結局孤独が向いているのだ
結局わたしには、孤独が向いているのだ、と、ここ数日で実感している。
ゴールデンウィークに入り、わたしは親戚の家まで遊びに来ている。遊びに来ている、と言っても、どこへ行くわけでもなく、ただ、寝泊まりするだけ、だ。
山の奥にあるこのおうちには、テレビの電波も入らなくて、時々、ラジオを聴きながらおじさんが畑作業をしたりしている。山の中からけもの道を歩いて、ほとんど人のいない、だだっ広い畑地帯に出ると、何本か立っている案山子以外に、人、みたいなものはない。
鳴いている鳥が五月蠅くて、桜はもうすでに散っていて。
生暖かくて湿った風が不快だ。
雨は降ったり止んだりを繰り返す。しとしと、というより、ぼとぼと、と降る。屋根裏で眠っているとき、雨が降り出した瞬間の、屋根の音が好きだ。ぱたぱたぱた…から、だだだだだだだ、と変わっていく水の量。
わたしは、寝て、起きて、コーヒーを飲んで、他の人のためのご飯をつくって、夕食の支度をして、風呂を洗う。洗濯が終わったら、晴れているうちに干してしまう。そしてそのまま、木材を使って作業する。
それは、おうちにおいておくためのテーブルとか、椅子とか、そういう家具を自分たちで作ってしまう家だからだ。驚くべきことに、この家の人たちは、ベランダとその屋根まで自分たちで作ってしまう。
私は手先の器用さを見込まれて、よくペンキ塗りなんかの塗装を頼まれる。こればっかりは、得意、としか言いようがないのだけれど、家の人たちの数倍の速さで、ツルツルの新品みたいな塗装に仕上げることが出来る。
男に生まれていたら、左官さんになればよかったねえ、と、言われるたびに、ヘラっとわらう。
私に与えられている部屋は寝る場所とパソコンを置くスペースくらいしかないけれど、それで十分なのだ。わたしは、夜の遅くなった時間には、文章を書いたり、短歌をまとめたり、音楽を聴きながらゴロゴロしたり(最近のマイブームは、かぐや姫「22歳の別れ」)して、誰とも話さない。
おはようおやすみ、いただきますごちそうさま。
それくらいしか会話のない世界が、わたしにとっては、心地がいい。
結局わたしは、孤独が好きなのだ。
昔からそうだった。ぬいぐるみだけが友達で、誰に何を話すことも望まなかった。
もうあと数時間で、日が明ける。
気が付けばすぐに五月だ、次の月だ、そして新しい年号が始まる。
令和だ。
たぶんきっと、テレビでは、「平成最後の」という謳い文句で、さまざまな特別番組がやっているに違いない、と思っている。
(最も、わたしは普段から、テレビをつけることは殆どないので、バラエティー番組などのことは、よくわからないのだけれど。)
年号が変わろうが、世界で何が起きようがわたしたちの日々は廻っていくし、変わらない。
わたしはたぶん、平成に生まれて、ずっとそうであったように、令和に変わったとて、孤独を愛し続けるのだと思う。
さよなら。平成。本当は言いたいことがいっぱいあるけれど、お別れは潔く、ね。
もうすぐ、こんにちは、令和。君もきっといい年になるね。