やめるときもすこやかなるときも時を共にしたユニクロは、ダサいころから今でもずっと、いちばん近くにいるともだち。
選ぶ洋服には、自分らしさが現れる。私はどんな色がすきで、どんな価値観を大切にしていて、家庭環境はどうで、経済レベルはどうで、どういう風に見られたくて、どんな人に褒められたくて…
かくいう私の人生は、ずっとユニクロと共にある。小学4年生の頃、はじめてユニクロに出会ったころから。
病めるときも、健やかなるときも、ダサいときも、おしゃれなときも、摩擦が布を分かつまで、それなりにラフに、それなりにフォーマルに、愛してきた。
そんなわたしの、人生のお話。
めずらしくすんなりと学校を休ませてもらえた。
あれは2000何年だったんだろう。小学4年生の七夕の日、わたしは学校をサボって、リビングのひとりがけのソファに寝転びテレビを見ていた。
いつも学校に行きたくないわたしであったが、いつもならどれだけダダを捏ねても休ませてはもらえない。だけど、その日はやけにあっさりと、ズル休みが許された。
小学生にとって、家で一人で過ごす時間はものすごくヒマ。これまたいつもなら、共働きの両親に代わって家事や子守をしてくれる人がいてくれたりするのだが、その日は誰もいない。本当に一人きりで広い家にいた。
はぁ…。休んでしまったからには、お外に出ては遊べない。まだ午前だよう…。
ヒマでヒマでしょうがなくって、給食の献立表を見る。
なんということだ、今日の献立は手巻き寿司!そうか、七夕だからか。特別な献立なんだ!
めちゃくちゃ後悔した。
そうだよ、行事ごとがある日は、だいたい特別な給食じゃないか!なんで忘れてたんだぁ…
だから、その日が七夕だったことははっきりと覚えている。
めずらしくパパがお昼間に帰ってきた。
お昼になる頃には、ヒマさと、給食を食べそこねるがっかり感とで学校に行かなかったことを相当後悔していた。
とにかく退屈で退屈でしかたない…。ようやく時計はお昼を回った。
『ガチャガチャガチャ、キィィィ』
リビングに繋がる勝手口のドアを、誰かが開ける音がする。
「誰か帰ってきた!?」そう思うのとほぼ同時に、父が急ぎ足で部屋に入ってきた。
ピシッとキメたスーツ、整髪料でガチガチに固めたオールバックの髪。いつもは深緑の毛糸で編まれた、茶色のでっかいボタンが付いたチョッキに、ポサポサの頭で仕事にいく父が、この格好をしているということは、なにか大事な用事がある日だ。
相当急ぎ足で帰ってきたのか、軽く息をはずませながら、「おぅ、学校休みか」と父は言った。
ズル休みしたこと怒られるかな??なんて答えようか、とグルグル考えながら返事をした私の口から出た答えは、「ぅぅぅん」なんとも歯切れが悪い。
「そうか。」こっちが拍子抜けするくらいあっさりと、またもや私のズル休みは受け入れられた。
そのまま父は家の奥へ。なんだか慌ただしいなぁ。
それから私のヒマが潰されることはないまま、父は家を出る。
「じゃぁ、パパ行ってくるよ」
そう行って家を出る父と『ゴッチン』をした。
いつも父が家を出る時、我が家ではいってらっしゃいのお見送りと一緒に、おでことおでこをコツン、とぶつける。これが、ゴッチンだ。
いつもどおりゴッチンをして、手のひらにタッチして、父は出かけていった。
これが、父が父であった最後の日。
めずらしく平日なのにばあちゃんちに泊まりに行った。
その日のことだったのか、その翌日のことだったのか、母が帰ってくると母は「ばあちゃんちに行くよ!」と宣言した。
今日は、めずらしくズル休みさせてもらえて、めずらしくお昼にパパと会えて、ばあちゃんちにも行けるなんて!ラッキーな日だな。給食の手巻き寿司食べれなかったのはショックだけどね!
なんてことを考えながら荷物を詰める。
すると母が、「ランドセルも持って!教科書全部持っていくよ!」
ランドセル?教科書?そういえば今日は平日。明日は学校なのにばあちゃんちに泊まるんだ。ばあちゃんちまでは、当時は車で片道1時間ほどかかった。だから普段は週末しか行かない。本当にきょうは珍しい日だなぁ。
「明日の分だけ持ってくの~?」そうはいっても1日泊まる程度だろう、そう思った私は母に尋ねる。
「全部よ!学校で使ってる全部荷物に詰めて!」
全部?どういう事?重たいよ?ランドセルに入んないよ。でも、全部いれっぱなしでいいなら、毎晩時間割を見て揃えなくていいから楽かも!
なんてのんきに教科書を詰める。なんだか旅行の前みたいにワクワクする。こんなに大荷物ででかけるなんて!!
荷造りが終わった私は、退屈だから家の中を歩き回っていた。天井が吹き抜けの玄関。大きな両開きのドアのサイドにはガラス貼りの窓。今日は友だちお外で遊んでるかなあ…??
前に、家の窓から外を眺めていたら、ピングーみたいに長い棒に風呂敷をくくりつけて担いだ、隣の家の子が外を歩いていたことがあった。そんなことがないかなぁ、なんて思いながら窓の外を覗いていた。
すると、「窓に近づいちゃダメ!」ちょっと怒ったようなトーンで母が言う。
えー、なんでー。そんな気分で窓から離れる。
次にその家に帰ったときには、朝食べ終わった食器が出たままの食卓や床に、目で見て分かるほどのホコリとカビが積もっていた。
今日からあなたは…
その日から、どれぐらいの期間の出来事だったのだろう。
毎日祖母の家から学校に通い、祖母の家に帰って、習い事は辞めて、転校することになって、前の学校でお別れ会をしてもらって、名字が変わった。
「先生がお別れ会しますか?ってお母さんに聞いてみて、って言ってたよ」と母に伝えたら、「そんなこと聞くなんて無神経な先生ね」と言った。結局お別れ会はしてもらった。そんなに学校に思い入れがあったわけでもないけど、定番の感動シーンでは必ず泣けてしまう私は、ザ・お別れの雰囲気に目を真っ赤にして泣いた。自分が主役の会が学校で開かれるなんてそうそう無い。お別れが悲しい、っていうより、自分が主役になれて嬉しかったなあ…。
それが夏休み前の話。
夏休みの間は、いとこたちと普通の夏休みを過ごした。というか、ずっと祖母の家にいるから、いつもの何杯もたくさん遊んだ。「パパのこと誰かに聞かれても何も知りませんって答えなさい」って言われてる事以外は、なんの変哲もない、ただただ楽しい夏休み。
やがて夏休みが終わると、今日からは転入生。
「いい?今日からみんなの名字は寺田になるの。前の名字を間違って言っちゃダメよ。」
ふ~ん、そうなんだ。
その時は、祖母の家から叔母の家に移っていた。1回だけ母は、子供もいる前で顔を手で覆い隠して声をあげて泣いた。
新しい学校生活では、新しい名字の私。
「てらだゆかり」「てらだゆかり」何度も練習した。うまく言えるかな…。緊張して始業式の日を迎えた。
今日からわたしはてらだゆかり
新しい学校への初登校。もともと人見知りで、コミュニケーションが得意じゃなくて、学校も好きじゃなくて、なんなら人間もちょっと嫌いだった私は、学校の廊下で、階段をのぼるのを渋る。その様子を見ていた妹も、マネして渋る。
背中を優しく押して階段に向かわせようとする先生に、身体を棒のように硬直させて抵抗する。
4年生なのに恥ずかしい…。そう思ったけれど、先生はなぜか怒らないでいてくれるし、たしか母も廊下までは一緒だった気がする。なんだか甘えても許される気がして、ちょっと長めに抵抗してみた。
まぁ、抵抗虚しく教室の前に到着。私もそろそろ抵抗して励まされてのロールプレイングゲームに飽きてきて、さぁ、行きますかぁ、て感じでスタンバイ。
これから、転校生の恒例行事、『みんなの前で自己紹介』の時間だ。
テレビでしか見たこと無いよぉ…
ちょっと不安だったけど、目立ちたがりの私は、多分テンションが上がっていた。そして、緊張もしていた。
先生に呼ばれて、教室のドアを開ける。
黒板には私の名前。自己紹介。「てらだゆかり」「てらだゆかり」練習した通りに。
「なか、、、、てらだゆかりです!」
おっと危ない、昔の名字をいいかけた。先生はなんだか、焦ってフォローをしようとしてくれているようだ。
大人にとっては、転校生で、両親が離婚して、今日から新しい名字を名乗る子供をどう扱っていいかすごく気を使っていたみたいだけど、名字が変わったことや親が離婚したことに対するわたしの感情はかなり薄かった。
というか、考えたところで、悲しんだところで、抵抗したところで、今更どう変えようもない事実なのだということが、子供ながらに分かっていたからそこに対してなにかしようという気持ちを持つことをしなかったというか。
思えばこの声質は、きっとここから始まって今も自分の大部分を占める考え方なんだけど、その話はたしか別のnoteに書いたことがあった。
我が家の中で時代が変わった。
ここまでの出来事が、何ヶ月か、何週間か、はたまた何日間か、どれくらいの期間のことだったのかはあんまり覚えていないのだが、新学期が始まる頃には居候をやめ、祖母の家のすぐ横の、集合住宅の一室を借りた。
それまでに住んでいた家は、玄関は吹き抜け、こだわり抜いたデザイン、子供部屋には滑り台、アップライトピアノ、ベッドで飛び跳ねても、大声で歌っても、廊下を走り回っても特に問題ない。外に出れば子供が走り回って遊べるスペースと、親の目が行き届くコンパクトさ。そんな住環境だった。
そこから一変して住んだ家は、静かにあるいて、大声は出さないで、走り回るのはもちろんダメで、飛び跳ねるなんてもっとダメで、ピアノはないし、家の前は駐車場か車が通る道。
それまでたったの1回だけしか行ったことがないファミレスは、外食の日の定番になった。
いままでバジャックで買っていた服は、しまむらか、ユニクロになった。
はじめてユニクロに行った日
それは真夏のある日で、新しい学校に通い始める直前の夏休み。しまむらで買ったワンピースが、たった1回洗濯しただけで破れた。
「紙やん!」「洗ったら溶ける!」
大人たちが、そんなにすぐ破けてしまうしまむらの服を揶揄してそういった。私もマネしてそういった。
母子家庭になって、今までのような暮らしはできなくなった我が家。小学生なんて、すぐ汚して、すぐ身体がでかくなる。洋服代は抑えたい。
だけど、何時も同じ格好だとか、ボロっちぃ服を着ているだとか、そういう見られ方をして子供が傷つく状態は避けたかったのだろう。
枚数を買っても費用は抑えられる、お安い洋服屋さんを探していた。
そんなある日、母はどこからか「ユニクロっていうのがあるらしい」という情報を聞きつけた。新オープンのタイミングだったんだろうか。わりと近所にあるユニクロに、新しい洋服を買いに行った。
大きな建物、煉瓦の壁、ドーム型の屋根。なんだか体育館みたいだなぁ…。というのが最初の印象。中に入ると、高い天井。内側から見ても屋根はまあるい。
目の前に広がるのは、何列、何行も並んだ棚、棚、棚。
とにかく、その広さと服の量に圧倒された。天井にはたくさんの照明があったから、目を見開いて店内を見回す私の目は、たぶん輝いていただろう。そしてたぶん、すごくワクワクしていた。
その時どんな服を選んだかは、もう覚えていないんだけど、あんなに広い店内をグルグル歩き回って、じぶんひとりで好きな服を選んで母のところに持って行く、そんな服の選び方をしたのははじめてだったんじゃないかな。
そうやって選ぶのが、難しくて、楽しくて、たぶんちょっとファッションに目覚めるきっかけになった。(この頃のユニクロは、今の数万倍ダサかったのだけれど…)
3◯◯日ユニクロ
実は、ユニクロを初めて着たのは、これよりもっと前だった。
遡ること2年前、小学2年生のときだ。習字の時間が終わって、水道で筆を洗う。何かの拍子にズボンに墨のシミがついてしまったんだけれど、まぁいっか、ってスルーした。『汚れていい服』だったから。
その時履いていたズボンが、ユニクロだ。
同じ商品の色違いを何枚か持っていて、黄色、水色…。カシャカシャした素材の半ズボンで、裾が少し広がっていて動きやすいデザイン。お腹のところはゴムになっていて、黒いゴム紐と、ボタンを押してゴムの長さを調節するためのプラスティックの部品。
当時の私はファッションというものにまるで関心がなくて、こだわりといえば『女の子っぽい服は着たくない!』ということくらい。たぶん、親がサイズを見て買ってきてくれたズボンだったんだと思う。楽だし、動きやすいしでよく履いていた。
4年生になって自分で選ぶようになってからは、なぞの宇宙人みたいな絵が書いてある謎のTシャツ、タートルネックのフリース、キース・ヘリングのイラストが書かれたTシャツ、らくだ色とも茶色とも言いがたい謎の色に、首元だけ謎の深緑のフリースなど、品揃え自体もなかなかにダサくなかなかに意味不明だったのだけれども、私のチョイスも謎だった。
4年生のうちは、多分はじめて行った日からほぼ毎日ユニクロを着ていたんじゃないだろうか。もともと流行やファッションにまったく興味がなかったわたしは、形のパターンが決まっていてそこから好きな色と機能性で選ぶ、そういうスタイルのユニクロにすごくマッチした。
当時のユニクロはめちゃくちゃダサかったから、おかげでわたしはすごくダサかったと思う。
ちょっとファッションに目覚めた私とユニクロ
5年生になって、転校して新しくできた友達の価値観にも馴染んでくると、ちょっとファッションに興味を持ち始めた。あの頃はファッションと言えば何を参考にしていたのだろう??漫画雑誌のページか、中のいい友達か、クラスのモテる女の子だろうか。
とにかく、いままでの自分の服装にゲンナリしはじめて、いままでとは違うテイストの服を求めるようになった。ちょうどその頃、全部おんなじような服ばっかりだったユニクロから、少し変わり種というか、これはおしゃれなんじゃない?と言えるようなデザインの服が出始めた。
そのころに買った、ショッキングピンクのストレッチ素材でできたポロシャツはそれから何年も、だいぶ長い間愛用した。
たぶん、ピンクが嫌いだったわたしがはじめて気に入ったピンクの服で、助成らしさや可愛らしさ、若々しさはありつつもスポーティーな感じに惹かれた。
ユニクロの中でも、おしゃれに見える服を選ぶようになったのがこの頃だった。
引きこもりのわたしと全身グレーのユニクロ
そこからは、えらぶ対象の服屋さんも増えて、まぁそれなりにオシャレに気を使って過ごしていたのだが、中学生、高校生と制服を着るようになると私服を着る機会はグンっと減る。以前のようなユニクロヘビーユーザーではなくなった。
だけど、ユニクロへの信頼感はその頃にはすっかり出来上がっていて、特にジーパンは必ず、ユニクロで買っていた。昔は2本で値引きとかになっていて、今よりだいぶ安かった。ユニクロならいつ買ってもサイズは同じだし、裾上げもしてもらえるし、他のお店で買物するついでに寄れる場所にあるし…。
洋服はシーズンごとにまとめ買いする家だったけど、洋服を買う時にユニクロに寄らないことはなかった。
時は流れて19歳。私はまた、ファッションに対する興味を失っていた。というか、自分を着飾る余裕もなかった、というか、自分自身に対する興味を失っていた、というか。
ほんの1年ほど、渋谷の近くで一人暮らしをしていた。華やかな街のすぐ脇に、全身グレーの私がいた。
その頃のわたしは引きこもり。たまに買い物か散歩にでるくらいで、それ以外はずっと、大都会・東京のど真ん中で、古ぼけたアパートの部屋の中にいた。
たまに外に出るときには、一応外に出てもおかしくないと思える格好をしていた。グレーのジーパン、グレーのロンT、そして、グレーのダウン。短い髪がぴよぴよ飛び出した、ぼさぼさ頭のポニーテールをして、渋谷の街まであるいて出かけたりしていた。
ユニクロに並ぶ服に、ちょっとだけバリエーションが出てきて、ウルトラライトダウンとか、ヒートテックとか、そんな感じで機能的にすぐれたシンプルな服が帰る場所、と世間のイメージが変わってきた頃だった。
働く私、仕事着のユニクロ
そこからまた数年。私はようやく社会復帰を果たした。
実家に戻って、近所のスーパーで働き出したのだ。そこで定められた服装は、黒のポロシャツに黒のズボン。もちろん、私はユニクロでそろえた。
走り回って、重いものを上げ下げし、ボロボロになる身体と一緒に、ポロシャツの襟はクタクタになって、ズボンは摩擦で何本か破けた。
ここでの思い出もかたりきれないほどあるのだが、長くなるのでやめておこう。とにかく、暑いときも、寒いときも、ユニクロの服に包まれて過ごした。
お客さんに怒鳴られて泣いた。同僚とすれ違って泣いた。大人の汚さとずるさに染まるまいと抵抗し、大人の図太さとあざとさを手に入れて強くなった。
タバコは吸わないけど、仕事終わりに喫煙所についていって何十分もしゃべったり、事務所でお茶とお菓子を広げて何十分もしゃべったり。
ボロボロにすり減ったり、補われたりしながら、人として育った。
だんだんと、ユニクロの服が「お手頃価格」ではなくなっていった頃だった。
一人暮らしと、白いワイシャツ
3年ほど経って、また一人暮らし。今度は引きこもりじゃない。
家と職場の往復に、白いワイシャツと黒いズボン。
便利な場所に住んでいたけれど、職場と最寄りの駅以外、ほとんどどこにも行かなかった。
家で過ごす時間は気楽だったけれど、なんの刺激もない毎日。長時間働いて、仕事が終わると、動画をダラダラ見て時間が潰れた。
たくさん楽しいことしよう、と思って都会に出て、実際あるのは「いつでも行けるから」とどこにも行かない毎日。だんだんと、だんだんと、豊かな感性は輝きを失っていったように思う。
なにか新しいことをしよう、と意気込んでは、少し手をかけて終わる日々。なにも変わらない、なにも積み重ならない。なにも中身がない気がする毎日を過ごした。
いつもイライラして、楽しいことなんてあまりなくて、ただ与えられた代わり映えしない仕事だけを毎日毎日何時間も繰り返す。
ユニクロはすっかりおしゃれになって、GUの存在感も増した。海外にもどんどん展開して、なんだか、ずっと一緒に居た似た者同士の冴えない幼なじみが、華やかになって遠い世界に行ってしまったような気分だった。
いつも、いちばんちかくに
そして今。わたしは今日もユニクロの服を着ている。ユニクロというよりは、GUの服を着る機会の方が増えたかな。
かわいらしい小花柄がきいろの布地にちりばめられた、形がきれいなスカートに、キャラクターとコラボした、おもしろTシャツ。うすむらさき色がかわいい、ヒール付きのサンダルを着て、さんさんと日が差す街を歩いている。
いまだって、これからもずっと、暗闇に迷い込むことはあるけれど、もう自分で道を選べるし、楽しいことは楽しい、っていえる。
病めるときも、健やかなるときも、ダサいときも、おしゃれなときも、飽きるまで、破れるまで、何着ものユニクロの服を着ふるしてきた。
無邪気なわたしも、荒んだわたしも、希望に満ちた日も、打ちひしがれた日も、いつも、いつも、ユニクロの服を着ていた。
これからどれだけ高い服を買っても、安い服を探しても、きっと私のワードローブには、必ずユニクロの服がある。
病めるときも健やかなるときも時を共にしたユニクロは、ダサいころからいまでもずっといちばん近くにいるともだち。
おいしいごはんたべる…ぅ……。