抑えたりをして忍耐の修行をしていると思えるの。
私は自分のことを自己犠牲劇場主演女優だと思っていた。
幼いころから我慢と忍耐のスキルを磨いてきた。
それが、自分を傷つけたと思っていたけれど、
その分だけ愛を表現して生きてきた人生だったと思うんだ。
《自己犠牲愛の劇場》だったんだ(笑)
冗談はさておき、
私が忍耐力を育む修行をするたびに、私の愛のチカラも同じように育まれていたと思うと、この人生が愛おしく思えるんです。
私は、全力で人を愛して生きてきたんだなぁ……
そう思えたんです。
***
これも自分自身について内観し、深く向き合ってみないと気付けないことだった。
一度、自己犠牲が自分を傷つけてきたことを認識して、《もうやめよう……》と決めてからの自分の心の動きも丁寧に掬い上げたから見えてきたことだった。
私は愛したいから愛していた。
苦しい気持ちを押し殺しても愛していただけ。
私が、本当にやめることは、我慢や忍耐なんかじゃない。
自分の感情を無視することだけだったんだ。
忍耐した時に、苦しくて悲しかった気持ちも同じように認めればよかったんだ。
「苦しい!ツライ!悲しい!でも、大好きだから我慢してあげる。ゆるしてあげる。って」
私が感じることを許さなかったことだけを悔いたらよかったんだ。
そして、愛があるからできた自分を褒めながら頑張ればよかったんだ。
出会う人すべて、忍耐を教えてくれる先生なのかもしれない。
とくに愛すべき家族はいろんな形で忍耐の大切さを教えてくれる。
言いたいことがあってもなかなか言えないことがあるとき、
「この人は忍耐を教えてくれる先生なんだなぁ」って思うと一呼吸おいて考えられると思うの。
愛する機会……愛あればこそ、我慢や忍耐も乗り越えられるのだから。