
夢の守り手
何のために生まれて、何をして生きるのか――。
誰もが一度は考えたことのある、正しく命題ではないだろうか。望まれる、また望まれざるによらず、誕生は偶然だったのかもしれない。命に意味を与えられるものがあるとすれば、唯一その生き様だけ、ではないのか。
やさしさの中で育ち、生きる喜びを分かち合い、自らもまた誰かのためにやさしくありたいと望むとき、それは愛とも呼ばれる。心のままに今この瞬間を生き、愛と慈しみをもって他者に手を差し伸べる彼の生き様はやがて、彼の手で救われた者たちによってその命の意味、存在の重要性が語られるはずである。彼の力なくしては存在しえなかった現実が、今も必ずある。
聖書に『人はパンのみにて生くるにあらず』という聖句がある。生きるためにはただ食べるだけによらず、神の言葉や信仰も同等かそれ以上に必要なのだと説かれる。また精神的支柱という意味において、それらを元に発生する夢や希望ととらえるのも、やや拡大解釈といえ大きな間違いではないように思う。
だがしかし、ほとんどの者は救世主のように強靭な精神を持ち合わせてはいない。あまりに腹が減れば嘆き悲しみ、命を全うする力そのものを失ってしまう。彼はそのような、ひもじい思いをする者たちのために進んでその身を犠牲にするのだ。今を生きる力を生み出す、生命力の根源となるパンを与えるのである。
光の当たるものがあれば影がついて回るように、悪魔またはそれに準ずる存在はどこの世界にも現れる。弱者からパンを奪い、心を傷つけ、夢や希望をも腐敗させる悪が民を脅かすとき、彼は皆を守るために力をもって対抗する。戦わなければ守れぬものががあると理解しているのだ。
生命の抱く夢、その先の未来まで――普段は微笑みを絶やさない彼も、その時が来ると躊躇なく拳を振り上げる。そして常に、命までは奪わない。やさしさと共に痛みをも知る彼の夢は、本当は共存なのかもしれない。たとえ運命がそれを許さなくとも。
時折、胸の内に秘めた心の傷が痛むのは戦いに疲れたからか……それとも、これまで彼によって救われたはずの人々の中にも、彼の存在を忘れていったり、悪意に染まってしまう者がいるから、だろうか。彼はやさしい。心に深い悲しみを湛えていても、その顔には微笑みを湛える。ごく近い者たちでさえ、真に彼を理解しているものは、本当はいないのかもしれない。
それでも彼は今この時を懸命に生き、心を熱く燃やしている。
なにものも恐れず、愛と勇気だけを友にして、皆の夢を――彼の世界の住人たちと、現実の子供たちの笑顔を守るために。
🥐
こちらの企画に参加しています⇩🌛
いいなと思ったら応援しよう!
