積極財政の終息(後半)
正しいことををすればま正しい答えが返ってくるという前提では、社会において自分が正しいのだから相手も正しいことをしなくてはいけないという考えになる。
自分がいくら理屈で正しいことを言ったとしても、そこから得られるギフトは少ない。これは「通常」のことだが、いろいろ聞かされて「少ない」と思うこともある。
積極財政派が、今の政府に対する不満を表現しようとして積極財政に至ったことは背景として重要であり、彼らの話のほとんどがそこへ遡及される。
今積極財政が経済回復の美旗を掲げていることを考えるとき、副次的な機能を持たせている、持たせたい誰かがいる。状況はそのときそのときで変わる、その為いつかトーンダウンしていくことになる。
最近の株価上げが普通ならば経済回復の兆しとなるはずが、株主優遇など格差拡大、低賃金と言った側面による評価に終始しているのも経済構造をかってに想像している可能があると思っている。
これらは社会保障の面から語られるものであればなんの問題もないのだ。しかし、社会保障を社会全体の構造を測る物差しにしてしまったのがそもそもの間違いなのだ。
全体がこけてしまうのが一番よくない。どう着飾って見えても「切り捨て」は今の資本構造の一部である。そしてこれは経済観念の中心的な構造だと再認識しなければいかなくなっているだろう。
最後に積極財政を頭から否定することはできない。それは経済を理解しようとしたときには基本の要素なのだから。
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