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しがない小説家(ショートショート)

 私は小説家だ。といっても有名だとか売れているだとかでは全くなく、自分でもなぜこんな因果な生き方を選びたくなったのかは分からない。自分がやりたい事を素直に選んだ結果、このようになった。
 紙の上に直接文章を綴る機会はずいぶん少なくなったが、真っ白の原稿を目の前に煩悶する日々、というのはいつの時代も変わらないものではないだろうか。変わったのは時代と道具ばかりで、向かい合うのがパソコンの画面になっただけの話だ。
 ただ私にはもう一つ、他の同業者には無いであろう悩みもある。

 職業柄というわけでもないが、小説家などやっていると、ときに文章に関する質問や相談を受ける機会がある。先日、付き合いの長い友人と食事がてら話をする機会があった。彼も私と似たような『悩み』を抱える一人だ。
「悪いね、また俺の仕事に付き合わせて」
 友人は苦笑を交えながら言った。こんな風にお互いの悩みを打ち明けあってから交流が始まり、もう何年くらい経つだろう。出会いは学生時代にまでさかのぼる。
「構わないさ。私らの悩みは他の人には理解できんよ」
 彼は普通のサラリーマンで文章家ではないが、仕事の一環で文書や書類の作成を行う場合がある。彼はそういった文書の作成、というより文章を書くこと自体に苦手意識を持っていて、時々、私に相談を持ち掛けてくる。他の仕事は何でもこなせる優秀な人物だけに、書面での失敗を恐れている部分もあろうか。
「細心の注意を払いながら文章を書いているつもりだが、やはりまた妙なことになっちゃいないかと不安でね。重要書類になればなるほど憂鬱になってくる。まったく因果なものだ」
「日常でも使いがちだからな、うっかりやらかす気持ちも分かるよ」
 私は彼の持ってきた書類の下書きに目を通す。社外に漏らせない部分を前もって伏せてある以外は、不自然なところは特にない。誤字脱字の類もなく、分かりやすく整ったビジネス文書だ。それでも彼は、自分の書いた言葉は間違っていて然り、気が気でないのだから――と私にいつもチェックを頼んでくる。まあ断る理由もなく、こちらにとってもいい気分転換になるから、今日のようにたまに会っては話を聞いている。

「大丈夫だ、どこも間違っていないよ」
「そうか、良かった。いつものことながら安心するよ。ありがとう」
 彼は携えた鞄にそそくさと原稿を仕舞いこむと、ようやく落ち着いたようだった。その様子を見て、私もまた胸を撫で下ろす。力になれたなら何よりだ。
「似てるとはいえ、俺より面倒な悩みを抱えながら小説家をやってるきみを見てると、なんだか自分が情けないよ」
 無事にひと仕事を終えた友人が、ため息とともにそう話す。
「それはお互いさまというものだよ。書くたびに『気』が『気』でない、そんなつもりもないのに何故か『気』が別の何かになっている、なんて私でも難儀するさ」
 そう、友人の書く文字は常に『気が気でない』。『気』の文字が謎の図形のようなものに変わるのだ。たとえばうっかり『気になる』『気がかり』などと書くと、途端に『☄になる』とか『✵がかり』みたいなことになる。よく使う文字だけに平仮名にすると誤読のもとになりかねず、他の漢字で代用もできない。何故そうなるのか、理由はまったく分からない。
「そんなものかな。ま、分かってくれる人がいるだけでも有難い話か。また何かあったら、チェック頼むよ」
 上機嫌で去っていく彼を見送って、私も帰途についた。 

 ところでこの友人の不可解な悩みを理解できるのは、私もよく似た悩みを持っているから、というのは友人の言っていた通りだ。私が抱える人生最大の悩みといえる。ただ私の場合は漢字ではなく、平仮名および片仮名である。
 五十音図で言うところの『さ行い段』に位置する、その仮名一文字だけが、どうやっても表記できないのだ。静音でなく濁音で書こうとすれば、濁点のみになる。間違いなく小学校で習ったはずで、発音もでき、漢字やローマ字であれば同様の音を持つ文字を書くこともできる。ただ、さ行い段の仮名一字だけが、どうやっても表記できないのだ。
 そのような事情もあり、私の文章には『さ行い段』の仮名がひとつも含まれていない。それでいて何故小説家などになったのか、理由はまったく分からない。

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神月裕
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