わたしはわたしを捨てられないから
春の桜の甘い匂いが、鼻をかすめた気がした。
もう季節は春で、あまりにも春で、桜は散って、かすかに残っているのは葉桜だけだ。
川沿いを自転車で走りながら、私は、春の空気を肺いっぱいに吸い込んで、そして、これを一生吐き出したくない、と思った。
春はあたたかくて、心地よくて、わたしが、存在してもいいんだって、肯定していてくれるような気がする。
肺がピンク色になって、そのまま染まっちゃえばいいのにな。
ピンクの内臓って、かわいい。
大体の内臓はピンクだけど。
私の叔父は脳外科医で、毎日何件も手術をこなす敏腕医だった。
研究熱心な人だったから、従妹のうちでご飯を食べるとき、常にテレビには手術の様子をビデオに撮ったものが流れているのだった。
人間の脳を、一ミリ単位で動かしていく作業。
それを、食事をしながら平然として見ている従妹たち。
人間の心は、どこにあるんですか、と聞けば、脳だ、と即座に帰ってくるおうち。
わたしは不思議な心地で、カレーライスを口に運んでいた。
シャリ、と、煮え切っていないジャガイモを噛んだ音が、脳内に大きく響く。
脳って、心って、人間って、何なんですか。
生命について考える。
答えなど、出たことは、ない。
死んだ人のことについて考える。
答えなど、出たことは、ない。
わたしは、わたしを捨てられないから。
わたしはわたしと一生付き合っていかなくっちゃいけないから、
だから考える、わたしのこと、人間のこと。
嗚呼、お前はいいよな、わたしを捨てられて。
簡単にポイできて。
着信拒否、LINEのブロック、以上、廃棄、完了。
彼らの脳内から、私は完全消去される。
ねえ、そんなのってずるいじゃん。
わたしが、思うのは。
こうして生きてる価値など感じられないわたしが、わたしと付き合っていくために、どうしたらいいのかということ。
わたしは私自身から、永遠に逃れられないということ。
ウイスキーを流し込む。
わたしは本当は、わたしを捨てたくてたまらない。
散りぬれば恋ふれどしるしなきものをけふこそ桜折らば折りてめ
そう、わたしは、我々は、しるしが欲しくてたまらないのだ。
無くなってしまうなら、失ってしまうなら、折ってしまえばいい。
それを、飾ろう。ドライフラワーにして。標本にして。
ピンでとめて、ぎゅっと縮こめて、永遠に眺めていようじゃないか。
愛のカタチ。
我々には、とうてい予測のつかないような、愛のカタチが、世の中には驚くほどにあふれている。
あふれかえっている。
わたしは、時々目を覆いたくなる。
わたしも愛を知りたいから。
あのひとへ以外の、愛を、知りたいから。でも、知れないから。
さあ、みなさん、桜を、折りましょう。
あなたもとに、置いておきたいならば。
あなたが永遠に、愛していたいならば。
わたしには、そんな空恐ろしいこと、できないのだけれど。
愛が、永遠ならば。
人間も、永遠であってほしかった。
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