ひとりのじかん
誰かにアドバイスを求めたり
幸せになるための方法を100個ネットで拾ってくるよりも
まず耳を傾けなければならないのは自分の声だと言うことには、気づいている。
自分の心の声を聴くことは、習慣にならないと後回しにされ、サボってると、いつのまにか聴こえなくなる。あれ、どこいったー。
内側に向けて研ぎ澄ますことが大切だと知っていながら、つい外の世界へと救いを求めてしまうのが、不思議で面白いところ。
本当は、自分は答えを知っているんだと思う。
けど、知らないつもりで、どうしたらいいんだろうって、遠回りして。もう少し、悩んでいたいのかも。動き出すのが大変だから、モラトリアムを感じていたいのかしら。
そんな時はひとりになって
ゆっくり、ゆっくり、しずんでいく。
重力があって、下に引っ張られて、
やがてあたたかい海の底にお尻がつく。
そこで、自分がいま本当に思っていることや、思っているけれど実は口にできなかったことも、1人になって喋ってみると、結構発見がある。1人じゃないと、できない。恥ずかしい。誰も聞いてない場所で。お風呂の中は最適。
誰かといると、すぐ、いい子になろうとする。相手が望んでいそうな、自分を無意識に演じようとするから、1人にならないとできない。
「私はこうしたい!」という目標にむけて走ってきたけど、「本当にこっちだっけ?」と軌道修正が必要なような気持ちになる時もある。
1mmでも軌道がずれると、10年後には全然違うところに辿り着いてる。そこも含めてきっと人生は面白いんだけど、「なんか違和感だな」と思ったら、せめてそのシグナルに気づけるようにはしたいと思う。
それを知らせてくれるのが、不安だったり、ザワザワしたよくわからない感覚だったりするので、その感覚は嫌だけど、何か知らせてくれようとしてるなら、無視するわけにはいかない。(意外と今しなきゃいけないことを優先したり、めんどくさいと思ったら無視しがち。)
やはり、外よりも内に、身体と心に、目を向け、耳を澄ますことが大事なような気がしている。
言葉では形容しがたい、何とも言えない、子供の頃に感じていたような、胸の奥の少しの痛みと、ザワザワとした森のざわめきのような感覚に支配される日もある。
そんな日は、1人でいたくないけれど。でも、1人でいることが、とても大切な日だったり。
人と関わり、触れ合い、心を交わして、受け取ったもの、そこから湧き上がってきた感情を、咀嚼して、やすませて、発酵させる日です。
そういう日に、少しの、きらめきを含んだような、答えに辿り着く。
向き合いさえすれば、いつもそこには、出口がある。と、思うけれど、なかなかできないのが、人の常です。
(私のスーパー個人的なメモを共有)