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ばあちゃんちとテレビの懸賞の電話
「5555」
4つの番号が読み上げられる。
テレビの前で白いプッシュ式の固定電話の受話器をあげ、いとこが電話をかける。すぐに受話器を置いて、またかける。
夕方5時ごろ、母方の祖母宅の居間。
首振り機能つきブラウン管テレビの中で、ばあちゃん家の電話番号の末尾4ケタと同じ数字が読み上げられたのだ。
その内、いとこは食卓のある部屋で、ばあちゃんはテレビの部屋で電話をかけ始めた。
当時の自宅から歩いて20秒、大人が通るのは少し憚られるような、コンクリート固めの細い道を通ると、祖母の家があった。
少し古い畳の匂いのする部屋で、布団を外したこたつテーブルを囲い、いつも見ていたローカル番組。
その番組中の視聴者参加型プレゼント企画「パネルでポン!」の応募権を得たものだから、いとこと祖母の2人から滲み出る「このチャンスを逃すまい!」という意気込みは凄まじかった。
結果がどうなったのかは覚えていないのだが、とにかくその光景とその部屋の匂いを、強烈に覚えている。
*
ばあちゃん家には、幼いころからよく通っていた。小さい頃に住んでいた家からは1時間弱かかったけれど、母の職場が近かったのと、仕事柄、両親とも夜に家を空けることもあったので、よく遊びに行っていたのだった。
ばあちゃん家での一番の楽しみは、ばあちゃんがくれるキャラメル。そして、「向かいのスーパーでお菓子買っておいで」と渡してくれるお小遣い。
いとこのお姉ちゃんは、よく遊んでくれていて、買い物にはだいたい、いとこたちも一緒に行った。
車が通れない細い道を通り、これまた住人以外はほぼ通らない車道を1本渡る。コンクリートで固められた、用水路のような川にかかった短い橋を渡って、スーパーの駐車場に出る。そこから、そこそこ車の通る道路を渡り、スーパーに入る。
一番下の妹が小さい頃には、いとこのお姉ちゃんの自転車のカゴに妹を入れて連れて行ったりもしたものだ。(危なくない場所だけ)
私はその頃には小学生だったので、カゴには物理的に入らなかったので羨ましかったのを覚えている。
夏にはアイス、もらったキャラメルでは物足りない日はキャラメルを買った。
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ある泊まりの夜には、夜更かし記録を更新した。
当時見ていたドラマなどの時間から推測するに、22時まで起きていたら「すごい夜更かし…!」という感覚だったころ。いとこのお兄ちゃんたちの真似をして、一緒にテレビを見ながらみんなが寝るまで起きていた。初めて2時まで寝なかった。
畳の部屋は、ばあちゃんが寝る部屋と繋がっていたので、夜更かしするのは食卓の部屋だ。
畳の部屋より小さいテレビの前で、目を凝らして画面を見つめた。
テレビの横には、アイスの当たり棒。すすけて灰色になった天井には、うっすらと白い筋がついていた。通販で買った、水をギュッと絞れる機能のついた青いスポンジモップで、ちょっとだけ拭いた跡だ。
泊まる日には、おじちゃんが夕飯を作ってくれた。メニューはだいたいいつも、鶏もも肉のステーキ。香ばしくパリパリに焼いた皮目、塩コショウ、そして、大量のにんにく。祖母宅には食べ盛りの男の子2人がいたので、スタミナメニューと大量の白米が定番だった。にんにくなんてほとんど食べたことがなかったけど、祖母の家でご飯をごちそうになる内に、にんにくが大好物になった。
私たちがいる日には、畳の部屋でみんなで食事した。私たち姉妹といとこたち姉弟では見たいテレビが違うので、度々チャンネル争いが勃発した。
いとこたちは、心霊系の番組を見たがったので怖かった。当時は分からなかったけど、今思えば嵐がMCの番組だったので「ちゃんと見ておけばよかった」と、のちに嵐にハマった時には思った。
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そこから数年後、我が家は母子家庭になったので、祖母宅の近くに引っ越した。
件の徒歩20秒の家だ。
小さな集合住宅で、隣の家には転校先の同級生が住んでいた。
メゾネットタイプの部屋で、1階が食事や生活、2階は寝室と子供部屋だった。
引っ越してしばらくは、前の住人の郵便物が届いていた。苗字の違う女性2人の名前が宛名の欄に並んでいたので、シェアハウスをしていたのだろうか。家族でない友人同士が同じ家で暮らすことがあるのだと、その時初めて知ったのだった。
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母は帰りが遅くなることが多かったので、夕方は祖母宅で過ごすか、自宅で姉妹だけで過ごした。
夕飯は、当時小学4年生の私が料理ができたので、作ることも多かった。
一時期は、「タクショク」というサービスで食材を届けてもらっていた。レシピと、それに必要な食材・調味料がセットになっていて、レシピに沿って調理していけばいいという便利なものだった。だけど、味付けが好みに合わず、作るはいいがあまり食べれなかったので、すぐに取るのをやめた。タクショク期間は永遠のように感じられたが、後から聞いたらほんの2〜3ヶ月のことだったらしい。
結構広めのフローリング張りの床の一角が、一段上がって畳張りになっていた。そこが食卓コーナーだった。
母が帰れない日には、祖母宅に泊まりに行った。何かあっても20秒で行き来できるので便利なものだ。
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引っ越す前も後も、我が家の家族と、いとこと祖母で出かけることは多かった。
ある時は、焼き肉ウエスト。ある時は、マクドナルド。普段はあまり連れて行ってもらえない場所にもいとこたちがいたら行けたので楽しかった。
祖母とは特に出かける機会が多くて、よく温泉に行った。いつも行く温泉には食事処もあって、ばあちゃんは大体てんぷらか刺身を食べていた。
ある一時期、その温泉の受付でおばが働いていた時期もあった。
ある温泉の帰り、車から降りるばあちゃんがつまずいて後ろにすってんころりん転んだ時には驚いた。幸い肘を擦りむいた程度で済んだが、大人たちが慌てふためく様子に恐れ慄いたものだった。
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そのうち我が家も安定し、もともと住んでいた地域へ戻った。それからも祖母宅との交流は続いた。
ある時、祖母が脳卒中を起こし入院した。
その時は無事退院できたが、しばらくするとまた再発した。
どの入院の時かは定かではないが、お見舞いに行ったとき、ベットで点滴を腕に刺した祖母が
「死にたくない、死にたくない」とベッドの上で泣いていた。
その後も何度か祖母は入退院を繰り返した。
そして、いとこが受験生、私が中学2年生のときに祖母は亡くなった。
テスト中、先生が私の机にきて「帰る準備をしなさい」と言った。「今ですか?」と聞いたら「今すぐ」と帰ってきた。
詳細な状況はその時点では把握していなかったが、車で迎えが来るので祖母のところに向かうのだと聞かされた。
いつも子守にきてくれる人が運転してくれていて、小学生の妹たちは既に車に乗っていた。私も乗ると、妹たちはわんわん泣いていた。
真冬でダウンコートを着ていたが、震えが止まらないほど寒かったのを覚えている。
病院についても寒気は止まらなかった。あまりない寒さの感じ方だったので、不思議な感覚だった。まだその時点でも状況は把握しきれていなかったのだが、私たちが病院についた時には、祖母はすでに亡くなっていたらしい。
病院で亡くなった人がどのような手順を経て、葬儀場に移動するのかを初めて知った。
自宅で亡くなると、警察を呼んだりしなければいけなくて大変らしい。そんなことも後に知った。
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お葬式では泣いたけど、「思ったよりショックでは無かったな」と当時は思った。今思えばそれなりのストレスは感じていたと思うけれど。
人間怖いのは、出来事そのものではなく、その前触れなのだな、と学んだ。
ことが起こってしまえば案外受け入れられるもので、その予感・前触れに直面したときにこそ、人は心臓が体の奥深くにめり込むような息苦しさにも似た恐怖を抱くのだと知った。
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それからまた時間は流れ、祖母宅の住人たちも、喜ばしい理由、そうでない理由で1人ずつ離れていき、今では空き家になった。
久々に周辺を尋ねて、思い出の詰まった土地を歩いてみたいと思う。
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