隣人はFOOL!
運命に導かれるかの如く邂逅を果たす勇者と魔王。史上稀に見るスケールの小さな戦いが、今、始まる!
プロローグ
世界は震撼した。
長く平和を甘受していた人々の前に、突如として『魔王』を名乗る存在がその禍々しき姿を現したのである。
魔王――地方によってはイケメンだったり美少女だったりしてすっかり風格の薄れつつあるそれだが、このとき現れたのはそのような類のものとは一線を画す、まさに魔王と呼ぶにふさわしい形貌を有していた。
黒色に近い肌と尖った耳を持ち、見たもの全てを射殺す様な血の色の両眼を備え、それでいて概ねヒトと変わらぬ姿をとる魔王は、まさに人間の『悪』をそのまま象ったかのような存在として、あまねく人々に恐怖を与えたのだ。
「聞け人間どもよ、我は魔王、魔を統べるもの! 今ここに人の世の破壊と、それを遂行する魔王軍の誕生を宣言するものである! 貴様等人間の誇りと尊厳はこれより地の底深くにまで堕とされるものと知るがいい!」
全世界の空に同時に現れた巨大な幻影は、幻影と分かってなお魔王の持つ強大な力を知らしめ、畏怖を植え付けるものだった。
だが。人々の中にはただ恐怖するばかりでない者も、確かにいたのだ。
人知れぬ世界の片隅、辺境の村にあって、ひとりの青年が『勇者』として旅立つ決意を固めたのである。
◇
旅立つ決意を固めたのち、勇者は静かに時を待っていた。
決して暇を持て余していたのではない。時を待っていたのだ。
「勇者たる者、やはりまずは王様に呼ばれなければ話にならないからな」
己の『勇者』に対する美学を貫き通そうとするこの青年は、とりあえず決意だけ固めておいて、後は偉い人からお声がかかるのを待つことにしたのだった。
もちろん本当にただ待っているだけではダメだというのは一応この青年も分かっているつもりで、行動して名声を得ないことには、とは思っていた。
夜は生活費のために炭坑夫のバイトをしなくてはならないため、昼のあいだに近所のノラ犬を一方的に懲らしめたり、子供のケンカに思い切り横槍をぶち込んだりしながら、それで名を上げられるととりあえず信じていたのである。
彼は一定までの努力は惜しまない一見して真面目な青年なのだが、実際のところ、いわゆる『真面目系クズ』などと揶揄されるタイプの人間であった。
炭坑夫のバイトもそれなりに長いのに給料は上がらず、村のはずれの古い集合住宅の家賃を払うだけで精一杯。外に出たら出たで住人のほとんどに白い目で見られる――そんな『勇者』にも、転機となる瞬間がやってきたのである。
第一章
決意を固めてから、のんべんだらりとひと月ほどが過ぎたある日のこと。
朝。勇者が居を構えるボロアパートの二階の一室、その扉が控えめな力でノックされた。
「いったい誰だ、こんな時間に」
周囲からそれなりに疎まれている勇者のもとに、来客はほとんどない。夜遅くまでバイトに身を窶しているため、午前中の客など相手をするのも面倒だ、というのが正直なところだった。
だがしかし、これからいつかおそらくそのうちやる気になったときには勇者として民草の期待を背負わねばならぬ身である。勇者はあくびを噛み殺しながら玄関の扉を開けてみることにした。
「あ、初めまして。ワタクシ、隣の部屋に引っ越してきた者でして。あ、コレ。つまらないものですが」
扉の前には風変わりな男が立っていた。どうも空いていた隣の部屋に引っ越してきたらしい。ただどうしてか、初めて会うはずなのにそんな気がしない。勇者はとりあえずもらうものをもらっておき、その男をしげしげと眺めた。
初対面なせいもあってか、男は異様に腰が低い。
けれども、黒色の肌、尖った耳、赤い両目、どれも見覚えのある物ばかりで。
「あ、珍しいですか。ですよね。ワタクシ、つい先日まで魔王を名乗っておりまして」
「ま、魔王ッ!!」
なんと となりに引っ越してきたのは 魔王だった!
「クッ! 魔王め、まさかこの勇者カインの覚醒を防ぐために自らこの地へやってきたというのか!?」
「貴様まさか……人間の中より選ばれし勇者だとぬかすか。笑止! 貴様なぞ知らぬ、だが勇者を名乗るものである以上は戦わねばなるまい!」
いつか自分から倒しに行こうと思っていた魔王が一切の脈絡も前触れもなく隣の空き部屋にやって来て焦る勇者。魔王も魔王でさっきまでの腰の低さはどこへやら、とりあえずライバル的肩書きを振りかざす勇者を前にして、瞬時にそれらしい体裁を整える変わり身の早さはまさに王たるもののそれであった。
「望むところだ! このアパートの平和は、オレが! 守ってみせるッ!!」
売り言葉に買い言葉で、玄関口での戦いはさらにヒートアップする。
「ほざけ! 貴様を打ち倒した暁には勇者の脆弱たる様を詳細にレポートにまとめ、回覧板にてご近所に知らしめてくれる!!」
もはや衝突は時間の問題、そう思われた。しかし、終焉は突然に訪れた。
「うるせェぞ!! 朝っぱらから騒ぐんじゃねえ!!」
「「スミマセン」」
下の階の住人に怒鳴られ、二人は素直に頭を下げるしかなかったのである。
◇
ひとまずクールダウンした勇者と魔王。二人は冷え込みの増してきた冬の朝の寒空の下で戦いを繰り広げていたことに、今ようやく気付いた。
「ぬう、戦いは避けられぬ。しかしご近所の迷惑になるような行為はできぬか」
「このアパートはひたすら壁が薄い。大声など出そうものならたちまち大家さんに目をつけられてしまう」
両者ともこのアパートを叩き出されてしまえば行くあてはない。派手に決着をつける舞台を、どこかで落ち着いてひかえめに打ち合わせする必要があった。
「仕方がない――勇者よ、貴様の部屋で合理的かつ見栄えのする戦いの方法を模索しようぞ」
「断るッ!!」
「何ィ!!」
周囲に迷惑をかけまいとする魔王の提案を、しかし勇者は一蹴した。
「元来、自分の居城に攻め入られるのは魔王の役目。勇者は冒険の果てに魔王の玉座を目指すもののはず。魔王が勇者の家に上がり込むなど聞いたことがない!」
「ちいっ、確かにその通りよ、我も元々はそのような事態を想定して自分の城をダンジョンにしておったわ……ッ」
高らかに自説を展開する勇者に、魔王もまた歯噛みなどしながら同調する。だいたいの英雄譚において『ラスボス』として待ち受けるのは魔王の方で、逆はあまりない。
「――よかろう。貴様がそう望むのなら、混沌渦巻く我が暗黒の居室に招き入れてやろう。光栄に思うがいい」
結局、二人は魔王の部屋で話し合いを繰り広げるという結論に至った。魔の棲み処への扉が、静かに開かれる。
「く……さすがに混沌と称するだけのことはある。それに、なんという瘴気だ」
魔王の部屋に一歩を踏み入れた勇者は思わず目を覆った。混沌――まだ片付いていない荷物の数々――が狭い部屋の方々に散らばり、瘴気――ホコリまみれの空気――が、強烈に目と喉とを灼いた。
長く使われていないランプは今や機能を停止しており、日当たりのすこぶる悪い部屋はまさに暗黒と称するにふさわしい。
それでも、部屋の主たる魔王が雨戸と窓を開けると、何とか光を取り入れることができた。部屋の真ん中に置かれた小さな丸テーブルが、不気味にその姿を浮かび上がらせる。
「クク……かつての魔王城ほどの荘厳さはないが、闇の濃さはなかなかのものだろう。好きなだけ膝を折るがいい、勇者よ」
ボロアパート住まいだというのに、魔王はそれほど気落ちしていない。いやまて、それよりも。
勇者はひとまず床に腰を下ろして、率直に聞いた。
「なぜ魔王たるお前がこんなところにいるんだ――!?」
彼はつい先日、世界に向けて宣戦布告したばかりのはずであった。普通なら玉座にどっかりと腰を落ち着けて、それこそ『ラスボス』として不敵な笑みの一つも作っていそうなものではないか。
「クッ。よくぞ聞いてくれた……」
魔王は口の端を歪めると意味もなく漆黒のマントを翻し、やがてテーブルを挟んだ勇者の向かい側に座った。余裕の態度を崩さない魔王。しかし、その口から語られたのは衝撃の事実だった。
「我は今やもう、既に。魔王ではないのだ。正確に云うならば――そう、『元・魔王』!!」
「バカな! お前が人類の敵として宣戦布告したのはほんの一か月前のことだったはず、別の勇者に討伐されたとしても早すぎる!」
「フッ。この我が人間に倒されるだと? 馬鹿を言え」
気が付いてみればいつの間にか肩書きを失っていた元魔王。勇者は強力なライバル――別の『ちゃんとした勇者』の存在を危惧したが、どうもそういう事情ではないらしい。
「王の座について舞い上がった挙句に準備諸々にカネをかけすぎてしまい、仕えていた者たちへの給料さえ払えなくなってその座を追われただけのこと!」
「全世界に向けてあれだけ派手に宣戦布告した魔王が、もう金欠で失脚だと!?」
「そう! 思えばあの大規模幻影術の開発費を抑えておけば我が国はもう少し健全な財政を保っておられたわ!」
魔王は才覚も、民を従えるだけの謎のカリスマも備えていた。だがしかし、段取りがニガテで、先を見通す力、計画性というものが皆無だったのである。
「このような辺境の地まで逃げてきたことは確かだ。だが我が魔力が失われたわけではない。寧ろ人間どもが幻影に気を取られている隙に、ここから再び勢力を拡大してくれる」
それでいて、魔王はムダにポジティブであった。
「流石に一度は頂点を極めた者、常人には理解できないスケールのデカさと立ち直りの速さ……!」
勇者は勇者で、妙なところに感心し驚嘆するばかり。しかし勇者は気付いた。
「いや待てよ。そもそも既に魔王でないのなら、勇者であるオレが戦うまでもないのでは」
「笑止!!」
的の端をギリギリかすめる勇者のツッコミに、だが魔王は臆する様子もない。どころか、正座のままで器用に胸を張る。
「例え数日なれど、我が魔王を名乗り君臨したのは事実。その瞬間に我は魔王という王家の血筋となったのだ。初代だろうが一世だろうが、それが一瞬だろうが、血筋には変わりない!」
「盛大に政治を失敗しておいて、たった一瞬の事実だけで威厳を保とうだと……!!」
「ならば問うが勇者よ。貴様は何か公に認められる実績を収めたことがあるのか。我は貴様の名など聞いたことがない」
「実績? あるわけがないだろう」
魔王の至極もっともな問いかけに、今度は勇者が朗々と答えた。
「勇者とは、勇気ある者。つまりは勇気さえあれば誰がいつどこで勇者を名乗ろうとも自由、そこに実績も能力も関係ない!!」
何の自慢にもならない持論をめいっぱい力強く語る勇者。だが魔王も魔王、持ち前の前向きさで勇者の言葉を最大限都合よく解釈した。
「成程な。我を目の前に己の無能を堂々と語る、それ即ち勇気、か!」
「自称であれオレは勇者、お前はどれだけ腐ったとて魔王。魔王がいるなら勇者はそこに存在せねばならない。前言を撤回するぜ、やはりオレたちは戦う運命(さだめ)にあるようだ」
結局のところ、両者のアイデンティティはあやふやな定義とごくわずかな事実とで辛うじて保たれていて、かつ両者ともそれで満足なのであった。「望むところよ。だが――どうする」
四畳半一間で鋭い視線をぶつからせつつ、しかし魔王は声をすぼめた。「ここで戦っては、ご近所の皆様に騒音や振動で迷惑がかかってしまう。真剣勝負に水を差されるのも避けたい」
越してきたばかりの魔王としては、これ以上アパートの住人や大家さんの機嫌を損ねるのは避けたいところであった。
「フッ。案ずるな魔王。今の季節、戦いにちょうど良い機会が用意されている。引っ越してきたばかりのお前が知らないのも無理はないが、な」
が、勇者は魔王憂いを見透かしたかのように涼やかに笑う。
「我らが雌雄を決するのにちょうど良い機会、だと?」
「そうだ」
勇者が語ったその機会とは――。
「その名も『村民運動会』!!」
「村民運動会!?」
「村全体を二つのチームに分けて優勝を争う、これぞ誰にも迷惑をかけず正々堂々と戦える最上の機会!」
「クク、そういうことか。それぞれに部隊を率いて覇権を争う……いずれは世を治めんとする魔王、そして勇者には確かに必要な才覚よ。よかろう、我らが戦いはその日まで預けよう!」
こうして世界の命運(ごく一部)は、この村の運動会に委ねられたのである。
第二章
「こ、これはッ! 一体どういうことだッ!!」
決戦を数日後に控えた、ある日。
勇者が扉を開け放った先で見たのは、床に倒れ伏した魔王の姿だった。「魔王が――死んだ!?」
突然の事態に、勇者は思わず叫んだ。勇者は敵情視察だの魔力の暴走を食い止めるだのといった適当な名目で、二、三日おきには魔王の部屋に出入りしていた。つい先日会ったときには何ら変わりなかったはずだが。
「侮るな、勇者よ……この魔王、が……そう簡単に、死にはせん……!」
勇者の声に反応して、魔王の指先がぴくりと動いた。確かに死んではいないが、今にも絶命せんばかりの様子である。元より血色の悪いものがさらに悪化し、この世のものとは思えぬほどの形相となっていた。
「何があった、魔王!」
「クッ。この魔王……一生の……不覚」
「!! まさか他の勇者が――」
勇者の表情がこわばる。魔王は内腑を吐き出すかのように、なかばうわ言のように、苦々しくその口を開いた。
「我とも……あろうものが……空腹で、倒れ、る、など、と……」
魔王は、腹を空かせて動けなくなっていたのである。
「く、空腹――!」
万年貧乏暮らしの勇者にも飢餓の苦しみには覚えがあった。こうしている間にも、魔王の体力がなくなっていくのが分かる。
「新た……な、……の調合……。寝、食、も、忘れ……」
息も絶え絶えの魔王。このまま放っておけば戦わずして勝利が見える。だが、しかし。
「くそッ!!」
勇者はわずかな迷いを振り切るとアパートの階段を駆け下り、一心に何処かへと駆けていった。ややあって再び戻ってきた勇者の手には、なんと食料が握られているではないか。
「さあ魔王、これを食え。ポーションで炊き込んだ米を使ったおにぎりと、野菜の代わりにやくそうを挟んだサンドイッチだ」
「ならぬ……勇者に……施し、な、ど……ごふっ!?」
魔王は頑なに食べるのを拒もうとしていたが、勇者は無理やり魔王の口の中に食料をねじ込んだ。実際のところ空腹に耐えかねていた魔王はそれを吐き出すこともせず、やがてみるみるうちに活力を取り戻した。
「クッ……何たる屈辱、貴様、なぜ我に施しなど――!!」
取り戻した刹那に身を起こし、食って掛かる魔王。
「勘違いするなよ。お前を倒すのはこのオレと決まっているのだ、満腹度が尽きて自滅などされては困るからな」
勇者もまた、ここぞとばかりにしたり顔で魔王を見下ろした。
両者に緊張が走る。しかし戦いの日を目前に、どちらも驚くほど冷静であった。
「この村のよろず屋は品ぞろえが豊富で夜遅くまで開いている。小腹が空いた時などには利用することだな、魔王」
「フン、忌々しい男よ。その言葉――決して忘れんぞ。用が済んだならさっさと帰るがいい」
睨み合いは、ほんの一瞬。しかし二人は、その一瞬のうちに決戦に懸ける互いの想いを汲み取ったのかもしれなかった。
◇
いよいよ戦いを翌日に控えた、夜のこと。
「し、しまったあ――ッ!!」
勇者はあまりの衝撃に声を上げた。慌てて両の手で口元を覆ったが、どこまで聞こえているか分からない。それほどまでに、衝撃であった。
「しょう油を、買い忘れている!!」
確かに衝撃であったのだ。少なくとも、勇者にとっては。
勇者は独り暮らしのわりに料理が得意でなく、本人も味にはこだわりがない。故に焼くか炒めるかしかできず、味付けともなればそのほとんどを塩またはしょう油に依存していた。勇者にとってしょう油が切れているとはつまり、素焼きしただけの、味に乏しい食事で明くる朝を迎えなければならない、ということに他ならなかったのである。
「塩だけでは単調、しかしあまりに薄味では満足感がなく力が出ない。このままでは明日の戦いで敗北を喫してしまう……!」
無論、しょう油のみならず手頃な食品などをよろず屋に買いに行くという選択肢がないわけでない。しかし、明日に備えんがために親戚の危篤をでっち上げて本日分のバイトを休んだ身としては、軽々と外出するのは憚られるのだ。もし関係者に見つかろうものなら、フリーターですらなくなる可能性も出てくる。
勇者の脳裏を手痛い敗北の予感が過った、その時であった。
「クックック、勇者よ。随分と懊悩しているようだな」
「その声は魔王! ちいっ、明日を待たずして惨めなオレを嗤いに来たというのかッ!!」
いつか聞いた控えめなノック、その後に魔王の声が続いた。頃合いを見計らったかのような登場に、勇者の額には焦燥の汗が浮かぶ。
「何とでも言うがいい。邪魔をさせてもらうぞ」
勇者の返答を待たずしてドアノブが光を放つ。たちまち玄関扉が開け放たれ、戸口には両手鍋を抱えた魔王の姿があった。勇者はすでに扉を施錠しておいたはずで、魔王自身は今なお両手が塞がっている。しかし魔王はその強大な魔力のみをもって扉を開き、勇者の部屋へと侵入を果たしたのだ。
「何故だ、何故オレが苦しんでいると解った!?」
「貴様の叫びが薄い壁から漏れ聞こえ、我の持つ水晶玉で様子を探ってみれば、しょう油を、ひいては食を渇望する貴様の無様な姿が映し出された。ただそれだけのこと」
勇者の部屋にはちゃぶ台がひとつのみ。魔王はにべもなく言い捨てると、持っていた鍋をそのちゃぶ台へと下ろした。
「勇者よ。貴様には、我が調合の秘技と呪(まじな)いとを用いて作り上げたこの鍋の中身を馳走してやるわ」
「ま、まさか……調合とは、あの時の」
「左様。我が研究に没頭するあまり寝食を忘れ倒れるまでに至った――だがその甲斐あってついに完成形へとたどり着いた、究極の逸品よ」
勝ち誇った笑みとともに鍋の蓋を取り去る魔王。熱を帯びた鍋の中ではどろりとした深い錆色の液体とともに、動物の肉と、それに数種の植物とがその形を残すギリギリのところまで煮込まれ、えもいわれぬ香りを放っていた。
「これは、一体」
自身の理解を超える物体に、勇者はただ驚愕するばかり。
「これぞ我が魔力と知力を結集し、一昼夜を犠牲にして作り上げた、その名も――」
「そ、その名も……ッ!?」
「ビーフ・シチュウ!!」
「ビーフ・シチュウ!!??」
初めて耳にするその名に、恐れおののく勇者。魔王はそんな勇者の隙につけこむかのように、素早くまくし立てた。
「詰まりに詰まった肉と野菜の旨み、そしてそれをさらに引き立てるスパイス! 溢れ出る芳醇な香りには理性さえも無力であろう! これこそ我が作り上げし究極の料理ッ!」
「こ! この不気味な物体が料理だと!? しかし確かに食欲を刺激する香り、まさか、そんな!!」
「ククッ、すでに充分すぎるほど腹が減っている身ではとても耐えられまい。貴様にとっては最後の晩餐になるやもしれん、思う存分喰らうがいい!」
四畳半一間にキッチン・トイレ付、部屋の構造が全く同じなせいか、魔王は勇者の部屋に初めて来るにもかかわらず、てきぱきと食器を用意した。魔王の早業に圧倒される形で、勇者は錆色のそれを木匙で掬い取る。
「う、うまい!」
ほんのひと掬いを口に運ぶや否や、漏れたのは感嘆の声だった。
「全ての食材がしっかりと主張し合い、それでいて調和を乱さず口の中で柔らかくほどける。なんという旨さだ」
究極と豪語するだけあって、魔王作のシチューは絶品であった。しかし、何故ここまでの料理をわざわざ持って来たのか。ある恐ろしい想像が勇者の脳裏をよぎった。
「はっ、まさか、この中に毒を仕込んでいるのでは!?」
「わずかに残った財産を取り崩してやり繰りする我にとって、食は命そのもの。そんな勿体ないことなどせぬわ!」
どうやら毒殺を謀られたわけでははないらしい。それでも勇者は食い下がる。
「だが! この料理には呪(まじな)いがかけられているのだろう。やはり安心など……!」
「次は何かと思えば、そんなことか」
魔王は呆れた様子で肩を竦める。勇者を、知恵なきものを憐れむかのように。
「最後の仕上げ、『おいしくなあれ』のおまじないだ! これぞ究極の料理の最終工程に相応しい!」
「何……だと……ならばこちらとしても、美味しくいただかねば無礼というもの!」
勇者はようやく理解した。魔王はあくまで純粋に、夕食をおすそわけに来たのだと――。
そうと知った勇者がシチューを平らげるのに然したる時間はかからなかった。飢えていた体に滋養が染み渡るのを感じつつ、勇者は最後のひと掬いまで鍋の中身を食べきった。
食べた勇者も、作ってきた魔王も満足げだ。
「フッ、借りは返したぞ、勇者」
「魔王、お前まさか、そのために」
「王が借りを作ったままでは周りに示しがつかんからな。戦いは明朝、全力でぶつかるのを楽しみにしているぞ」
魔王はそう言い残すと、次の瞬間には空になった鍋とともに闇に消えていた。
そしてその次の瞬間には、隣の部屋から食器を洗う音が聞こえていた。
こうして、夜は静かに更けていった。
第三章
ついに迎えた、運命の日。
「それでは、ここに第五十九回村民運動会を開会いたします!」
誰とも知らぬ村民代表によって開会が宣言され、決戦の火蓋が切られた。戦うのは言わずと知れた勇者軍(白組)と魔王軍(赤組)である。団体戦が主ではあったが、直接対決の機会ともなれば両者より激しく火花を散らした。
「クッ、一日の大半を玉座に腰かけて過ごし、足腰が衰えておるわ……!」
「ハーッハッハッハ! 炭鉱夫の体力をなめるなよ! それほど速い方ではないが、徒競走はオレの勝ちだ!」
「アッ! 空を飛ぶとは卑怯なり、魔王!」
「戯言を! 玉入れに空を飛んではいけないというルールはない!」
「動かぬ……動かぬぞ! 拙い、下半身だけでなく上半身の筋力まで……おのれ勇者め!」
「魔力に頼りすぎ、もはや大玉を転がす力さえないか、魔王よ!!」
「引け、力の限り綱を引くのだ! あらゆる勝利の栄光は我らの為にある! 我らに仇なす者たちを引き摺り倒さんが如く引けいッ!!」
「凄まじい一体感だ、さすがに王を名乗るだけあって人並み外れた統率力を発揮している!」
そうやって、一日は瞬く間に過ぎ――。
「最終結果、発表! 今年の優勝は赤組です!」
運動会は魔王率いる――二人の中ではそういう設定になっている――赤組の勝利で終わった。
「オレもここまでか――ひと思いに煮るなり焼くなりするがいい、魔王」
「クク、断る」
項垂れ、くずおれる勇者に、しかし魔王はそうはしなかった。
「そのまま、無様に負けた勇者として惨めな伝説の生き証人となるがいい」
魔王は、勇者に生き恥を晒せというのだ。が、勇者もそれをよしとせず、負けじと声を張る。
「成程確かに今日は負けた。だがずっと敗北者のままでいると思うなよ。オレは勇者として、何度でも立ち上がってやる」
「望むところよ。その度に返り討ちにしてくれる」
完全に方向の間違っている熱量そのままに、二人は遠からずの再戦を誓うのだった。
エピローグ
勇者と魔王が凄絶な戦いを繰り広げた村民運動会から一週間ほどが過ぎ、両者とも、今なお隣人として互いを牽制し合っている。
というつもりで、当人たちはいるのだったが。
「カインさん、最近は子供に絡まなくなったんですって」
村人たちの井戸端会議で、ひっそりと勇者の名が挙げられていた。
「よかったわあ。もしかしてヤバイ人かしらと思ってたから……」
「どうも隣に越してきた、マオウさんとかいう人と仲良くしてるらしいべ」
あわせて魔王のことも、ひそやかに。
「ああ、あの人。根はいい人なんだけど、ちょっと変わってるというか」「よくあのバカの相手ができるもんだべ」
「似た者同士なのかしら?」
魔王をどう評してよいか悩んだ村人のひとりが、もっとも分かりやすい結論にたどり着いた。
「結局、二人ともバカなんだべ。バカの相手はバカにしか務まんねえべ」
村でそんな風に囁かれているなど露知らず、勇者と魔王の戦いは、なおも続いていったのである。