名字を履きかえる
結婚することになった。
相手とは3年余りいっしょに暮らしていて、当面引っ越すつもりもないので、特に生活が変わる予定はない。
では、届を出すことでいったい何が変わるのか。心構え的などうこうは置いておいて実務的な面でいえば、わたしの名字と、それに伴うあれこれである。
もとより結婚を望んでいたのはわたしのほうだったが、名字が変わることにはずっとナーバスな気持ちでいた。
別にめずらしい名字でもないし、仕事は旧姓のまま続けられる。彼の名字は響きがかわいいし、自分の名前ともしっくり合う。
でも、「アイデンティティの欠如」そして「別姓という選択肢がない」という二点において、わたしは憤っているのだ。というか、変えたくない理由なんてそれだけで十分でしょうがっ、と地団駄を踏みたいような気持ちである。
この世に生を受けてから27年間、ずっと自分の一部として当たり前にあったもの。
小学生になってはじめて、名字にさん付けで呼ばれたときの誇らしさ。好きな男子から呼び捨てにされたときの照れくささ。部活のコンテストの名簿に、受験票に、履歴書に、身分証明書に、手紙の署名に、日常のあらゆる局面でも人生の大切な節目でも記載してきた自分の名字。婚姻関係を結ぶにあたって、なぜそれを選びとることができないのか。
また、何事においてもそうであるが、最終的に行き着いた答えが同じだとしても「複数の選択肢がある」場合と「それしかない」場合とでは、納得感が変わってくるに決まっている。結婚したいけど双方名字を変えたくない場合、今の日本では「結婚しない」ことしかできない。
空腹で入った飲食店のメニューが、ラーメンとパンケーキの二種類だったときと、パンケーキしかなかったときのことを想像してみてほしい(?)。選択肢があれば「今日は甘いものの気分やからパンケーキにしよ!」となるかもしれないが、後者の場合は「なんで食事時にパンケーキ食べなあかんねん」と憤慨する可能性が高いのではなかろうか。
「友達はみんな『相手と同じ名字になれるの嬉しい』って言ってたけどなあ……」
自分が変えるという選択肢は持たないままでそう困惑する彼の話を聞くにつけ、「そんなん知らんしわたしは違うねん」と苛立つとともに、おそらく彼女たちが日本の多数派なのだろうと気が滅入る。
普段は価値観の似た人とばかりつきあっているのでつい忘れるが、我々がなんとか変えたい、それはおかしいと思っているものごとの大半について、世の大多数は「そういうもの」として受け入れ、疑いもしていないのだ。
その後、「『名字おそろいにできてうれしい♡』とかいう可愛げなくてごめんな」と、思ってもいないくせに卑屈に謝ったりもした。いやな彼女すぎる。
――突然ですが、今後わたしの「旧姓」「新姓」が乱立してわかりづらいため、仮に旧姓を「角田」、新姓を「津村」として記載します(誠に恐縮ながら、敬愛する作家のお二方より取らせていただきました)――
入籍(という言い方も実は正しくないのですよね、婚姻届を出した)直後のこと。
中高時代の友人がサプライズで結婚祝いを贈ってくれたとき、宅配便の宛名は教えていないのに「津村」になっていた。「旦那さんのSNS見てんけど合ってたかな?」というメッセージを添えて。
彼女とは数年会えておらず、当然「角田」時代のわたししか知らないはずなのに、なんだか不思議な心地がした。正直にいえば、かすかな違和感をおぼえた。でもわたしも内祝いを贈るとき、そういえば何も考えず彼女の新姓を宛名に記入したのだった。彼女の夫の方とは一度お会いしたとはいえ。
大学時代の後輩は、出会った頃からずっとわたしを「角田先輩」と呼んでいたくせに、結婚後に交わしたLINEでいきなり「優香さん」と送ってきた。8年目にして急に距離詰めるやん。
気遣いの巧である彼の逡巡が透けて見えたので笑ってしまう。突っ込むと、案の定「旧姓で呼ばれるのを嫌がられる方もいるので……」と葛藤していたようである。
先日、はじめての賞与面談があった。
事前に上司から送られてきたリストを見て衝撃を受ける。社内の女性の既婚率の高さ、そして旧姓で仕事をしている方の多さに。
なぜわかったのかというと、「角田(津村)」のように、旧姓の横に新姓が併記されていたからである。え、この方もこの方も結婚されていたのか。ひとり本社から遠隔で就業しているため、そもそも他部署の情報を得にくいせいもあるのだが、それにしても驚きの連続であった。名字を併記している社員の中には定年が近い方もいて、「旧姓で仕事をするのは若者の傾向」という勝手な思い込みに気づかされる。
そりゃそうである。社内外を問わず、かかわる人が多ければ多いほど、名前を変えない方が都合が良いことも多いだろう。
もちろん、変えたければ変えたっていいのだ。そうして活躍されている方だってたくさんいる。でも、じゃあなぜ「変えない」自由は得られないのかと問いたい。
それは何もキャリア面のみに限らない。くり返しになるが、「アイデンティティの欠如」を避けたいから、という理由だけでも十分ではないか。
しかし、嘆いていたって仕方がない。夫婦別姓は認められる気配がないし、わたしはもう改姓してしまった。
そこで取り入れたのが、「気分で名字を使い分ける」という方法である。仕事はもともと旧姓のまま続ける予定だったが、それ以外にも名字を名乗る機会はしょっちゅう訪れる。その際、気分で使い分けることにしたのだった。
玄関で足を突っ込んでみて「やっぱり今日はこれじゃないからこっちにしよう」と、ひょいと靴を履きかえるような、そんな感覚に近い。もしくはこの服にはこの靴、と無意識に手が伸びるような。
なんとなく、新姓はヒールのあるパンプス、旧姓はぺたんこのサンダルみたいなイメージがある。
銀行やクレジットカードの名義といったオフィシャルな事柄に加え、両家顔合わせのレストラン予約やうさぎを飼うときの誓約書など、ダイレクトに「家族であること」を感じるタイミングでも、そういえば無意識に新姓を名乗っていた。
対して、アパレルショップの会員登録や飲食店のウェイティングリストなど、どっちでもいいときはだいたい旧姓で記入する。なじんでいるから。落ち着くから。
このイメージが入れ替わったり統一されたりする日は、この先も来ないような気がしている。わたしは角田だ(角田ではないが)。そのことを周りの人にも忘れてほしくない。
未だに、結婚するとき名字を変えるのは約95%が女性なのだという。
ちなみに、「積極的に結婚したいと思わない理由」として、独身女性のうち20~30代の約4分の1、40~60代の約3分の1が「名字・姓が変わるのが嫌・面倒だから」と回答しているそうだ(出典:内閣府男女共同参画局)。これって結構な割合じゃないですか。
手始めに、女性側の改姓が当たり前なのだという意識を変えたい。何の疑いもなく「角田じゃなくなるんだね」と言われたとき、「手続きが面倒で変えたくないんですけどねー」と濁した過去の自分を、大げさなようだが救いたい。
本当はアイデンティティを喪うようでさみしかった。選択肢がないことに怒りを感じていた。でも、すっかりお祝いムードの中でそんなことは言えなかった。
「名字はどっちにするの?それともお互い今のまま?」
結婚を報告したとき当たり前にそう問われる世の中になるように、わたしは声を上げていきたい。気分で名字を履きかえるという、ささやかな遊びを享受しながら。